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2018年3月

2018年3月31日 (土)

没後30年銅版画家 清原啓子(2)

Kiyoharapicture  「絵画」という作品。後の作品では、このように余白をたっぷりと空けることはなくなっていきますから、初期のスタイルが固まっていないところが分かるのですが、画面右下の珊瑚のように見える形状のものですが、細かな細胞のような粒々が集まって、このような形になっているものだろうと見えます。それは、蔓と同じように、この人の作品の中で頻繁に使われるパターンなのですが、この作品は比較的早い時期に現われたものと思います。珊瑚のようだと書きましたが、粒々のひとつひとつを点を一点ずつ打って陰影をつけたり、細かい線を何本も引いて、その一粒を描いていて、その細かさが驚かされます。そして、その粒々が増殖するようにしてできたのが、この形態というように見えます。だから結果として珊瑚のような外形ですが、細胞が増殖して異様な形になっていく、というイメージです。しかし、これはここで画像で見る限りでは、そのようなイメージが湧くことはなく、現物に近寄って、ループで粒々を見ていると、そのグロテスクさに気づくと。思いますこれに気づいてしまうと、気持ち悪くなると思います。そういう不気味さ、夢が突き詰められて爛れたような気持ち悪いところに突き抜けていく、そういうところが清原の作品には、あると思います。この作品には、それが部分的ですが直接露わになっていると思います。
Kiyoharakai  「貝殻について」という作品。一見ヤドカリに見えましたが、大きな貝殻と前部にロバの頭のような物が貝から半身をだしています。そして周囲には、「絵画」でも見た、粒々が増殖したような物体があります。粒はすこし大きくてフジツボのようにも見えます。ここでは、それもグロテスクなのですが、黒くみえるロバの頭のような物体。一見、黒く表面がスベスベの金属のような感じにも見えますが、この黒は微細な線を数えきれないほど、しかも幾何学図形のように平行な縞として引かれて描かれています。表面がスベスベに見えるということは、それだけ均質に細い線が引かれているからです。この頃の作品は、何が描かれているとか、画面全体を世界としてみるとか、そんなことよりも、とにかく、細かい作業、ひとつの点を打つ、一本の線を引くというひとつの作業の質の高さとその量の膨大さに圧倒されたという印象です。おそらく、清原という人が作品を制作するにあたって、異常に細かく点を打つ、線を引くということは制作のための手段とか技法を超えて、描く目的や動機となっていたのではないか、それは確かなことではないかと思います。そういうことが、後の代表作ではオブラートに包まれてしまっていますが、これらの作品には、直接現われていると思います。
Kiyoharapoet  「詩人─クセノファネス」という作品です。ここから、版画と下絵を並べて展示するようになります。私は作品を見る人なので、画家の制作過程には興味がなく、どのように作品ができあがっていくかなど見なくてもいい舞台裏を見させられたと思って、余計なものは見たくないと思うほうです。完成された作品を見ていればいいので、作者などというのは、その作品を同一かさせるブラントのようなもので、実際の人物といったことは作品を見る上では、むしろ邪魔と考えています。だから下絵を見せられるのは、余計なお節介で、下絵というのを作品として提示しているのならそれでもいいのですが、どうやらそうでもないらしいので、作品をじっくり眺めるには邪魔というのが正直なところです。ただ、下絵といえども、ここで展示されているのは、それなりに完成されたものと映って、描いては消したり、描きたしたりという試行錯誤の後のようなものは見られず、きれいに仕上げられているので、それなりではありますが。鉛筆で引かれた線もまた、版画の場合に負けないほど、細い線が無数にあったので、この人の作品というのは、基本的に点と線だけでできていて、そういうところで画面をイメージしている、というよりも、この人にとっては絵というのは点と線でできているものだ、ということが分かります。
 少し脱線が長くなりましたので、作品に戻りましょう。この作品は清原の作品には数少ない白と黒のコントラストがなされていて、白が映える作品です。版画であれば刷られていない紙の地の白いところが割合に多くて、それが白く映えているという、刷られているところより、そうでないところ、余白に視線がいく作品であると思います。白が映える余白とは言っても、一見白く見えているところ、背景以外のところは、細くて微かにしか見えないような線が引かれています。それゆえ、この白さが映えるのは偶然ではなく、作者がそうしたものです。他の作品では、余白を埋めつくように黒くなっているのですが、その数少ない例外と言えそうです。しかし、それではと、余白もあるし、描かれる対象である題名にもなっている詩人の姿はというと、木の蔓や茸や植物に覆われて殆ど隠れてしまっています。部分的に覗かせているというようになっています。この男には何本も矢が刺さっていて、縛られたような格好で矢が刺さっているという姿は、聖セバスチャンの殉教図の姿とかさなるところがあるのではないでしょうか。とくにバロック美術において、宗教的なテーマでありながら倒錯的なエロティシズムを同居させたような作品が多く描かれていました。しかし、清原の作品には、エロティシズムとか宗教的な法悦といった要素はなく、また、これだけ矢が刺さっているのだから痛いだろうにということもない。それは、人物を描いていても、痛みを感じるような身体性がない、もっというと、痛みを感じるような人の意識がない、生きていないのです。

2018年3月30日 (金)

内部監査担当者の戯言(3)

 2年前の会社法の改正によって監査等委員会設置会社という新しい会社の経営形態が生まれ、上場会社の3割以上が、それまでの監査役会設置会社から、この監査等巣委員会設置会社に移行しました。私の勤め先も、この3割の中に入ります。
 しかし、これが実際にやってみると運営面でなかなか難しい問題が出てきます。この制度については、多くの著作や監査等委員のためのセミナー、コンサルティングあるいは監査役協会などでのマニュアル等がでています。しかし、それらは考え方や立案する形式的な手続についてしか触れられておらず、実際に運営していくという実務的な視点では考えられていないということがよく分かります。
 実際のところ、監査等委員会設置会社に移行した会社の大部分はジャスダックや東証二部の大企業ではない会社が多く、社外取締役の導入に対するプレッシャーが強くなってきて、監査役会設置会社でいると社外監査役2名のほかに社外取締役を選任すると社外役員が最低でも3人は確保しなければならなくなるのに対して、監査等委員会設置会社にすると社外取締役2名だけですむ。しかも、コーポレートガバナンス・コードでは社外取締役の2名以上でないときは理由を説明することといったことから、監査等委員会設置会社に形式上は移行して、中身は従来と変わらないという場合が大部分のようです。だから、そういう会社は運営の問題などは気にしない。それゆえに、そのような問題点があまり表立って議論されないのではないかと思います。著作を書いた先生方やコンサルタントやセミナー講師は、実際に実務面での問題を想定できないだろうし、その解決の答えを見つけることはできそうもないから、敢えて問題を掘り起こすことはしないのではないか、と勘繰ったりもします。
 例えば、実務上の問題として監査等委員が、その職務をサボろうとしたら、いくらでもそれが可能だということなのです。裏側から見ると、監査等委員が頑張って職務に打ち込もうとする動機づけは制度の形式的な面からも、実際の監査等委員をめぐる環境から(監査等委員にはおとなしくしてもらったほうがいいというのが本音の経営者が多いでしょうから)も、業務執行取締役を頑張らせる仕組み(インセンティブとか)はあっても、監査等委員を頑張らせる仕組みはないでしょう。逆に社外取締役の場合は、報酬も少ないし、しかし、取締役の責任は平等に負わされる。しかも、業務執行取締役であれば会社の業績が悪ければ任務懈怠を問われますが、監査等委員の場合には怠けていて監査の指摘をしなくても平和はよいこととして任務懈怠を問われないということがあります。
 したがって、監査等委員は、取締役会には欠席しないなどの形式的なことだけやっていれば、あとはボロが出ないで無難に過ごせるわけです。仮に、何か事件が起こった場合でも、決定的な逃げ道があります。それは、監査等委員は監査の実務を自分でやらないで会社の内部統制システムを使う、つまり、会社の担当者に指示して監査させて報告を受けるという方法ですることになっています。だからも何か事件があって事前にチェックできなかったことに対する責任を問われた場合、内部統制システムが機能していなかったとして、会社の担当者に責任をなすりつけることができてしまうけです。監査等委員には情報が届かないようになっていた、と言えてしまうわけです。
 実際の実務の場で、社外取締役は会社のことをよく知らないので、理解してもらうためにレクチャーをしたりしていますが、当の社外取締役はそのレクチャーに関して難しくて理解できないと、ずっと言っていれば、事件があったときに、会社のことは理解できないし、情報が伝えられていなかった、と言えてしまうのです。
 こんなことを述べているのは、実際に私自身が現場で苦労しているとは、こんなことを言うと、実在の監査等委員への中傷になってしまいかねないので、

2018年3月29日 (木)

没後30年銅版画家 清原啓子(1)

2017年12月八王子市美術館
 この展覧会については、以前に、何かの折に知って興味を持ったのは確かですが、その後、忘れていました。それが、この前日に用事に向かう途中で、偶然この展覧会のポスターを見て、今週中で会期が終わってしまうことに気がついてしまいました。この美術館は、職場から比較的近いところにあり、午後7時の閉館ということなので、仕事を終わらせて駆けつければ、1時間程度は見ることができると計算がつきました。
Kiyoharapos  この美術館は八王子の駅から15分くらい歩いた、いわば駅の外れの位置ですが、商店街で1階にスーパーマットが入っている雑居ビルの2階の一部のスペースをつかっています。公民館の分館のような雰囲気です。このような場所で、平日で、時間も閉館1時間前ということで閑散としているかと予想していましたが、数人の来館者がいて、この画家のファンはけっこういるのだということが分かりました。それも、来ていた人には老若男女の偏りがなくて、バラエティに富んでいました。適度な人影があるので、静かな中で、緊張感もあるという、割合にいい雰囲気だったと思います。
 さて、清原啓子という人については、展覧会のパンフレットに書かれている紹介を引用します。 “銅版画家、清原啓子(1955年~1987年)が、その短い生涯の中で残した作品は僅か30点。久生十蘭や三島由紀夫などの文学に傾倒し、神秘的、耽美的な「物語性」にこだわった精緻で眩惑的な銅版画は、没後30年を経て、今なお人々を魅了しています。本展覧会では、夭折の銅版画家として伝説的に語られる清原啓子の全銅版画と、銅板の原版及び下絵素描、最後の完成作「孤島」の制作過程を示す試刷り、制作ノートなど、未発表を含む様々な資料を展示します。また、彼女が影響を受けたヨーロッパの画家・版画家(ジャック・カロ、ギュスターヴ・モロー、ロドルフ・ブレスダン、オディロン・ルドン)の作品を紹介し、清原の制作の源泉をたどり、その全貌に迫ります。”
 私の展覧会の感想は、こういう引用で一般的な画家像を紹介して、私個人は必ずしも(というよりは大抵)一般像の通りに受け取るわけではないので、その一般像と異なるところを述べていくというやり方をしています。だから、この引用は、私の感想を述べるための便宜程度に思っていただければ結構です。清原啓子という画家像について簡単に大雑把に感じたイメージを述べておくと、この人の作品は、ここにこういうアレがあって、コレをあのように描いていてと、比較的言葉で説明し易いところがあります。そうして語った言葉を後で反芻すると物語の場面を語る言葉のようになっている、というのが彼女の作品の物語性ということではないかと思います。というのも、彼女の作品の画面には物語的な動きがなくて、止まっている状態なのです。それと、画面に登場する人物は一人で、人と人との関係は画面にはありません。だからドラマは生まれないのです。彼女の伝記的事実からは読書家で、作品を小説の表紙に使われたとか、画家本人もノートに言葉をたくさん残したということから、そういう捉え方がされるのかもしれませんが、そういうことを抜きにして、虚心に作品の画面から物語を感じることは、私の場合は、ありませんでした。ただ、画面を言葉にしやすいということと、画面が展開したり、深められるという動きが感じられないということなどから、この人の作品は、それ自体で独立、自立していて画面を見るだけでいいというのではない、画面外の何かに依存しているところがあることは否定できないと思いました。ただし、それは物語ではありません。何と言ったら言いか、例えば、いわゆる少女趣味といったらいいのでしょうか(かなりオジサン的なアナクロの言い方になりますが)、今はあるのか知りませんが、昭和の頃の少女雑誌の投稿欄などによくあったポエムつきのイラストに通じるようなテイストではないか。もっというと、この人の作品は、普通は少女時代が終わると卒業してしまうところに、ずっと居続け、それを突き詰めていったものという印象を強く持ちました。ある意味、一時期の少女マンガに近い世界です。閉じられた空間の中で内面と外観の協会が溶解し、その反面で世界を濃密にしていく。だから、見る人を選ぶことになるし、私には、その世界に入り込めない感じを持ちました。その一方で、こういう世界は嫌いではありません。
 では、個々の作品を見ていきたいと思います。展示は、初期の習作以外は版画作品と鉛筆の下絵を2枚並べて展示してありました。2枚を見比べると、清原が頭の中で描いた作品を想像できるという展示だったと思います。また、フロアの真ん中には参考として、画家のノートと試し刷りを繰り返して完成までに手を加えられていった形跡を追いかけることができるようになっていました。ただし、私は出来上がった画面を見て、あれこれ考える見方をするので、作品以外はどうでもいいので、ほとんど見ませんでした。
Kiyoharabird  最初の「鳥の目レンズ」という作品は画面を4分割した連作のような作品ですが、鳥にだんだん視点が近寄っていって、最後は眼に接近して水晶体を顕微鏡でみるように拡大して描いたという作品です。その水晶体のレンズが網目で描かれているのですが、その微細さがすごい。この微細に描くというところが清原という画家の特徴なのではないかと思います。私は銅版画という分野に詳しくはないのですが、有名な作品ではドイツ・ルネサンスのデューラーの作品、例えば「メランコリアⅠ」という作品などは、細かいところまで詳しく描かれていて、もともと銅版画というのは中世以来、細かい作業なのだとは思いますが、それにしても清原の場合は、銅版画という表現方法で筆をつかって面で絵の具を塗るということができずに、銅版に傷をつけた線で描くしかないので、面を表わすために細かい線を無数に引いて面に見せるという必要を超えたところで、それ以上の細かさを自発的に追求しているということが、この作品の眼のレンズを見ていると、そういう姿勢が剥き出しに表われていると思います。
 また、清原の作品に頻繁に登場する網や蔓に覆われるというパターンが、この最初期の作品から見られるということで、この網目の細かい線を一本一本精緻に引いていたということが、この人の嗜好が当初から備わっていたことが分かります。

2018年3月28日 (水)

内部監査担当者の戯言(2)

 すべてのことを正確に把握しているわけではないので的外れであるかもしれないし、私の主観的な偏りが認識を歪めているかもしれません。財務省の文書改竄ということで証人喚問になっている事件に関して妄言します。もともとは、保有資産を売却するときに正当な価格でなかったと、そのことについてちゃんと説明しなかったのかということが、すごく単純化して乱暴かもしれませんが、この事件ではないかと思います。
 これをもし、上場企業がこんなことをした場合はどうなるかという比較をすることも乱暴な議論ですが、ちょっと考えてみたいと思います。まず、保有資産の売却を正当な価格で行わなかったのであれば、それは会社にとっての損益に影響するわけで、資産管理をちゃんとしているかどうかですから、これは内部のある部局が独断でやったとしても、それをチェックできなかった内部統制上の問題として、統制できなかったトップの責任が第一に問われる。しかも、会社にとって国会に当たるのは株主総会でしょうから、そこで偽証した、あるいはそこでの発言を糊塗するために文書を改竄したということであれば、株主総会は無効ということになってしまいます。ということは、会社の行った資産の売却を含めた会社の年間の結果について承認されないことになりかねません。また、この偽証や文書の改竄を理財局という一部が単独でやったことなどと会社が公言すれば、それをコントロールできない会社の体制、それをつくった経営陣やトップの問題となるはずです。官庁とか政府っていうのは、そういう考えはないのでしょうか。理財局が単独でそういうことができるのであれば財務省として統制することができないと、財務省自ら公言していることになると思います。管理できないのであれば財務省が原因究明を自らできるわけがないので、間接的にできないと財務省自身が公言していることになることは論理的に言えると思います。これって、役所には内部統制の機能がないということなのかもしれないと思います。上場企業は、内部統制ができないと分かれば株価が下がってしまいますが、国の役所が内部統制できないことがはっきりしても、国債の格付けは下がらないのでしょうか。しかも、国債を発行している役所ですよね。

2018年3月27日 (火)

内部監査担当者の戯言

 2010年に、このブログで当時、仕事で担当していたIR(上場企業の投資家公報)について、色々と考えたことや思いを綴ることを始めて、2013年に後輩に道を譲ることになって、一時綴ることを休んでいました。
 今、内部監査の部署(とはいっても、私の勤め先は大きな会社ではないので、部署とは名ばかりで、メンバーは私一人なのですが)にいます。前のIRの時もそうだったのですが、この業務も会社のなかでは、それまでやっていなかったことを、新たに始めるということになって、あらたに業務の体制とか手順をひとつひとつ作っていきました。そうしているうちに、現在は、何年も経って、だいたいパターンができてきて、暗中模索の毎日ではなくなってきたのですが、そこで、内部監査とIRというふたつの業務が意外と共通点が多いと考えるようになってきました。もとより、私の場合は後任の内部監査人とかいった資格をとったりとか、ちゃんとした正規の勉強をしたわけではないので、普通の内部監査ということとはズレているとは思いますが、そのへんのこと少しずつ、IRのことを考え綴っていたように、性懲りもなく、また、同じようなことをしてみようかと思います。

2018年3月26日 (月)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2017(11)~年次総会(2)

 我々は同じ3人の財政的ジャーナリストに再び会議で質疑応答期間を導かせます。そして、チャーリーと私に株主が電子メールで彼らを受け入れたという質問をします。 ジャーナリストと彼らの電子メール・アドレスは、以下の通りです:抜群のビジネス・ジャーナリストであるキャロル・ルーミス;ニューヨーク・タイムズのアンドリュー・ロス・ソーキン;CNBCのベッキー・クイック。
 寄せられた質問から、各ジャーナリストが面白い、重要だと決めた6つを選びます。皆さんの質問は簡潔で、時間ぎりぎりの提出にならないようにして、バークシャーに関係していて、1通のメールに2つ以上の質問が入っていなければ、選ばれる可能性があるとジャーナリストは、私に話してくれました。(電子メールには、質問が選ばれた時に質問者である皆さんの氏名を明かしてよいかどうかを書き添えて下さい。)
 質問に付随してバークシャーをフォローする3人のアナリストから質問されます。今年の保険の専門家はダウリング&パートナーのゲイリー・ランソンです。保険以外の部門に対する質問はルーアン・クネフ・アンド・ゴールドファーブのジョナサン・ブラントそしてモーニング・スターのグレッグ・ウォーレンからだされます。株主総会であるので、我々の望みは、アナリストとジャーナリストが、我々のオーナーの理解と彼らの投資についての知識を高める質問をするということです。
 チャーリーも私も質問へのてがかりも表題もありません。我々はいくつかがタフであることをしっており、それを我々は望んでいます。すべてにわたる質問は許されません。われわれはできるだけ多くの質問者に答えたいと思います。我々の目標は、皆さんが来たときよりもバークシャーについてもっと知ってからミーティングを終わり、オマハにいる間に楽しい時間を過ごすことです。
 我々は少なくとも全部で54の質問があると思っています。それぞれのアナリストとジャーナリストから6個ずつ、会場から18個を考慮に入れてです。54番目以降の質問は、すべて会場の皆さんから受け付けます。チャーリーと私は3:30まで60以上の質問に取り組むことになります。
 会場で観衆からの質問者は、年次総会の午前8時15分に会場の11の区画から選ばれます。アリーナと主な副会場に11本のマイクがセットされ、区画で話す助けをします。
 チャーリーと私は、株主がみな利益を得ている知識に関して、新しいバークシャー情報に同時にアクセスするべきでありさらにそれを分析する適切な時間を持っているべきである、と信じます。それは、我々が金曜日の市場終了近くに財務情報を出し、土曜日に年次総会を行う理由です。
 我々は、機関投資家やアナリストとの1対1のミーティングを行いません。そして、我々が他のすべての株主を代表として彼らを扱います。我々にとって自身の蓄えの相当な部分を任せる有限の株主以上に重要なひとは、誰もいません。
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 マネージャーたちを私がほめたたえるのは正当なことです。彼らこそ、本当のオールスターです。あたかもそれらがそれらの家族によって所有されたただ一つの長所かのように、彼らはそれらの事業を営みます。私は、それらの考え方が大きな公営企業の宇宙で見つけることができるのと同じくらい株主指向であると考えます。実際に働く際には金融的なことは必要ありません。ビジネスでホームランを打つ喜びはかれらには給料を受け取る以上なのです。
 マネージャー(または取締役)がバークシャーの株式を所有している多くの場合、彼らはオープンマーケットで購入したものであり、彼らの事業を当社に売却した時点で株式を受け取ったからです。しかし、下位のリスクを冒すことなく、所有権の恩恵を受けることはできません。当社の取締役およびマネージャーは、皆さんと同じ立場を身を置いています。
我々の本部にすばらしいグループがいます。このチームは、効率的にSECその他の調整や多数の必要条件に対応し、32,700ページの連邦法人税申告の準備をしています。彼らは州政府への所得申告の3,935のファイルを監督し、無数の株主およびマスコミの調査に応答する、年次報告を作成し、国の最大の年次会議に備えて委員会の活動を調整し、この手紙をチェックをしています。それには順調です。
 彼らは陽気に信じがたいほど効率的に、これらのビジネス作業すべてを取り扱います。そして、私の人生を安楽で楽しくします。彼らの努力は厳密でバークシャーの関連範囲を上回ります。昨年、200の申し込みから選ばれた40の大学から来た大学生のQ&Aの対処をしてくれました。彼らはまた、私が受け取るありとあらゆる提案書を取扱い、旅行の手配をし、私の昼食のためのハンバーガーとフライドポテト(もちろん、ハインツ・ケチャップをたっぷりとつけて)の用意もしてくれます。さらに、毎年開催される当社の才能豊かな舞台監督であるキャリー・ソーバが、株主の皆様におもしろく楽しい週末をお届けします。 彼らはバークシャーで働くことを誇りに思い、私は彼らを誇りに思っています。
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 私は幸運な男です、この優秀なスタッフ、非常に才能のある経営マネージャーのチーム、非常に賢明で経験豊富な監督のボードルームに囲まれていることは、とても幸運なことです。5月6日にオマハ(資本主義の発祥地)に来て、バークシャーバンチに会いましょう。 私たち皆、お会いできるのを楽しみにしています。

2018年3月25日 (日)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2017(10)~年次総会(1)

 5月5日に開催される年次総会は、Yahoo!のウェブキャストで今年も配信され、Webアドレスは
https://finance.yahoo.com/brklivestream
 です。ウェブキャストは、午前8時45分(中央夏時間)にライブ配信されます。ヤフーは、会議前と昼休み中に取締役、経営者、株主および有名人にインタビューする予定です。 これらのインタビューとミーティングは、同時に北京語に翻訳されます。
 我々のYahoo!との提携は2016年に始まり、株主は熱狂的に応えてくれました。昨年、リアルタイム視聴者数は約72%増の約310万人、短縮版の再生回数は1710万人でした。
 会議に直接出席する方はセンチュリー・リンクのドアが土曜日の午前7時に開かれ、株主総会の前に買い物をすることができます。株主総会の説明映画は8:30から始まります。質疑応答は9:15から3:30まで続き、正午には1時間の昼休みがあります。 最後に、3時45分に正式な株主総会を開始します。 それは通常15分から45分ほどかかります。 買い物は4:30までです。
 5月4日の金曜日、センチュリー・リンクでわがバークシャーの出展者たちは正午から店開きして午後5時まで営業します。我々は2015年から買い物の時間延長を追加し、じっくり買い物をしたい人々に歓迎されました。昨年は、この金曜日の5時間でおよそ12,000人が来場しました。
 皆さんのショッピングには会場に隣接する194,300平方フィートのホールで何十ものバークシャーの子会社の製品が揃えられています。そこで多くの店を開いているたくさんのバークシャーのマネージャーたちによろしく。そこには、素晴らしいBNSF鉄道のレイアウト・ジオラマもあります。お子さんたち(みなさんも)うっとりしてしまいますよ。
 ブルックス(ランニング・シューズの会社)は、会議のために特別に提供する記念のシューズを今年も販売します。一足購入して、翌日の8時にセンチュリーリンクでスタートする第6回の“バークシャー5キロ”レースにそれを履きましょう。参加のための詳細については、会議の参加証明書に添付して皆さんにお送りするビジターズガイドに書かれています。レースに参加すれば、バークシャーのマネジャーや取締役や仲間と一緒に走ることができます。(しかし、私とチャーリーは、その時間は朝寝坊することでしょう。ブルックス・ランニングシューズでさえ、我々の時間はきまりが悪いです。)5キロレースの参加者は年々増加しています。新たな記録を作りましょう。
 ガイコは、国中から何人かの最高のカウンセラーの職員をショッピング・エリアのブースに置いているようにします。昨年の会合では、2016年から43%増のセールスを記録しました。今年も再び上がると予測しています。
 ぜひ立ち寄ってみて下さい。ほとんどの場合、ガイコは、皆さんに通常の8%の株主割引をすることができます。この特価提供は51の管区のうち44で許されています。今ご利用の保険の詳細を持ってきてくだされば、我々が保険金を節約できるか否かにかかわらず、チェックします。少なくとも、半分の方には、保険金を節約することができると思います。我々は皆さんの節約に協力できます。そして、他のバークシャー製品に貯金を使ってください。
 ブックワームを必ず訪問してください。このオマハに本拠を置く書店は何冊かの新刊を含め40冊以上の本とDVDをお届けします。バークシャーの株主は書店の夢です。“Poor Charlie's Almanack”(そうです、我々のチャーリーの著作です)が昨年出版されたとき、我々はここで3500部を売りました。本は4.85ポンドの重量です。私たちの株主はその日、約8.5トンのチャーリーの知恵を持っていた建物を出発しました。
 会議と他のイベントに入場するために必要とする証明書をどのように取得するかについて、レポートに同封した会議の招集通知が説明しています。大部分の航空会社は、バークシャの週末の間に、料金を値上げします。もし、遠くから来られるのなら、カンザスシティーとオマハに飛ぶ場合のコストを比較して見て下さい。ドライブは、2.5時間です。カンザスシティではお金を節約できます。一組のカップルで1,000ドル以上の節約ができることでしょう。我々と一緒に、その分のお金を使いましょう。
 ネブラスカ・ファニチャー・マートは、ドッジ・ストリートとパシフィック・ストリートの間の72番街に77エーカーの敷地にありますが、「バークシャーの週末」特別割引を再びやっています。NFMでバークシャー割引を受けるためには、5月1日の火曜日から5月7日の月曜日の間に買い物をし、さらに、その時に年次総会の証明書を提示しなければなりません。昨年は、1週間の売上が4460万ドルという驚異的なものでした。煉瓦とモルタルでしたらNFMによいものがあります。
 この期間の割引は、通常なら値引きに応じないような名門メーカーの製品に対しても、我々の株主のための週末の趣旨により、特別な例外を行ないます。我々は彼の協力に感謝しています。「バークシャーの週末」の期間、NFMは月曜から金曜の午前10時から午後9時、土曜日の午前10時から午後9時30分、日曜日は午前10時から午後8時まで営業しています。今年は土曜日の午後5時30分から午後8時に皆さん全員を招待してピクニックを行います。
 NFMは、今年も、カンザスシティとダラスで株主への割引販売を行います。 5月2日から5月8日まで、会場の資格情報やバークシャーの所有権(仲介明細書など)を現地のNFMストアに提示する株主は、オマハ店を訪れる人々が楽しむのと同じ割引を受け取ります。
ボルスハイムズで株主のみを対象とした2つのイベントを再び開催します。最初は、5月4日金曜日の午後6時から9時のカクテル・レセプションです。第2の、メイン・ガラは、5月6日の日曜日に開催され、土曜日の午前9時から午後4時まで、我々は日曜日の6時まで開いています。より買うほど、あなたはより節約します(または我々が店を訪問するとき娘が私に言うように)
 週末を通してボルスハイムズには巨大な群衆が集まるでしょう。従って、ご参考までに、株主価格は4月30日の月曜日から5月12日の土曜日まで可能です。その期間中、バークシャーの株主であることを会議の招集通知が仲介証明書を提示して、証明してください。
日曜日の午後にボルスハイムズ最上階のフロア、我々は世界最高のブリッジのプレイヤーであるボブ・アマンとシャロン・オスバーグの日曜の午後に二人が株主の皆様とブリッジができるのです。彼らがゲームに賭けることを提案すれば、課題を変えてください。また、アジットとチャーリー、ビル・ゲイツも同様です。
 私の友人、アリエル・シンが日曜日にモールにきて、卓球の挑戦者を募ります。彼女が9歳の時に、私は相対しましたが、1点も取ることができませんでした。彼女は、2012年のオリンピックのアメリカ代表です。恥をかくことを気にしないのであれば、ご自身の技術を彼女に試してみましょう。午後1時に始めます。ビル・ゲイツは昨年、アリエルをうまくやったので、彼女に再度挑戦する準備ができているかもしれません。
 ゴラットは、5月6日の日曜日にバークシャーの株主のために空席を設けています。ゴラットは12時の開店から午後10時までです。ゴラットの予約は4月2日(それ以前は駄目です)に…に電話してください。あなた がハッシュブラウンズ で Tボーン を注文する ことによる 洗練された 食事客 である ことを示してください。

2018年3月24日 (土)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2017(9)~賭け」は終わり、意外な投資の教訓を得た(2)

 賭けは別の重要な投資の教訓に光をあてました。:市場は通常は合理的ですが、時には狂ったことをする。その機会をつかむには、偉大な知性、経済学の学位、アルファやベータなどのウォール街の専門用語に精通している必要はありません。その代わりに時投資家が必要とするのは群衆の恐怖や熱狂を無視し、いくつかの単純な基本に集中できる能力です。持続的な期間、愚かに見えようとも、平凡をいとわないことは、不可欠です。
 もともと、プロジェテと私はそれぞれ、50万ドルのゼロクーポンの米国財務省債(「ストリップ」と呼ばれることもある)を購入することによって、最終的に100万ドルを手に入れるために必要な資金を調達しました。これらの債券に、我々はそれぞれに318,250ドル費やしました。1ドルで64セント未満となり、 10年間で50万ドル支払われることになるものです。
 この名前が示すように、私たちが取得した債券は利息を支払わなかったが、(購入した際に割引をうけているために)満期まで保有していれば、年率4.56%のリターンを得ることができます。プロジェテと私は当初、毎年のリターン以上のことは集計しないで、2017年後半に満期を迎えたときに、慈善団体に100万ドル寄付するつもりでした。
 しかし、購入した後、債券市場ではいくつかの非常に奇妙なことが起こりました。2012年11月までには、満期まで約5年となっていた我々の債券が額面金額の95.7%で売られていました。 満期までの総利回りは1%未満で、正確には、0.88%でした。
 それは哀れなリターンとなりましたが、我々の債券はアメリカの株式投資に比べて、本当に開いた口がふさがらないような投資になってしまいました。時間が経つにつれて、S&P 500は市場価格によって適切に重み付けされたアメリカのビジネスの巨大な断面を映し出し、 株主持分(純資産)に対して年率10%をはるかに越える収益率となりました。
 2012年11月には、我々はこのすべてを考慮したとき、S&P500の配当金からのキャッシュ・リターンは、米国財務省債の利回りの約3倍の2.5%となっていました。これらの配当金の支払が増加することは、ほとんど確実でした。それ以上に、 これらのS&P 500企業は、莫大な金額を保留していました。利益剰余金を使用して事業を拡大し、しばしば自社株を買い戻すことになります。いずれの場合も、時間の経過とともに、1株当たり利益が大幅に増加します。1776年以来、何か問題があっても、アメリカ経済は前進し続けてきました。
 2012年後半に債券と株式の間の並外れた評価ミスマッチが現われたので、プロジェテと私は、5年前に購入した債券を売却し、その収益で11,200株のバークシャーB株を購入することに同意しました。 その結果、オマハのGirls Inc.は、当初希望していた100万ドルではなく、先月2,222,279ドルを受け取りました。
 バークシャーは、その2012年の買い替え以来、素晴らしい業績を上げていないことを強調しておかなければなりません。しかし、輝く必要はなかったのです。結局、バークシャーの利益は年率0.88%の債権を打ち負かしていたに過ぎないものでした。ヘラクレスのような成果ではありませんでした。
 債権からバークシャー株式に換えたことの唯一のリスクは、年末の2017年末の非常に弱い株式市場と重なってしまうことでした。プロテジェと私はこの可能性(常に存在する)は非常に低いと感じていた。この結論には二つの要因がありました。バークシャー株の2012年末のリーズナブルな価格であることと、賭け金が決済されるまでの5年間にバークシャーで発生することが実質的に確実な大規模な資産増強があることです。たとえそうであっても、買い替えからの慈善団体への全てのリスクを排除するため、2017年11月のバークシャー株式11,200株の売却が少なくとも100万ドルを生み出さなかった場合、私は不足額を補填することに同意しました。
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 投資とは、後日、より多くの消費を可能にするために、今日の消費をひかえる活動です。「リスク」は、その目的が達成されない可能性です。
 この基準によれば、2012年の「リスクのない」の長期債は、普通株への長期投資よりもはるかにリスクの高い投資でした。 当時、2012年から2017年の間に年間1%のインフレ率であっても、プロテジェと私が売却した国債の購買力は低下していたでしょう。
 これからは日、週、または年の期間でも、短期間の米国債よりも株式投資の方がはるかに危険性が高いとすぐに認めたいと思います。しかし、投資家の投資期間が長くなるにつれて、株式が当時の金利と比較して賢明な利益の倍数で購入されると仮定すれば、アメリカ株式の多様化したポートフォリオが、債券よりも徐々にリスクが低いものとなります。
 年金基金、大学基金、貯蓄を志向する個人といった長期的な視点を持った投資家にとっては、ポートフォリオの株式に対する債券の比率によって、投資の「リスク」を測定することは、大きな間違いです。 多くの場合、投資ポートフォリオの中の格付けの高い債権はリスクを増大させます。
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 我々の賭けからの最終的な教訓です。:大きな始点の「簡単な」判断をもち続け、活動を慎むということです。10年の賭けの間、関わった200人以上のヘッジファンドマネージャーは、最終的に何万者の売買の判断をしました。ほとんどのマネージャーたちは、疑う余地なく判断の際に熟考していました。彼らは、それぞれ有利な判断であったと信じています。投資の過程で、彼らは10-K(有価証券報告書)を調査し、経営陣にインタビューし、業界紙を読んで、ウォールストリートのアナリストと相談しました。
 一方、プロジェテと私は、10年の間に1度だけ、研究と洞察や才能に頼らず、投資判断をしました。我々は債券投資を100倍以上の利益(95.7販売価格/ 0.88利回り)となる価格で売却することにしました。この価格は、今後5年間は増やせない「収益」です。
 我々は、バークシャーの単一の証券に資金を移すために売却を行いました。これは、多様な堅実な事業のグループを所有することになります。利益剰余金に支えられて、バークシャーの価値の伸びは、我々がまあまあの経済を経験することになっていたとしても、年間8%を下回る可能性は低かったのです。
 この幼稚園程度の分析の後、プロジェテと私は債権から株式への買い替えを実行して、ほっとしました。その時、時間の経過とともに、8%は0.88%を上回ると確信していました。

2018年3月23日 (金)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2017(8)~賭け」は終わり、意外な投資の教訓を得た(1)

 去年の90%の段階で、私は2007年12月19日に起こした10年間の賭けに関する詳細なレポートを提出しました。(昨年の年次報告書での議論の全文は24~26ページに掲載されています)現在、私は最終的な集計をしました。そして、いくつかの点で、それは目が離せないです。
 私が賭けをしたのは、次の2つの理由からです。:(1)318,250ドルを不釣合いなほどに大きな金額に投資する - もし私が期待した通りにうまくいけば、2018年初めにオマハのGirls Inc.に分配するためです。そして(2)管理対象外のS&P 500インデックスファンドへの実質的に費用のかからない投資である私の選択は、時間の経過とともに、ほとんどの投資専門家が達成した結果よりも良い結果をもたらすだろうという私の信念を公表するためです。
 この問題に対処することは非常に重要です。アメリカの投資家は毎年アドバイザーに莫大な額を払い、しばしばいくつかのレベルで重大なコストを負うことになります。 全体として、これらの投資家は支払ったお金に見合った価値を得ているのでしょうか?確かに、再び全体として、投資家はアドバイザーへの支出から何かを得ているのでしょうか?
賭けでの私の相手方であるプロテジェ・パートナーズは、S&P500のパフォーマンスを上回ると予想される5つの「ファンド・オブ・ファンド」を選びました。5つの「ファンド・オブ・ファンド」はサンプルとして小さなものではありませんでした。その5つのファンド・オブ・ファンドは同様に200ヘッジ以上のヘッジへの投資を所有していました。
 本質的には、ウォールストリートあたりで自分の道を知っていた投資顧問会社プロテジェは、彼らそれぞれが自分のヘッジファンドを管理あるいは所有している5人の投資専門家を選んだことになります。同じように、数百人の投資専門家を雇うことにもなりました。この集団は頭脳、アドレナリンと自信をもったエリートの集団でした。
 5つのファンド・オブ・ファンドのマネージャーたちはさらなる利点を有していました。彼らは、10年間にヘッジファンドの自身のポートフォリオを再編成し、新たな「スター」に投資しながら、マネージャーが感触を見失ったヘッジファンドのポジションを外したのでした。
プロテジェ側の行為者たちは大きなインセンティブを持っていました。彼らが選んだファンドオブファンズ・マネージャとヘッジファンド経営者の両方ともが、単に市場が全般的に上昇傾向に動いていたことによって達成したことでさえ、利益のかなり部分を得ることできたのです。我々がバークシャーを支配してからの10年のすべで、S&P500によって利益を得た年数は損失した年数を上回りました。
 これらの成果に対するインセンティブは、巨大でおいしいケーキの飾りであったと、強調されなければなりません。10年の間に投資家が資金を失ったとしても、マネージャーたちは非常に豊かになる可能性があります。これは、ファンド・オブ・ファンドの投資家たちによって資産の2.5%かそこらという驚くべき比率の固定報酬が毎年支払われたからです。その一部が5つのファンド・オブ・ファンドとマネージャーに支払われ、残りをその下のヘッジファンドの200名以上のマネージャーにしはらわれたのです。
(成績表は省略)
 5つファンド・オブ・ファンドは速いスタートをして、2008年にインデックスファンドに打ち勝ちました。その後、ルーフが落ち込んだ。その後、価格が下落しました。それに続く9年間のうちのいずれにおいても、ファンド・オブ・ファンドは全体としてインデックスファンドの後を追うことになったのです。
 10年にわたる株式市場の動きについては、何の異常もなかったことを強調したいと思います。2007年に長期の普通株式リターンの予測を投資の「専門家」に尋ねたとすると、推測の平均はS&P500によって実際に達成された8.5%に近いものになりました。その環境の中でお金を稼ぐのは簡単です。実際、ウォール街の「助力者」たちは膨大な金額を稼ぎました。このグループは繁栄していましたが、その一方で、彼らに投資した投資家の多くは失われた10年を経験しました。
 パフォーマンスは上がったり下がったりしますが、手数料が下落することはありません。
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2018年3月19日 (月)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2017(7)~投資

 以下では、年末時点で市場価値が最大であった15の普通株式投資を挙げます。 バークシャーは連結の一員であるため、当社のクラフト・ハインツ保有は除外されているため、この投資を「持分法」に計上する必要があります。 バークシャーのクラフト・ハインツの株式325,442,152株は、GAAPの数字が253億ドルで、当社の貸借対照表に計上され、年末の市場価値は284億ドルです。 当社株式の原価基準は98億ドルです。
 テーブルの株式の一部は、バークシャーの投資を管理する際に私と一緒に働くテッド・ウェシュラーまたはトッド・コームズの責任です。 それぞれが独立して120億ドル以上を管理しています。 私は通常、毎月のポートフォリオ・サマリーを見ることによって彼らがした決定について学びます。 両社が管理する250億ドルには、一部のバークシャー子会社の年金信託資産約80億ドルが含まれています。 前述したように、年金投資はバークシャーの保有分の前の表には含まれていません。
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 チャーリーと私はバークシャーが所有する市場性のある普通株を、チャートのパターン、アナリストの目標値、メディア専門家の意見に基づいて売買される株式銘柄コードではなく、ビジネスの利益として認識します。その代わりに、我々は投資された企業の事業が成功すれば(ほとんどの人がそうであると信じています)、同様に投資はうまくいくことになると考えています。時には、我々への見返りは控えめであったり、時折、レジスターが大きな音を立てるようなキャッシュが動き回ることもあるでしょう。そして、時には、私は高くつくような間違いを犯すこともあります。全体として、時間をかけて、我々は妥当な結果を得なければなりません。アメリカでは、株式投資家は風を背負っています。
 我々の株式ポートフォリオ、株式後悔企業の多様なグループにおける我々の持分を「少数株主持分」と呼んでいるもの、から、バークシャーは2017年に37億ドルの配当を受けました。これは、当社のGAAP数値に含まれる数字であり、我々が四半期および年次報告書を参照している営業利益にも同様に含まれます。
 しかし、その配当数値は、我々の所有株式生じる「真の」利益を、はるかに下回るものです。数十年間、我々は「株式保有に関するビジネス原則」19ページの原則6で次のように述べてきました。すなわち、我々は、当社の被投資会社の未分配利益が、その後のキャピタル・ゲインの方法で少なくとも同程度の利益を当社に提供することを期待している、と。
 我々のキャピタル・ゲイン(そして損失)の認識は。我々が常に収益の未実現損益を記録することを要求している新しいGAAP会計規則に準拠し、瘤の塊で凹凸のあるものとなります。しかし、私は、投資先が保有する収益は時間の経過に伴い、その投資先はグループとして見られことで、バークシャーにとって相応のキャピタル・ゲインに換算できると確信しています。
 私が説明してきたような価値を構築して利益剰余金につなげていくということは、短期的に、そういうものを見つけ出すことは不可能です。株式は、急騰し暴落します。一見したところ、その潜在的な価値の毎年の蓄積していくこととは無関係にみえます。しかし。時間が経つにつれて、ベン・グレアムの度々引合いに出される次のような格言は、真実であるとわかります。「短期間では、市場は投票機であり、長期的には計量機になる」
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 バークシャーは、自身により、短期的には価格のランダム性が長期的な価値の伸びを覆い隠してしまう鮮明な例を提供しています。過去53年間、利益を再投資し、複利の魔力を働かせることによって会社は価値を構築してきました。毎年毎年、我々は前進を続けてきました。それでも、バークシャーの株価は4つの本当に大きな下落に直面しました。そのぞっとするように詳細は次のとおりです。
(詳細の表は省略)
 この表は、株式を所有するためにお金を借りることに勇気を奮って抵抗することができることの最も強力な議論を提供しています。短期間にどのくらい株が落ち込むかを単純に分かる術はありません。たとえ、借り入れが少なくて、ポジションが沈んでいる市場によりすぐには脅かされることがないものであっても、あなたの心は恐ろしい(新聞の)見出しと息をのむような解説によって動揺するかもしれません。心が不安定になると良い決断を下すことはありません。
 今後53年間で、我々の株式(およびその他の株式)は表のような下落を経験することがあるでしょう。そのような状況がいつ起こるかは誰も教えてはくれません。信号の光は、黄色でいったん休止することなく、いつでも緑から赤へ直行することができるのです。
 しかし、大規模な下落が起きた時、債務によるハンディキャップを負っていない人には特別な機会が与えられます。これは次のキプリングの“If”の詩の一節に耳を傾ける時です。
(手紙には抜粋が書かれていましたが、全文を下に引用しておきます)
もしあなたがすべてを失い、人々から非難されても冷静でいられるなら、
もしあなたがすべての人から疑われても、そのことを許し、自分自身を信じていられるなら、
もしあなたが待つことに疲れず、
嘘に惑わされず、嘘に反応することなく、
嫌われても、嫌われたことに惑わされず、
人に良く思われようとか、賢く見られようとしなければ
もしあなたが夢を持ち、そして夢に踊らされないなら、
もしあなたが思考することができて、そして考えること自体を目的にしないなら、
もしあなたが成功と惨事を経験しても、それらをどちらも同じように大事なものだと扱えるなら、
もしあなたが話した真実を心ない誰かが愚かな人を騙すためにねじ曲げて伝えていると知っても耐えることができて
あなたが人生をかけて創ってきたものが壊されても
もう一度くたびれた工具を手に取り、はじめからやり直すことができるのなら
もしあなたが積み重ねてきた勝利とリスクのすべてを
たった一回のコイン投げに賭けられる勇気を持ち合わせていて、
もし負けても弱音を吐かずにまたはじめからやり直せるのなら、
もし心も身体も限界で、
“もう少しだけ耐えて”と自分に言い聞かせる気力しか残っていなくても
精神と活力を保てるのなら
もしあなたがあらゆる人と話をしながら自分を見失うことがなく
立派な地位を得ても一般的な感覚を持ち続けられるのなら、
もし愛する人と敵対する人どちらからも傷つけられないでいられるなら、
もしすべての人が君を頼りにして、それでいて期待しすぎずにいてもらえるなら、
もしあなたが当たり前の1分を長距離走の60秒と同じように精一杯過ごせるのなら、
息子よ、君は地球上のすべての大事なことを備えた、立派な男だと言えるだろう。

2018年3月18日 (日)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2017(6)~保険業(3)

 長年にわたり、この手紙はバークシャーの他の多くの事業の活動を記述してきました。 その議論は、手紙に続く10-Kに定期的に含まれる情報の繰り返しでもあり部分的な重複でもあります。 その結果、今年私は皆さんに数十の非保険事業の概要を簡単にご紹介します。 追加の詳細は、K-5~K-22ページおよびK-40~K-50ページに記載されています。
 グループ全体では、投資収入を除いて、保険以外の事業は2017年に20億ドルの税引前利益を出し、2016年に比べ9億5,000万ドルの増加となりました。2017年の利益の約44%は2社の子会社からのものです。それは、私たちの鉄道であるBNSF、バークシャーハサウェイ・エナジー(我々が90.2%を所有している)です。これらのビジネスの詳細については、K-5~K-10ページおよびK-40~K-44ページを参照してください。
バークシャーの子会社のリストを続けると、クレイトン・ホームズ、インターナショナル・メタルワーキング・カンパニー、ルーブリゾール、マモンおよびプレシジョン・キャストパーツという収入でランク付けされた次の5つの非保険事業は2017年に税引前利益が55億ドル これらの会社が2016年に稼いだ54億ドルからほとんど変わっていません。
 同様にランク付けされ、リストされた次の5社(フォレスト・リバー、ジョンズ・マンビル、マイテック、シャウとTTI)は、昨年21億ドルを稼ぎ、2016年の17億ドルから増加しました。
バークシャーが所有する残りの事業にはたくさんの会社がありますが。税引き前の収入はほとんど変化しませんでした。これは2017年に37億ドル、2016年には35億ドルでした。
 これらの非保険事業の減価償却費は合計で76億ドルで、設備投資は115億ドルでした。 バークシャーは常に事業拡大の方法を探しており、定期的に減価償却費をはるかに上回る設備投資を行っています。 当社の投資の約90%が米国で行われています。 アメリカの経済的土壌は依然として肥沃である。
 償却費はさらに13億ドルでした。私は大部分この項目は真の経済的なコストではないと信じています。この良いニュースを部分的に相殺することは、BNSF(他のすべての鉄道と同様)が、鉄道を第一級の形に保つために定期的に必要とされる金額に十分に足りない減価償却費を記録しているという事実です。
 バークシャーの目標は、非保険グループの収益を大幅に増やすことです。そのために、我々は1つ以上の巨大買収を行う必要があります。我々には確かにそれを行うためのリソースがあります。年末時点で、バークシャーは現金と米国財務省証券(平均残存期間は88日)で1,600億ドルを抱え、2016年末の866億ドルから増加しました。この特別な流動性は僅かな利益しか生まず、チャーリーと私がバークシャーがもつべきだと思っているレベルをはるかに上回ります。バークシャーの超過資金をより生産的な資産に再配分することで、私たちの笑顔が広がります。

2018年3月17日 (土)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2017(5)~保険業(2)

 フロートの欠点は、それにはリスクが伴い、時には莫大なリスクとなることです。保険で予測できる物であれば何でもかまいませんから見てみましょう。有名なロイズ保険市場を取り上げて見ましょう。これは3世紀のあいだ適正な成果を生み出し続けました。しかし、1980年代にロイズに数件の長期保険から大きな潜在的な問題が表面化し、しばらくの間、ロイズの歴史的に名高い事業が崩壊する危険にさらされました(付け加えると、現在は完全に回復しています)。
 バークシャーの保険事業のマネージャーたちは保守的で慎重な引受人であり、長い間、それらの資質を優先的に優先順位付けした文化で働いています。彼らの規律ある行動は、ほとんどの年において保険引受利益を生み出しました。そのような場合、当社のフロートのコストはゼロ未満でした。実際には、我々は、以前の表に集計された巨大な金額を保持するために支払われました。
 しかしながら、最近の我々は幸運だったのであり、この期間に業界が経験していた災害は新しい基準ではなかった、と私は警告してきました。昨年の9月、3つの巨大なハリケーンがテキサス、フロリダとプエルトリコを襲ったので、この指摘を納得させられました。
現時点では、ハリケーンから発生した被保険者の損失は1,000億ドル程度であると私は推測しています。 しかし、その数字は大きな見当違いである可能性があります。ほとんどの大規模な災害を伴うパターンは、最初の損失見積もりが低いとされています。 有名なアナリスト、V.J. ダウリングが指摘したように、保険会社の損失準備金は自己採算の試験に似ています。 無知、希望的観測、時には間違いなく詐欺は、非常に長い間、保険会社の財政状態を誤った数字にしてしまうことがあります。
 我々は、バークシャーの3つのハリケーンによる現在の損失を、30億ドル(税引き後約20億ドル)と推定しています。 その見積もりと1000億ドルという私の業界推定値がともに正確なものに近いのであれば、損害保険業界でのシェアは約3%です。 そのパーセンテージは、将来のアメリカの大災害で損失の我々のシェアを合理的に予測できるものであると私は信じています。
 3つのハリケーンからの20億ドルの純費用によるバークシャーのGAAP純資産の減少は1%以下だったことは注目に値します。 再保険業界の他の地域には、7%から15%を超える純資産の損失を被った多くの保険会社がありました。それらの会社の損害はずっと悪かったかもしれません ハリケーン・イルマがフロリダを通って東に少ししか進路を辿らなかった場合、被保険者の損失はさらに1,000億ドル増えた可能性があります。
 我々は、4000億ドルかそれ以上の被保険者負担を引き起こすような大惨事がアメリカで発生する年間確率は約2%と考えています。もちろん、正しい確率など誰も知らないでしょう。しかし、災害に弱い脆弱な地域にある建築物の数と価格が増加しているために、リスクは時間の経過とともに増加することはわかっています。
 バークシャーほど4000億ドル規模の大災害に備えて財政的に準備ができている会社はないでしょう。 このような損失のシェアは120億ドル程度になる可能性があります。これは、保険以外の活動から期待される年間収益よりはるかに低い額です。それと並行して、損害保険の世界の多くは、実際には、たぶん、おそらくほとんどがビジネスを失います。私たちの比類のない財務力は、バークシャー以外の損害保険会社が、それら、それら自身、が遠い将来にしなければならない巨額の支払に対する再保険の補償を確保する必要がある時、バークシャーそしてバーシャーだけに来る理由を説明しています。
 バークシャーは2017年以前は14年連続の引受利益を計上しており、税引き前のトータルで283億ドルになりました。 私は定期的に、バークシャーが何年にもわたって引受利益を得る、しかしまた、時には損失を経験することも予想していると説明してきました。私たちは引受業務で32億ドルの税引前損失を計上したため、私の警告は2017年に事実となりました。
 このレポートの後ろの10Kには、さまざまな保険業務に関する追加情報が大量に含まれています。 私がここで追加する唯一のポイントは、さまざまな損害保険事業で皆さんのために働いている何人かの卓越したマネージャーがいることです。これは、営業秘密、特許、または場所といった有利さがないビジネスです。重要なことは頭と資本です。我々の様々な保険会社のマネージャーが頭で貢献し、バークシャーは資本を提供します。
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2018年3月16日 (金)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2017(4)~保険業(1)

 2017年の我々の保険事業の結果について報告する前に、我々が、この分野になぜ参入したと、いかに参入したかを思い出せて下さい。我々は1967年の初頭にナショナル・インデミニティとその姉妹会社ナシャナル・ファイエ・アンド・マリーンを860万ドルで買収することからはじめました。我々は、この取得により670万ドルの純資産を手にしました。保険という事業の性質によって我々は市場で有価証券投資を始めることができました。我々はバークシャー自身が保有するとは別の方法で証券投資のポートフォリオを容易に再編成することができるようなりました。実際には、純資産部分の費用を「トレーディング・ドル」にしました。
 バークシャーが支払った費用と純資産との差額190万ドルのプレミアムは、我々に通常の保険引受の収益をあげる保険事業をもたらしました。さらに重要なことは、保険事業は1940万ドルのフロート、つまり、二つの保険会社が保有している他人のお金です。
それ以来、フローとはバークシャーにとって非常に重要なものとなりました。我々が、この資金を投資にまわすと、その展開によって得られる配当、利息、利益はすべてバーシャーのものとなります。(我々が投資損失を経験した場合には、もちろん、これらは同じような勘定となります)
 フロートは損害保険会社では次のような方法で実体化します。(1)プレミアは、通常、6ヶ月か1年という全保険期間にわたって損失が発生するのに対して前払いで保険会社は受け取ります。(2)自動車修理のような、いくつか損失に対しては、すぐに(その受け取ったプレミアが保険者に)支払われますが、その他の、アスベストの露出によって発生した危害のような損失は、問題が表面化するのに多年を要し、それが評価され鎮静化するにはさらに長い期間がかかります。(3)損失の支払は、時に、場合によっては数十年に引き伸ばされます。例えば、我々のひとつの労災補償保険契約者の従業員が永久的な負傷をおって、その後の生涯の介護のために高額な費用を必要としている場合です。
 プレミアの総量は増加するので、一般にフロートは成長します。その上、特定の損害保険業者は医療過誤または製造物責任のような事業ラインに特化しています。これらは業界用語で“ロングテール”と言われていて、保険会社が必要な修理のために請求者にほぼ即座に支払いを請求される自動車保険や住宅保険にくらべて、はるかに多くのフロートを生み出します。
 バークシャーは長年にわたって“ロングテール”ビジネスのリーディング・カンパニーでした。特に、特に、他の保険会社がすでに抱えていたロングテールの損失を前提とした特大の再保険政策を特化しています。我々がその種類のビジネスにとくに力を入れた結果、バークシャーのフロートは驚異的に増大しました。我々は、現在、フロートにおけるプレミアム・ボリュームで測定される規模では国の2番目に大きい損害保険会社です。
(記録は省略します)
 我々の2017年のプレミアム・ボリュームはAIGが起こした200億ドルのロングテール損失を再保険した大きな取引により増大しました。この契約での我々のプレミアは102億ドルという世界記録で、我々も今後二度と経験することはおろか近づくこともできないでしょう。したがって、2018年のプレミアム・ボリュームはいくらか落ち込むことになるでしょう。
我々が将来のフロートの低下を経験するとしても、それは非常に段階的で、数年で3パーセントを以上にはならないでしょう。我々の保険契約の性質は、我々の持っている現金資源に比べて、それを上回るような金額を即時に支払わなければならないような要求を受けることはあり得ない、というものです。この構造は設計によるものであり、保険会社の傑出した財務力の中の重要な要素です。 それは決して損なわれません。そして、我々が投資判断の際に考慮に入れているバークシャーの最も重要な特徴です。
 チャーリーも私も他人や自身が資金不足に直面している友人の好意に依存するような姿勢でバークシャーを運営するようなことはしません。2008年~2009年の危機の間、私たちは、財務省証券(Treasury Bills)の保有を好んでいました。銀行の与信やコマーシャル・ペーパーなどの資金調達源に頼らなくていいように我々を守ってくれるものでした。我々は、バークシャーを市場閉鎖の延長などの経済的不連続に快適に耐えるように意図的に建設しました。
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2018年3月14日 (水)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2017(3)~買収(2)

ここでボルトオン買収に移りましょう。これらのうちのいくつかは小規模な取引でしたが、詳細については説明しません。しかし、2016年後半から2018年初めにかけて成長しているいくつかの大きな買収企業の説明です。

 

・クレイトンハウスは2017年に2社の住宅建設業者を買収しました。我々がたった3年前に参入した市場で、その存在を二倍にしました。このようにコロラドのオークウッド家とバーミンガムのハリス・ドイルが加わったことで、私たちの2018年の建設敷地は10億ドルを超えると予想しています。

それにもかかわらず、クレイトンの重点は依然として、プレハブ住宅の建設と住宅ローンのままです。2017年には直接販売で19,168軒販売し、他の小売業者に26,076軒を卸売りしました。あわせて、クレイトンは、昨年のプレハブ市場の49%の販売シェアを獲得しました。その業界随一のシェアは、我々に最も近い競争相手の3倍となり、バークシャーの一員となった2003年が13%だったところから遥かに遠いところにきています。

クレイトン・ハウスとPFJは、両方ともノックスビルに拠点を置いており、そこでは両社は長年の友人でもありました。ケヴィン・クレイトンはハスラム家がバークシャーの一員となる事の利点についてコメントしました。彼の私がハスラム家との関係に合意するコメントはPFJの買収におおいに貢献しました。

・2016年もおしつまったころ、我々の床材事業であるシャウ・インダストリー社はUSフロアー社(「USF」)を買収しました。同社は近年、急速に成長しているビニール・タイルの卸売業者です。USFのマネージャー、ピート・ドッシュとフィリップ・エラムぺはシャウ・インダストリー社との事業の統合を進めていた2017年に売上高を40%伸ばして、しょっぱなにスタートダッシュをかけました。USFを買収したことによって、多くの人材と事業資産を我々が獲得できたことは明らかです。

シャウのCEOヴァンス・ベルはこの買収を提起し、交渉を行い、完了させ、2017年のシャウの売上を57億ドルに、従業員を22000人にまで増やしました。USFの獲得によって、シャウは、バークシャーにとって重要で継続的な収益の源としてのポジションを大幅に強化しました。

・私はみなさんに不動産仲介事業を成長させているホームサービス事業について何度かお話しました。バークシャーはミッドアメリカン・エナジー(現在のバークシャー・ハサウェイ・エナジー)の主要株主となった2000年に、この事業に進出しました。ミッドアメリカンの事業は、その時は電力事業で大きく依存していて、私は当初ホームサービシーにほとんど注目していませんでした、

しかし、同社は年を重ねるごとに販売会社を加えていって、2016年末までにホームサービス事業はわが国で2番目の規模になっていました。しかし、一番のリアロジー社には遠く及びませんでした。しかし、2017年にホームサービシーは爆発的に成長しました。我々は業界三番手のロング・アンド・フォスター社、12番目のフーリハン・ローレンス社及びグロリア・ニルソン社を買収しました。

これらの買収によって、我々に12300の仲介代理店が加わり、合計で40950まで増えました。今、ホームサービシーは住宅販売の分野で国内トップに近づいています。形式的に3件の買収による増加も含めて1270億ドルの「サイド」に参加しました。この用語を説明するために、各取引に2つの「サイド」があります。 買い手と売り手の両方を表す場合、取引のドル価値は2回カウントされます。

最近の買収にもかかわらず、ホームサービシーは2018年の国内の手動産仲介事業のわずか3%にしか実行しておらず、97%が残されています。合理的な価格が与えられれば、私たちはこの最も基本的なビジネスにブローカーを追加し続けます。

・最後に、最後に、プレシジョン・キャストパーツ社は買収によってつくった会社で、ドイツの防腐用の機器(配管システムとそのコンポーネントを製造している)メーカーのウィルヘルム・シュルツ社を買収しました。これ以上の説明は省略します、どうかお許し下さい。私は不動産仲介、住宅建築やドライバー・ストップと同じようには製造業が分からないのです。

幸いなことに、ここでは知識を持ち込む必要はありません。プレシジョンのCEO、マーク・ドネガンは非常に優れた製造担当の役員で、その事業領域のビジネスをうまくやってくれるのです。人材に賭けることは、時々、物質的な財産に賭けるより確かです。

 

それでは保険事業、私が理解しているビジネス、そして51年間、バークシャーの成長を支えてきたエンジンから説眼を始めましょう

2018年3月13日 (火)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2017(2)~買収(1)

 バークシャーの価値を高めていくのは次の4つの柱です。(1)大規模な単独の買収、(2)すでに所有している事業に適したボルトオン買収、(3)多くの様々な事業における自力の売上高の伸びとマージンの改善 (4)当社の巨額の株式および債券ポートフォリオの投資収益。ここでは2017年の我々の買収事業について報告いたします。
 我々が新たな独立した事業を探してく際に求めている主要な資質は永続的な競争力です。具体的には、有能で優秀な経営、ビジネスの運営に必要な正味有形資産の良いリターン、魅力的なリターンで内部成長する機会、 最後に、賢明な購入価格などです。
 最後の要件は2017年に調査したすべての取引に対して事実上の障壁となりました。まともなビジネスの価格は過去最高を記録しました。実際、価格は楽観的な購入者の大群とほとんど無関係に見えました。
 なぜ、そんなにも買収に熱狂するのでしょうか。一つにはCEOの仕事が“意欲的な”選択するタイプからです。ウォール街のアナリストや取締役はCEOに可能な買収を検討する銘柄を強く勧めたら、それはノーマルな性生活を持つように熟女の恋人に勧めるようなものです。
 CEOが取引を渇望するならば、彼は購入を正当化する予測に不足ことはないでしょう。部下は応援し、一般的に企業規模の増大による支配領域や報酬水準が増えることを期待するでしょう。投資銀行は莫大な手数料を期待して拍手を送るでしょう(髪の毛をカットするか否かを理髪店にきくようなものです)。もし標的とする会社のこれまでの事業成績が買収の目安に達していないのであれば、大きな“相乗効果”を期待することになるのです。計算書は決して買収を断念させるものにはならないのです。
 2017年のかなりの低金利で借入を調達できる事態は企業買収をさらに煽ることとなりました。結局のところ、高くつく買収でさえ、借り入れによって調達した資金で行われるのであれば、1株当たりの利益を押し上げることになりました。対照的に、バークシャーでは、我々はすべて資本コストを基準にして買収を評価します。我々が全体的に負債を抱えることをあまり好まないこと、我々の借入の大部分を個々の事業に割り当てることは普通は誤りであることを知っているからです(クレイトンの貸出ポートフォリオに特化した債務、 当社の規制されている公益事業における固定資産コミットメントの借り入れは別にして)。我々は、また、相乗効果の要素を探したり、見つけだそうとはしません。
 我々はレバレッジを好きでないことは、長年にわたって我々の収益力を弱めてきました。しかし、チャーリーと私はよく眠ることができます。二人とも、皆さんが必要しないものを手にいれるために、持っていたり、欲しがっているものをリスクにさらすことは非常識なことと信じています。我々は私達を信頼した少しの友人と親族から出資を受けて投資関係の共同会社を経営した50年前から、このことを明らかに掲げてきました。
 最近、我々の買収は活発ではありませんか、チャーリーも私も、時々、バークシャーには非常に大きな買収の機会があると信じています。その間、我々はシンプルなガイドラインを守っています。他の人が事業を管理することに慎重になければないほど、我々は自分たちのそれについてより慎重でなければならない。
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 我々は、昨年、独立系のパイロット・フライングJ(以下「PFJ」といいます)に38.6%のパートナーシップ持分を取得することができました。年間約200億ドルの売上規模で国内の主要な旅行センターを運営している会社です。
 PFJはハスラム家が創業以来経営にあたってきました。“ビッグ・ジム”ハスラムが60年前にガソリンスタンド始めました。今、その息子ジミーは北アメリカ全土の750ヶ所で27000人の仲間を抱えています。バークシャーは2023年に80%までPFJのパートナーシップを増加させることを合意しています。ハスラム家のメンバーは残りの20%を所有することになっています。バークシャーは彼らのパートナーであることを、たいへんうれしく思います。
 州を越えてのドライブの際にはお立ち寄り下さい。PFJはディーゼル燃料もガソリンも売っています、食物はいいです。長い一日だったら、私たちの物件は5,200のシャワーがあることを覚えておいてください。

2018年3月12日 (月)

ウォーレン・バフェットの「株主への手紙」2017(1)

 先日、バークシャ・ハサウェイのホームページに、ウェーレン・バフェットの「株主への手紙」の2017年版が掲載されました。
これから、その全文を日本語にして、ここで掲載していきたいと思います。ただし、下手な訳、というよりも直訳に近いだろうから、読みにくいと思われた人は、原文を当たってみてください。
 下のURLにあります。
 それでは、少しずつ訳していきたいと思います。このような拙い翻訳を始めて8年目となりますが、以前は全部終わったところでまとめてアップしていましたが、数年前から、ある程度進んだところで、その都度アップするようにしました。そのため、仕事の都合や翻訳のペースによってアップの時期が一定しませんが、我慢してお付き合いください。それでは、始めて行きたいと思います。
バークシャ・ハサウェイの株主の皆様
 2017年のバークシャーは株主価値をトータルで653億ドル増やすことができました。我が社のクラスAとクラスBの株式の1株あたり帳簿価格は両方とも23%増加しました。現在の経営陣が経営を引き継いでから53年の間に、帳簿価格は19ドルから211,750ドルに成長させました。これは年間複利で19.1%に当たります。
 この株主の手紙の書き出しの文章は30年間にわたる標準のフォーマットです。 しかし、2017年は標準からはほど遠い内容となりました:我々が成果として報告した大部分は、バークシャーの事業によるものではなかったのです。
 それにもかかわらず、株主価値が650億ドル増えたことは本物です、だから安心してください。 しかし、バークシャーの事業によって増やすことができたのは、そのうちには360億ドルしかありませんでした。 残りの290億ドルは、議会がアメリカの税法を改正したことによって12月に我々が得ることができたのです。 (バークシャーの税金関連の利益の詳細は、K-32ページおよびK-89ページ~K-90ページに掲載されています)
 このような財政事実を述べたので、早速、バークシャーの事業報告に移りたいと思います。しかし、その前にあとひとつだけ寄り道させてください。私は、先に、GAAP(米国会計基準)に規定された新しいルールについて説明しなければなりません。これからの四半期および年次報告書では、バークシャーの純利益の数字がひどく歪んだものになり、しばしば解説者や投資家の誤解を招くことになってしまうのです。
 この新たなルールでは、投資の未実現損益の変動を当期純利益に含めて報告しなければならないと規定しています。そこで求められていることは我々のGAAP基準の損益を荒々しいほどに気紛れに変動する結果を招くものです。バークシャーは市場で取引されている株式を1,700億ドル保有しており(ただしクラフト・ハインツの株式は含まない)、これらの持株の価値は四半期報告の期間内であっても容易に100億ドル以上の幅で変動してしまうことになるでしょう。このよう大きく動き回る数字を報告される純利益に含めてしまうと、我々の事業の成果を表わす重要な数字をぐしゃぐしゃにしてしまいます。分析をしてとしても、バークシャーの会計上の損益は役に立たないものになってしまいます。
 この新たなルールは我々が長く取り組んできたコミュニケーションの問題を複雑なものにしました。それは、会計規則が当期純利益に実現損益を含めることを強制しているということです。過去の四半期や通期業績のプレス・リースでは、我々は、これらの実現損益は未来実現損益のように不規則に変動するので、これに注意を払わないように定期的に警告してきました。
 その大きな理由は、我々は賢明だと判断したときに持株を売却しているからで、このことによって利益の数値をよいものにしようしているのではないからです。その結果、我々は時にはポートフォリオが全体として芳しくないパフォーマンスのときにかなりの実現利益を報告するこがありました(あるいは、その逆も)。
 未実現利益に関する新たなルールは既存の実現利益に適用されているルールに起因する歪みを、さらに大きくするものですが、それによって我々は皆さんが数字を理解するために必要な調整を説明する辛さを四半期ごとに引き受けることになりました。しかし、決算発表へのテレビのコメントはしばしば瞬間的な受け取られ方で、新聞の見出しは、ほとんど常に、GAAP純利益の前年比増減に焦点を当ててします。
 我々は、金曜日の遅くの市場が閉まった後、または土曜日の早朝に決算発表を行うことを続けることで、この問題を緩和したいと思っています。これによって皆さんは月曜日に市場が開く前までに最大限の分析の時間を得ることができ、投資の専門家は情報や解説を配布するための機会を持つことができるでしょう。しかしながら、私は、会計が外国語のように分かりづらいと考えている株主の間ではかなりの混乱が生じると考えています。
 バークシャーが最も重要と考えているのは、1株当たりの収益を増加させていく力を強めていくことです。この指標は、長年のパートナーであるチャーリー・マンガーも私も中心と考えているもので、皆さんもそう考えて欲しいと思います。それでは2017年の説明を続けましょう。

2018年3月11日 (日)

池田学展「The Pen─凝縮の宇宙」(9)~Chapter6 誕生 Rebirth(2)

Ikedarebirth3 とはいえ、そんな単純なものであれば、こんな大画面にする必要はないはすなので、一様であるはずはなく、試行錯誤の中で迂回や逡巡といった、さまざまな営みや希望と失望を行ったり来たりする個々の人々の行動を想像させるような象徴が散りばめられています。たとえば、画面の上半分を明るくさせている満開の花々をよく見てみると、植物の花そのものを描いているわけではないのです。すべて偽物の花なのです。例えば、ピンクの風車だったり、ピンクのスクリューだったり、花みたいだけどじつはピンクに塗った瓦礫だったり。あるいはまた、はなびらがテントだったり、しかも、そのテントの中には人々の生活が小さく描かれていて、新しい生命の誕生があったりする。あるいは、人の手がはなびらになって、新しい生命を優しく包み込んでいる。ここには、全体としては悲惨であるなかでも、それだからこそ、個々の人々Ikedarebirth4 の生活の中には喜びがあったり希望が生まれていたりする。その逆だってある。池田はそのひとひとつを拾い上げるようにして描くようです。しかも、その個々の生活は、その人のもので、それに寄り添ってしまうと全体が見えなくなるので、全体と個々を等価にするように、それぞれを池田は距離をおいて突き放すように描いています。そのために、戯画的な、風刺の混じったような象徴的な描き方をしています。それだからこそ、画面全体にはじめじめしていない、カラっと乾いたような明るさがあって、個々の部分は別にして重苦しくなっていないと思います。それだからこそ、震災を経験していなかったり、知らない人でも、そういう直接的なメッセージとは別に、画面を見て楽しむことができるようになっていると思います。

また、この画面の中では、星が瞬く夜もあれば昼間もある、というとことであらゆる時間が一緒くたにあります。また、画面に統一した視線はなく、各部分に視線は分散しています。ここには、特定の時間とか空間があるわけではなく、ごった煮のように同居しています。したがって、一つのときが特定できて、そこから次のときに移るということは想像できなIkedarebirth5 いので、動きということがありません。無時間的であるということは、すべての時間があるということで、動く必要がないということになります。だから、画面には動きがなくて止まっています。それだからでしょうか、これだけ色々なことが描きこまれているのに、不思議と静寂さが漂っています。したがって、人々の生々しい肉体といったものはなくて、遠くから、そうものが届かないところで眺めているというものです。それは、かりに震災であったとして、その渦中にはいないということです。たくさんの視点で描かれていますが、その渦中という視点は、ここではないのです。それは、映画「シンドラーのリスト」の場面で、水晶の夜のユダヤ人迫害のシーンで、その残酷な様子をシンドラーはユダヤ人のゲットーを町外れ高い丘にいて馬上から黙って見下ろしている場面があります。それは、シンドラーが、その愚行に関わってはいないのですが、そこで彼は神のように見下ろしているのです。それは、この映画全体の胡散臭さを象徴している場面ではあるのですが、そこにシンドラーという人物(あるいは映画を制作している作者の)の隠れた傲慢さが監督の意図を超えて分かってしまうものとなっています。「誕生」に話を戻しましょう。無時間的であらゆる視点がいっしょくたに、一見無秩序のように同居している、そういう中で作者の池田はどこにいるのでしょうか。それは、水晶の夜の惨事を遥か遠く、当時たちには分からないところ、で黙って見下ろしているように、画面には現れていないところにいる。それは、そういう画面という枠組みをつくったという、いわば世界を創った神のようなとろです。しかも、この作品を見る者は、画面を超えることはほとんどないものとなっていると思います。例えば、画面に描かれている細部にいろいろな発見があると思いますが、あくまでも見つけるところまでで、それは、作者が隠したものとか、そういうものです。そこで作者の意図を超えたあらたな世界を見つけるとか、まったく異質な解釈や意味づけを許す余地はないのではないかということなのです。それはまた、作品を見る人は、何が描かれているのかということを見るのですが、いかに描かれているのかということには、この作品では見ようとすることはほとんどないのだろうと思います。つまり、表現から想像のイメージがひろがっていくということはないのです。

そういう点もまた、集中的に「誕生」に表われていると思います。そういう意味で、池田という作家の要素が、現時点ではもっともよく表われている作品が、この「誕生」ではないかと思います。願わくば、人ごみにせっつかれることなく、ゆっくりと細部を愉しみながら眺めてみたいと思いました。

2018年3月10日 (土)

池田学展「The Pen─凝縮の宇宙」(8)~Chapter6 誕生 Rebirth

Ikedarebirth 今回の最大の目玉です。池田の最新作にして、最も大きな作品。テレビのドキュメンタリーで制作風景が紹介され、東日本大震災とその復興というテーマ性もあって、今回の展覧会の話題性の大きな要因ともなった作品です。「誕生」という日本語のタイトルは英文では「Rebirth」つまり“再生”といった意味合いになっています。この展示に限っては、撮影可能ということで、スマートフォンのカシャカシャというシャッター音が絶え間なくきこえてうるさいほどでした。画像なんか自分で撮らなくても、ネットに捨てるほどころがっているし、大きさとか画像には映しきれない細部などの実物をリアルに肉眼で確かめることでしかできないことをやったらいいのに、と思いました。それは、ある意味で池田の作品の根本的な性格を、図らずも多くの人が意識しないでも、察していたかもしれません。端的に言うと、ベンヤミンが「複製技術時代の芸術」で言っていた芸術作品の現物にしかない“アウラ”があまり感じられない。実物とコピーの差があまり感じられないという点です。それは必ずしも悪い意味ではなくて、それによって、大衆性というのか親しみ易いものとなっていると思います。なによりも、メッセージ性の強いテーマで、画面下半分が津波に遭ってがれきとなった、いわば廃墟の生々しい風景を延々と描いているのですから、作者の強い思い入れが込められて、ややもすると主観的な主張が鼻についてしまってひとりよがりになったり、みているだけで重苦しくなってしまう危険があるのですが、この作品では、むしろ作者のメッセージ性のようなことは感じられないようになって、人々が見やすくするような一種のエンタティメント的なものが考えられて、惨事を突き放したような客観的な視線に結果的になっているということが言えると思います。

Ikedarebirth2 池田はインタビューへの返答の中で、震災を知らないアメリカの子どもたちが、瓦礫の風景のひとつひとつに悲壮感を受けることなく、「あ、こんなところにクルマがあったよ」とか「大きなコーヒーカップだ、遊園地かな」といって楽しんでみていたと言っています。子どもたちが、そのようなことを言ったと思われる箇所の画像がありますが、それを見ると、自動車は潰れてひっくり返っていますが、周囲の白い人影は、瓦礫を片づけでいるのか負傷者を助けているのかしているのかもしれませんが、そこで遊んでいるようにも見えなくもありません。そこでは突き放したように描き方がされているからで、この奥の方では畑を耕している、おそらく復興の風景なのでしょうが、それが地続きのようになっていることで、行き詰った悲惨さよりもポジティブに感じというのか、そこから白い人影が戯画的な雰囲気もあることからユーモラスな印象を見る人が感じることができるようになっていると思います。

Ikedarebirth6 さて、画面を鳥瞰的に見ていくと(何しろ3×4mという大画面で、画面の中は細かいものがびっしりと描きこまれているので、全体をひと言で言い表すことは不可能だと思います。)下の方が大波と、それに侵されて瓦礫となった風景が延々と描かれていて、色調は土色や灰色です。それが上方に行くにつれて緑が加わって、増えてきます。それに沿うように畑や再建といった復興を感じさせる部分が混じってきます。ちょうど画面中央のあたりに白い線が見えますが、吊り橋をラクダのキャラバンが渡っているというような光景で、そこから上は花咲く風景、おそらくは復興への祈りということなのでしょうが、つまり、下から上にいくに従って、悲惨さから復興の希望へという流れを見ることはできると思います。

2018年3月 9日 (金)

池田学展「The Pen─凝縮の宇宙」(7)~Chapter4 ミクロコスモス Microcosmos

Ikedacoyote 図鑑の図像のような博物学的な精密さで動物や昆虫が描かれたもの、あるいはそのペンに加速度がついて暴走したような想像を働かせた幻想的な生物風景といったもの、小さなサイズの紙に描かれた作品です。このコーナーは、他のコーナーに比べると相対的に人ごみは薄くなっていたので、時折、足をとめてゆっくり作品を眺めることが、かろうじてできました。

「コヨーテ」という作品です。これも細かいです。ほんとに毛の一本一本を描いています。しかし、この細かさは以前にも述べましたが量的であって質的ではない。変な言い方で、何言ってんのか、と思われるかもしれません。分かり難いかもしれませんが、例えば、安藤正子の「貝の火」という作品とくらべてみてください。両方とも狼を横から描いています。両方とも細かいです。とにかく安藤の線、極細の薄く引かれた線の1本1本が繊細で、それらが細密にひかれ絡んだり、揃えて引かれたりと、その線の様相とか、時に躍動的だったり、時にほのかに輪郭が仄かにボカされるのを見てください。それが集約的に見て取れるのが、狼の毛皮の毛のところ。毛の11本が、柔らかく細い髪の毛が丁寧に描かれていて、微細で、これだけのものを描くのに、どれほどの労力と時間がかかったのかと思うと、凄絶としか言いようがないのです。失礼な言い方ですが、これを池田の線と比べてみると、池田の線は無造作に、とにかく数をたくさん引いているように見えてしまうのです。安藤は、線のひとつひとつを描いては、サンドペーパーで削ったり様々な処理をして、それこそ1Ikedazebra 本の線に精魂を傾けて描いているようなのです。それが距離をおいてみると、自然でそういう痕跡が全く見えません。そんな風に描かれた、柔らかな狼の毛皮を見ていると、描かれている題材とか、内容とか、そういうものは、どうでもよくなって、画面に引かれた無数の線が作品をかたちづくっている様を見ることだけに浸っていたい、それこそが快感と感じさせられてしまうほどなのです。そこに目で柔らかな肌触りが、触覚が伝わってくるのです。池田の細密描写には、そういう肌触りが伝わってくることはありません。言ってみれば、安藤は、細かい描写をしている線の一本一本を彫琢し磨き上げていきます。細かく描くことにとどまらず、細かさの質も追求しているのです。池田の場合は線を稠密に引いていますが、安藤のような質の追求には至っていません。それゆえ、池田の作品は細かくて精確なのですが、狼の毛や肌の柔らかな質感とか生き生きとした生命感のようなものは感じられないのです。もとより、池田の作品は、そういうところを追い求めているわけではないので、肌の質感を池田の作品に求めるのは見当違いかもしれません。

「グレビーシマウマ」も正確この上ない。こういう動物や昆虫を正確に細かく描くというのは、池田は好きなのだろうと思います。しかし、それは描くということが好きなのであって、シマウマやコヨーテは描く対象以上のものではない、そう見えます。シマウマやコヨーテが好きで、それを描こうとして細かくなってしまった、というのではないと思います。前のコーナーで福岡伸一の文章を引用して、細部と全体の両方を同時に目配りしてしまうバランス感覚のようなことを述べましたが、それが可能となるためには、描く対象に囚われてしまっては不可能だということでしょうか。池田の描写には対象に対する思い入れ、例えば愛が直接には感じられません。それが、人物画あるいは人の表情とか感情のあらわれといったことを描かないことと関係があるように、私には思えます。

Ikedainsect 「モリオウムシ」は海中の珊瑚礁があつまって偶然に出来てしまったような、想像力ぶっとびの昆虫ですが、遠くから眺めると、昆虫の精確な描写に見えてしまいます。

こういう小品がたくさん展示されていました。

2018年3月 8日 (木)

池田学展「The Pen─凝縮の宇宙」(6)~Chapter3 自然と文明の相克 The Rivalry of Nature and Civilization(3)

Ikedatrace 池田の作品では、海、とりわけ波をモチーフとして頻繁に取り上げられています。「予兆」は波の形が基本になっていますし、「Meltdown」では波の穏やかさが二項対立の一方の要素となっています。「痕跡」という作品は、その海面が画面全面を占めています。海面の上を飛んでいる鳥の影のほかは、画面いっぱいに砕ける波の様子が描かれています。しかし、近寄って見ると、中心部には深い青色の部分と、島があることを連想させる穏やかな浅瀬があることが分かります。また、鳥の影は海の青の濃くなった黒のような感じで、海の上でなくて海中にいるようにも見えてきます。そう見ていくと、そもそも波の影が濃くなっただけで鳥などいないかもしれない、という疑いも起こってきます。ここには、近寄って細部を目を凝らしてみていくと、遠目で全体をみた概観を裏切っていく池田の作品の特徴が現れています。それは、Ikedadrifter2 かなり飛躍した議論になるかもしれませんが、全体を概観するというパースペクティブに見方は概念による知性の働きを中心にしたものです。空間の解とか構成といった構想力に基づくといっていいと思います。これに対して、細部を目を凝らして、ひとつひとつ描くというのは接近した、直接触れるような、触覚に近いダイレクトな感じのもので、より直感的、肉体的です。さて、近代の西洋絵画は、セザンヌの写実とかキュビスムといった傾向は、知的に画面を構成していく傾向を推し進めたものです。池田だけではないのかもしれませんが、そういう近代絵画の傾向は知的にすぎて、人の肉体的な実感からかけ離れたものになって行きました。それに対して、池田の場合は、ペンで細かい線をひたすら引きまくるという、手や指という肉体を酷使する結果して稠密な画面を描くという作品を制作しています。それは、知性で全体の画面を構想する以前に、とにかく手という肉体を動かし線を引いていくということに思えます。その結果として、知性では捉え切れなかったもの、あいまいなものや画されていたものが、作品の細部に表わされている。それが、全体としての画面の中に表わされている。その両方が併存して画面にあるということになっているのです。それが、見る者には作品の一様な解釈ではない、見る人それぞれの多様な解釈を生み出すものとなっているのです。それが池田の作品の大きな魅力ではないかと思います。この「痕跡」という作品でも、この画面では見えないかもしれませんが、真ん中あたりの色が濃くなっているところに、濃い影で鳥居のような形態が見えます。まさに痕跡です。とくに、海面というのは透明な水ですから、その水を通して、海面の下には痕跡が隠されているかもしれない。そういうことでしょうか。池田は海を描くことが多い。

Ikedadrifter その海面を通すということを断面で描いたのが、「漂流者」という作品です。以前に見た「領域」もそうですが、海面の上と下を断面で描いています。「痕跡」が上から水平面を描いていたのに対して、これらは垂直面でえがいていて、海面に下に隠されているのは、このような世界というものでしょうか。「痕跡」では見えるものとして波と、痕跡である島の影や鳥の影、鳥居の影だったのか、これらの作品では海の下の部分が明瞭になっていて、「痕跡」の見えるものと見えないもの対立的な二項並立はありません。この断面を構図とするのは、他の作家でも、例えばクリスチャン・ラッセンなどがよく取り上げているパターンです。池田は、ここではアドリブの基となるテーマを、このあたりから使っているかもしれません。しかし、海中の細かく描かれた生物や海流の描写を見ていると、すこしグロテスクで幻想的な印象がしてきます。このイメージは「風の谷のナウシカ」の腐海の幻想的なイメージを想い起こさせるのです。Ikedadrifter3

池田は海の他にも山の風景をしばしば取り上げます。ひとつは岩稜、もうひとつは森の風景です。「山と雲」という作品です。「痕跡」では画面全体が海面に占められていたように、ここでは山森の木々に占められています。そこから雲が湧いてきて、それが龍になってくる。それだけでなく画面上部には岩峰なのか、巨木(といって現実離れした巨大さですが)なのかが柱のように空に向かって突き上がっています。それは龍の胴にも見えます。とはいっても、この作品での圧巻は、一本一本描かれた樹木です(「Untitled」という作品もそうです)。これを見ていると、池田という作家は、実際には描く前には長時間瞑想したりしてイメージを練っているのでしょうが、頭の中で概念的にイメージをつくった通りに描くという作家ではなくて、描くという作業をする手の肉体的な感覚からもイメージを作っていく作家であることが分かります。生物学Ikedamountain 者の福岡伸一が池田について次のように語っています。“それは彼の内部にある種の特殊な同時性が存在するからだ。顕微鏡的な解像度で細部を描いている真っ只中にも、常に望遠鏡で宇宙を見渡すような俯瞰性が共存している。つまり極小の細部の中のどの場所にも全体があり、極大の全体のあらゆる部分に公平に細部がある。それゆえに、近寄ると顕微鏡的な精密さが浮かび上がり、遠くから眺めると望遠鏡的なスペクタクルが立ち上がる。ミクロスコーピック・テレスコープ。ミクロな世界を訪ねるとそこにいちいちの物語があり、マクロな世界には壮大な一大絵巻がある。ここには、極小世界と極大宇宙を目まぐるしく往復する意識の流れがあるのだろう。いやこの言い方はたぶん正確ではない。ほんとうは往復してはいないのだ。それは運動ではなく、同時性なのだ。池田学の脳内には、AIが実現しようとしているもの─膨大なビッグデータの中から最適解をと抽出してくるアルゴリズム的ロジック─とは全く別の、同時性かある。極小の中にある世界が、極大の空間に広がる宇宙と、瞬時に重ね合わされてしまうような、言うなれば量子論的な同時性。この同時性をいずれも全く破綻なく共存させうることが、池田学の天才性の真骨頂だと思う。”と権威によっかかってしまいました。Ikedauntitles

2018年3月 7日 (水)

池田学展「The Pen─凝縮の宇宙」(5)~Chapter3 自然と文明の相克 The Rivalry of Nature and Civilization(2)

Ikedameltdown 「Meltdown」という作品です。「予兆」が東日本大震災の津波を想起されると公開が自粛となり、カナダ・バンクーバーに拠点を移した時に描いたということです。そういう作家のエピソードもあって、「Meltdown」というタイトルは東日本大震災の福島原発の炉心溶融との関連で扱われ易いところがあると思います。工場の氷河が溶解しようとしている姿は、福島の原子力発電所の姿を連想させ、それが着地しようとしている陸地のまわりの海は全く平穏な状態です。澄んだ水面とは対照的な工場の禍々しい形が不穏さをかきたて、自然と人間の秩序が崩れる前兆が暗示されるという解釈に導かれてしまいます。私は、あまり作品外の事情から作品を眺めることはしないので、このくらいに留めておきます。池田は、自身のブログのなかで、この作品について次のように述べています。“夏に行ったカナディアンロッキーで見た、徐々に溶けゆく氷河。氷に含まれる成分が混ざり合い、見た事のない青さで光り輝く湖。急斜面にそびえる巨大な岩の塊。美しくも険しいロッキーの風景を見ながらふと浮かんだのは、釜の底で今も溶け続ける放射性物質でした。全く異なる世界に共通する「溶ける」というキーワード。皮肉にも、震災以来ずっと描きたいと思っていたもやもやしたイメージがこMatumag こではっきりと形となって現れました。湖に面した斜面に立つ巨大な氷塊。そこには発電所や工場等が取り囲むように建っていて、住宅はその工場の下部や配管などにフジツボのようにくっついている。人間の生活をより良くするという目的で作り出された発電所はどんどん増え続け、いつしか住民の生活を隅に追いやり、漠然とした不安との共存を余儀なくさせている。大量に溜まった汚染水と熱はついにその氷塊自体を溶かし始め、発電所もろとも美しい湖に向かって滑り始める。人間は我先にと逃げ出す事しかできず、巨大な廃棄物となったそれは環境への深刻な汚染だけを置き土産に、やがて水中深く沈んでいく。タイトルは「Meltdown」。”池田自身にも、そういう意図があったと、このように語っているので、そういうものでもあるのでしょう。この作品には、そういう点で解釈し易いところがあると思います。その関連で言えば、「燈台」という作品などは、廃墟を描いたと解釈されることになると思います。しかし、池田の作品を見る楽しみは、そのような一様の解釈をしようとすると、細部に必ず、それを裏切る要素が次々に見つかって、そういう解釈を宙ぶらりんにしてしまうところにあると思います。たとえばこういうことです。

Ikedalighthouse 「予兆」のようなサイズの大きな作品ではありませんが、描き込まれた細部の細かさと量は「予兆」に劣らないでしょう。そこから別の視点で見てみたいと思います。実は、私は、この作品から、ルネ・マグリットの「ピレネーの城」を思い出したのです。これは、海岸風景の中に、絵画とは無関係の大きな岩が浮いていて、その岩の上部には中世の古城が築かれているという内容です。シュルレアリスムの風景です。言葉だけで画面の概要を記述すると、「Meltdown」も同じような説明ができると思います。両者とも自然の風景を背景として、水面があり、その水面から岩や建物が浮かんでいるように存在している。池田は隅の方から細部を描き始め、描いていくうちに徐々にイメージを膨らませ画面を構成するという描き方をするようです。つまり、池田はキッチリ画面構成する描き方をする作家ではないということです。しかし、それは、何の方向性もなく、行き当たりばったりで隅の方から細部を描き始めるというのではないでしょう。あらかじめ、大雑把な画面をイメージとして持っていて、それを基に作品の制作を始めるのでしょう。その際の画面イメージとして、おそらく池田の記憶に残っているだろう自身か他のFukudaymi 作家かに関わらず過去の作品の印象がベースになっている、例えば「Meltdown」の場合は「ピレネーの城」であり、「予兆」の場合は「神奈川沖浪裏」という具合です。それは、ジャズがスタンダード・ナンバーを演奏するときに、よく知られたテーマを演奏し、それを基にアドリブという即興で音楽を展開させていくという創作方法に、なぞらえて考えることのできるものではないかと思います。しかし、結果として出来上がった作品は、基の作品とは似ても似つかない独自のものとなってしまっている。

2018年3月 6日 (火)

池田学展「The Pen─凝縮の宇宙」(4)~Chapter3 自然と文明の相克 The Rivalry of Nature and Civilization(1)

Ikedabirth この展覧会では、最後に目玉の「誕生」が控えていますが、それまでの、いわば現在の池田の代表的な作品が、この時期に制作されているという、メインのコーナーです。おそらく、そのなかでもメインとなる大作が「予兆」という作品でしょう。葛飾北斎の「富嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」を想わせる大きな波があらゆるものが呑み込んでいく、例えば、家屋、ビル、電車、飛行機、船。波によって古いパゴタ神社、現代的な建物が倒壊し、船が転覆あるいは打ち上げられ、線路がねじ曲がり車両は転落し、左下の工場または発電所らしき建物から不吉な煙が噴き出している一方で、その右側には懐中電灯も持った作業員がロープを伝って半壊したコンクリートの格納容器を調査し、墜落した旅客機と崩壊した高速道路の骨組みの残骸がぶら下がっている。このように言葉で記述すると、いかにも黙示録的な光景ということになってしまう画面で、距離を置いてざっと眺めると、そんな印象を抱かせる作品です。

Ikedabirth2 しかし、近寄って画面右側の大きな白い波頭とおぼしきものを、よく見ると雪であることが分かります。雪や氷河で蔽われた大地が溶けて、波のように盛り上がって崩れて流れ始める光景と言えるのではないかと思います。「興亡史」もそうでしたが、池田の作品、とくに大作は、小さな部分が集まって積み重なったものが、城になったり巨木になったり仏像になったりしたものでした。そして、その集合した全体が、みな崩壊していく光景でした。そこでの小さな部分を、見る者は、そこにちいさな物語を見つけ出すことが、単に細部に何が描かれたかを見るだけでなく、発見したことに喜びを起こさせるところがありました。その小さな物語があつまって、相互に関係しつつ、大きな物語を作るのではなく、全体としての大きな物語がそれらの小さな物語とは別個に、それらとは無関係に存在し、その大きな物語が小さな物語を呑み込んでいく、そういう全体の構図が共通しています。つまり、小さな物語が無数に散らばっていて、それらとは別に大きな物語の流れがある。それらのどちらかが埋もれることなく、どちらも際立つように表わしていくためには、小さな物語と大きな物語を対立的に扱うのが効果的です。小さな物語は、人々が日常生活で楽しんだり、生活を送ったりしている物語だったりするのですから、それ対立することを大きな物語とするとすれば、生活を送っている物語を障害となる物語、もっていえばそれらを潰そうとする物語が適しているということになります。その物語の対立が、画面を見る者にドラマとか動きを感じさせることになるわけです。つまり、この作品が「予兆」というタイトルをもっていて、全体の構図が大波に人工的な都市生活が呑み込まれて崩壊していくということで、テーマ性があるような様相ですが、画面において、細部の物語とそれらが集合した大きな物語が別々につくられて、そのすべてが埋もれることのないように際を立たせるために、必然的に小さな物語をポジティブなものとして、大きな物語をネガティブにしたという、画面構成の要請から、このような構図となった、と私には見えます。

だからこそ、この大災害あるいは大惨事に対して、恐怖の叫びとか悲嘆の声といったことが一切描かれていないのです。この作品にはたくさんの細部がありますが、そのなかで、このような事態に対して防護措置をとろうとする様子や被害にあった人々を助けようとする場面はひとつもないのです。つまり、大波に呑み込まれているけれど、その呑み込まれた側の受け取られということが何もない。つまり、そこに関係性が描かれていないのです。それに加えて、大波に呑み込まれているものの間に、別の日常が事細かに描きこまれている。例えば、雪山のリフトで遊ぶスキーヤー。散策する子連れの若い夫婦。プールのウォータースライダー。それらは雪の斜面を滑り降りたり、波に乗って遊ぶという、この大きな物語の大波を遊びに読み替えてしまうのです。

2018年3月 5日 (月)

池田学展「The Pen─凝縮の宇宙」(3)~Chapter2 想像の旅人 The traveller’s imagination

Ikedavillage 初期の細部を緻密に写実的に描くことを積み上げて作品をつくっていくことから、次第に細部の重点が高くなって、全体を細部が越えてしまうことになって、全体がリアルなものから、結果としてリアルとかが関係なくなって、いってみれば想像的なものとなっていったというような作品の展示です。

Ikedamizuki 「美しい村」という作品です。東南アジアかフィリピンあたりの農村の風景で、斜面には棚田がつくられて、画面真ん中左には牛に引かせて耕している人影が見えます。棚田の作物の茎や葉の一本一本がペンで明確に描かれているだけでなく、点在する家は屋根が草葺なのでしょうが、その一本一本までがまとめ結われているところまで細かく描かれています。この作品では農村風景の中にかろうじて収まってはいるという感じです。その一方で、牛に引かせて耕している人物は白い影なのです。このアンバランスが不思議です。まるで、水木しげるのまんがの世界のような、稠密にペンで描きこまれ、その執拗さで黒い部分が多くなって重くなっている背景の中心に、真っ白に映るほどに省略された人物のキャラクターがいる。そのアンバランスさが、水木のまんがの魅力で、その重い存在感のある背景がなんともいえない不気味さを醸しだして、それが際立っているのです。いつ妖怪が現れてもおかしくない、それに対して人間は無力であるのが、描かれた画面が物語っているのです。しかし、池田の場合は、水木のような画面がひとつの世界となって雰囲気とか感じを表わすというものではないようです。それは、人物を表現するということの拒否ということがいえるのではないかと思います。

Ikedastreet それは「表通り」という作品をみると、よりはっきりします。街の通りの風景ですが、そこにいる人々の姿は後姿か白い影でしかないのです。これほどの近距離で人々を描けば、表情が見えてくるのが普通です。笑いとか、意気消沈した姿とか、疲れた姿とか、そういう表情はまったくなくて、風景の中で、ポーズをとって、それなりの格好のひとの姿の外形が精確に描かれているだけです。

Ikedakamakiri 「くさかまきり」という作品です。巨大なかまきりが、鎌を構えて、飛びかかろうとしている姿勢を見上げるような仰角で描いた作品です。しかし、その頭を上げて威嚇するようなかまきりの身体は植物でできています。まるで、果物を寄せ集めてつくったアンチンボルドの騙し絵のようです。しかも、かまきりの身体になっている植物は、図鑑のような博物学的な精密さで描かれているわけです。それが組み合わされて、グラフィックデザインのようなシャープで鮮明なかまきりの画像にまとめあげられているのです。おそらく、先入観なしに、何気なく眺めれば、よく描かれたかまきりの姿にしか見えないでしょう。そのアイデアとデザイン性、そして、それを描き切ってしまう手腕には、ただ感心するばかりです。しかし、判じ絵だからというだけではないのですが、このかまきりに動感はありません。止まっているのです。

Ikedakoubou このコーナーの中心は「興亡史」という大作でしょう。この作品は池田のプロとしてのデビュー作ということだそうです。「興亡」とは興り栄えることと、滅亡することを意味しているそうです。そういえば、細部を見ると、城のいたるところで侍が戦っています。しかし、全体像に目を転じると巨木に城が組んず解れつの取っ組み合いをしている様が見て取れます。しかも、積み重なった城の合間には、工場やクレーン、レールなどの人工物で埋め尽くされています。城の左下に根の部分が描かれている“大樹”は、自然界を象徴していると言います。人間の世界が栄えてくると、自然界は破壊され隅に追いやられていくことの象徴でしょうか。自然が破壊された結果、台風や津波、竜巻といった異状気象となって人間界に返ってくる。そのさまが、画面左上の天守閣から竜巻が吹き出し、城を取り巻こうとしている光景が描かれています。悲惨な未来の暗示とも見えます。さらに画面を細かく見てみると、侍が戦う光景を白抜きで随所に描かれているのが分かります。侍たちが敵味方に分かれ、刀や槍を振りかざして戦っているのもあれば、糸巻き機を使って屋根から降りてくる侍もいる。小山のような傾斜の屋根上では、モトクロスバイクの競技を楽しむかのようにバイクに乗った侍が豪快に移動しています。また、屋根の上に鬼やクモが表れたり、折り紙でカエルの兵隊を作る侍などユーモラスな光景も随所に散りばめられている。この城は、姫路城や熊本城といった現実の城にはありえない、さまざまな天守閣が幾層も積み重なり、傾斜の異なる屋根が組み合わさった姿です。Ikedahauru 部分を描いているうちに、その部分が重なって、結果として、このような姿になった「ハウルの動く城」「千と千尋(ちひろ)の神隠し」の湯屋を想わせるところもあります。また、この作品には、そういう生きるか死ぬかの興亡というテーマに納まりきらないもの、それは、先ほどの細かい部分での侍の戦いの場の逸脱した冗談のような場面以外にも、たとえば(おそらく作者の)日常風景も盛り込まれています。しかも、季節ごとの風景を一つの画面のなかに散りばめています。画面左下に、涼やかな滝やアジアのリゾート地を思わせるプールなど「夏」を盛り込み、画面右下には収穫間近の稲穂や紅葉を描いて「秋」を演出していて、上に向かって描くにつれ、春や冬の場面が見えくる、といった具合です。

池田は、この作品について「ほぼ日刊イトイ新聞」のインタビューに答えて、つぎのように語っています。“たとえば「興亡史」に関して言いますと、いろんなカラクリのある城のなかで、馬に乗ったお侍とか、猿飛佐助みたいな人たちが戦っていて、描いているときは、とにかく、楽しかったのを覚えています。ただ‥‥やっぱり、楽しいってだけでも、「楽しくなくなっちゃう」んです。だから、あの絵の場合には、人間の文明の象徴である「お城」がどんどん増殖して、どんどん膨らんでいくことによって、自然の象徴である木が、追いやられて枯れていくようすとか、そういうイメージを、どうしても、入れたくなっちゃって。絵を描くのが楽しければ楽しいほど、楽しいだけのイメージだけじゃ、いつしか、楽しくなくなってしまう。楽しさという光ばかり描いていると、どうしても、影の部分を描かざるをえなくなって。光と影は、同時に生まれてくるんです。”

Ikedakoubou2 この作品からは、スピンオフ的な作品が同時期に複数制作されました。そのひとつに「二の丸御殿」があります。全体の壮大なスケール感とともに、細部は楽しい場面に満ちあふれている作品です。画面には大樹を取り巻くように城がそびえ立ち、お姫様から侍までさまざまな人物が登場します。画面左上の上から白い二本の線は空中ブランコの線のようで、そこに男がぶら下がってお姫様を攫っているようです。それを右上の朝顔の描かれた屋根のテラスのようなところの窓から、お姫様が身を乗り出して、追いかけようとしています。この活劇シーンのような光景の下の方では、お色気シーンが繰り広げられています。中央左では、シャワーを浴びる女性を、ふすまに身を隠した男が堂々とのぞいています。その左下では、朝帰りした男たちが、妻たちから冷や水を浴びせられているし、その下の部屋では、小僧が障子の隙間から手を伸ばし、何かを盗もうとしている場面が描かれています。画面中央近くには、畳を裏返しながら戦う忍者の姿も見えるし、その下には化け猫みたいな巨大な猫がいます。画面右下隅では、遠山の金さんらしき人物が法廷で裃(かみしも)をまくっている光景が見える。この作品の場面は、それだけてはなくて、このように1枚の絵を読み解いていくように、鑑賞するだけでも時間がたっぷり必要となるのです。

Belgfantakamogawa このような、細部にいろいろな場面を含んで、全体としてごちゃごちゃしたようなモブ・シーンをつくっているもので、昔のマンガですが、鴨川つばめという作家の『マカロニほうれん荘』という作品を思い出します。しかし、同じモブ・シーンでも、『マカロニほうれん荘』ではキンドーさんやトシちゃんといったキャラクターが画面を縦横無尽に駆け回り、紙面から飛び出してきそうな動感に満ちています。これに対して、池田の作品は、『マカロニほうれん荘』にあるような雑草のような逞しさやエネルギー、動感はないのです。そのかわりに静けさがある。そこに感じられるのは滅びていく儚さ、その先の死です。

このコーナーの最後に「領域」という作品を見ましょう。波でS字に彎曲した海面を境にして下側は海のさんご礁の様々な生き物が集まって、上側は木々が繁茂し、鳥が飛んでいる光景があります。しかし、すこし離れて全体の形をみると蟹であることがわかります。画面左下に脚が見えるし、上側のふたつの目があるのが分かります。この作品も、「くさかまきり」のような騙し絵的な作品であることが分かります。池田には蟹を題材にした騙し絵的な作品は、他にも「航路」という作品もあります。きっと蟹がすきだったのではないでしょうか。しかし、甲殻類を精確無比に描き、そのグロテスクですらある美しさで見る者を魅了してやまない、私が思っている杉浦千里と比べて見ると、池田の描く蟹は精確ではあるのですが、蟹そのものの魅力に欠けるような気がします。杉浦にあって池田にないものは、私には描く対象に対する愛ではないかと思えます。これは、池田を貶すことではなくて、彼の場合は、描くという行為そのものが第一ということの、ひとつのあらわれと思います。しかし、それゆえに、見る者は描かれた作品に感情移入しようとすると肩透かしに遭うことになるのです。

Ikedaaria

2018年3月 4日 (日)

池田学展「The Pen─凝縮の宇宙」(2)~Chapter1 エピソードの始まり The beginning of the tale

Ikedarock 制作年代が2000年以前の、池田が美大を卒業したすぐ後の初期の作品ということです。しかし、細部を緻密に描いた挙句、全体が巨大な塊のようなものになるというスタイルは、この頃には出来上がっていたようです。細部のイメージは後の奔放さは現れていませんが、圧倒的な細かさの質と量はすでに明らかです。

会場に入って、最初に大きな人だかりとなっていた作品が「厳ノ王」という作品で、美大の卒業制作ということで、格的にペン画を始めた記念碑的な作品とのことです。ペンの細かな筆致だけで屹立する岩肌を表現していて、そこにはモノトーンなのに微妙な色彩感が表れていると言います。細部に目を向けると小動物や氷柱らしきものが見え、岩棚や窪みに樹木が生えていたり、数匹の動物が佇んでいたり、岩陰を鳥の群れが飛んでいたり、まるで小宇宙のように、それぞれに物語があるような場面があるかのように、見る者の想像を掻き立てます。その舞台である岩が集積し形を変えながら無限に増殖するようにして全体として岩塔となっている。あくまでもイメージですが、全体として岩塔があって、その各部分が様々なのではなくて、まずそれぞれの部分があって、それが積み重なって全体としての岩塔に成っているという感じです。池田本人がインタビューに答えて“意外と、ただ山を見てもあまり想像は膨らまないんです。山よりも、生えている木を見ると想像が湧く。山は1つの大きな塊であり空間ですが、じつは木の一本一本にも空間があって、そういう小さなものが集まり、大きな塊や空間を形成しているわけですよね。自分の絵のイメージは、それに近いものなんです。”と語っています。そのような一本一本の木とか、岩棚の鹿や、ひとつひとつの岩を、それぞれ見ていると、こんなものを見つけたというゲームの隠れキャラを見つけるようなシンプルな楽しさや個々のイメージがそれぞれ精緻に写実的に描かれているので、それらを見る楽しさがあります。しかし、ある部分の岩と、そのとなり岩をみると順層に逆層が連続していたり、縦に割れ目が入った層と横に割れ目が入った層が隣り合っていたり、と各部分の相互の関係は全くバラバラでつながりはありません。つまり、各部分があつまって全体として塊になっているのですが、各部分が有機的に関係していない、バラバラなのです。そこには全体を部分相互の構成で捉える全体的な視野はないのです。そこには、全体に対して、まったく違って見えてくることはありません。だから、見る側は安心して見ていられる。しかし、よく見ると細部には、小さな発見があって面白い。という、ベースとなる見方を引っくり返されることなく、発見する楽しさとでもいいますか。そういうところがあると思います。

Ikedaanimal 同じ年に制作された「けもの隠れ」という作品です。岸壁にさまざまな動物の姿が見られるといってよいものか。これも、ペンで細かい線がびっしりと引かれて岩が描かれていて、その細かさは高精細のドットでプリントされたグラビアをみているようです。この画像を拡大しても、細かい稠密な線を見ることができるかどうか、それほど細密です。その細かさに圧倒されますが、それは量的といいますか、線が細くたくさん引かれているボリュームがすごいということで、その線の質的なところといいますか、その線で表わされた質感が、この作品と同年に制作された「ぶなしめじ」や「ブロッコリーの木」と変わらないのです。岩肌の硬さときのこの柔らかさが同じように見えてしまう。「ぶなしめじ」は写実的なのですが、意地悪な言い方をすれば、きのこそのものなのか、きのこそっくりにつくった石膏模型なのか区別がつかないのです。そこに、池田の細かい線の特徴があると思います。つまり、池田は無意識なのか、意識的なのか、触角的な質感という感じを切り捨てていると言えます。それは、後には、この初期ほどあからさまではありません。初期であるからこそ、ここまで直接に特徴が露わになっていると思います。実は、そこで切り捨てられるのは人間の顔の柔らかな表情です。これは、後で触れることもあると思います。

Ikedabuda このコーナーでは「厳ノ王」と、この「ブッダ」がサイズの大きな作品で、しかも「ブッダ」は初めてカラーのインクを使ったということです。しかし、会場では「厳ノ王」ほどの人気はなかったようです。おかげでじっくり眺めることはできました。インド南部にありそうな古代の石窟寺院の大規模な仏像というイメージでしょうか。長い年月を経て風化とともに、自然が侵食してきた廃墟の様相を呈しています。というのは、かりそめの説明で、そのようなものとして制作された作品ではないわけです。視線は、細部の緻密に描き込まれた部分に吸い寄せられます。よくぞこれだけの細かい作業を、これだけの大きな画面でやってしまったという、途方もないボリュームに圧倒されます。大きな画面の隅々まで細かさ、明晰さは弛緩することなく貫徹されています。まるでパンフォーカスの隅々までピントが合った映画のシーンを見ているようです。しかし、この作品は比較的ゆっくりと眺めることができたので、思えたのですが、個々の部分を見ていて後から後から発見があるのは楽しいのですが、この作品全体の焦点が見つからず、長し時間で見ていると、もどかしくなってくるというのでしょうか。全体にピントがあっているというのは、どこを見てもいいのですが、中心がないということでもあります。もちろん画面の中心には仏像が鎮座しているのですから、それだということなのでしょうが。仏像をみているうちに、視線はその右側のパラグライダーで飛んでいる白い影に行ったり、左側の隊列を組んで階段を上っている数人の白い影に行ったりと、散漫になってしまうのです。仏像は画面の中央にありますが、視線を集める中心になっていません。つまり、画面全体の構成、どこか中心で、その中心にむけて、そのほかの部分はどのような働きを担っているのかとか、そういったことが全く見えてこないのです。その結果、各部分の細かさはすごいのですが、そこで止まってしまって、そのすごいのがまとまって展開されないのです。全体として何を描いているのか、それが見る者に対して画面として訴えるものが感じられないのです。それはメッセージとかコンセプトといったものではなくて、画面が有機的にひとつになっていないとでもいうのでしょうか。だからというわけではないのですが、そこに見ている側としては感情が湧いてこない、と言える、少なくとも私の場合は、です。それは、おそらく、池田は意識して択った方向性なのではないかと思います。

2018年3月 3日 (土)

池田学展「The Pen─凝縮の宇宙」(1)

2017年10月日本橋高島屋8階ホール

Ikedapos 高島屋のホームページには会場は混雑していて、午後4時以降の来店を勧める記述があり、ネットでの書き込みも混雑を伝えるものが目立っていました。私にとっては、仕事で外出の用事が終わった後の帰りのついでに立ち寄るので、むしろ都合がいいと思い、行ってみることにしました。池田学という人を知ったのは、たまたま見たNHKのドキュメンタリー“明日世界が終わるとしても「ペン1本 まだ見ぬ頂へ」” で彼の「誕生」という作品の制作しているところを映してして、それに興味を持ったからです。普段はデパートなど行くことはないので、このような催し物の人出がどのくらいなのか分かりません。しかし、だいたい5時くらいに地下鉄の日本橋駅から売り場直通のエレベータが満員で、途中の階で降りるひとなく、最上階の8階の催し場で堰を切ったように降りて、その人たちが会場に向かっているのを目にして、普通じゃないと直感的に思いました。デパートのフロアの一部をパーティーションで仕切ったような会場は、美術館等とは違って粗末で狭苦しい雰囲気で、デパート館内のBGMが聞こえてきて、とこも落ち着いて絵画を鑑賞する雰囲気ではないのですが、入場券窓口には十数人の列で、係員もテンションが高い感じがしました。会場に入るとそれぞれ作品の前にはひとだかりがしていて、しかも、その人がなかなか動かないので、作品を人越しに眺めるような感じでした。大作が多かったのですが、細密な部分を探索するように虫眼鏡持参で見つめている人もいるくらいで、見ている人が作品の前を離れないでいるのです。美術館の展覧会でも混雑している場合がありますが、鑑賞している人は、ゆっくりでも動いているので、流れに従っていれば作品を見ることはできるのですが、ここでは作品の前でなかなか人が動かない。そこに後から後から人が入ってくる。比較的すいていると書かれていた時間帯ですら、これだけ混雑しているのですから、日中の混雑時では、作品を人越しに眺めること儘ならないような状態なのではないかと想像してしまいます。それだけ人気があるということでしょうか。

池田学という人が、どのようなどのような作品を描いているか。主催者のあいさつでは、次のように説明されています。“わずか1mmに満たないペン先の線で壮大な世界を描き出すアーティスト、池田学。1日に約10センチ四方の面積しか描くことができない緻密な描写とスケールの大きな構成が、現実を凌駕するような異世界の光景を現出させ、アメリカをはじめ世界で高い評価を得ています。本展では、アメリカ・ウィスコンシン州のチェゼン美術館に滞在しながら3年かけて制作された新作「誕生」をはじめ、世界中のコレクターや美術館が所蔵する池田氏の作品を集めて一堂に展覧。画業20年の軌跡を辿りながら、池田氏の豊かな想像力の秘密に迫ります。”

Ikedanhk もうちょっと具体的に、図録にあった説明を引用します。“細部まで描き込まれた精緻な描写、画面全体にみなぎる緊張感と圧倒的な空間性。細部のストーリーの豊富さとともに、池田学の作品はその前に立つ人を飽きさせない。すべての部分にピントの合った明晰かつ妥協のない筆致は、それらすべてが1mmに満たないペン先から描き出されているという事実によって、見る者に驚きと興奮を与える。少し離れてみると、細部をまるごと包み込むように、広大な空間の中に屹立するひとつの宇宙の姿が立ち現れる。(中略)全体の下書きや習作を描かないという池田の制作は、白い紙の上に小さなモチーフをひとつ描くことから始まる。草木、魚、電車や建物のような身近な事物に始まり、結婚、出産など池田自身が経験した出来事、映像やインターネットの画像など、日々の記憶に蓄積されたイメージが現れ、細部から細部へ描き連ねられる。あるものは形を変え、あるものはぶつかり合い、相互に干渉し変容する。幾重にも重ねられたペンの線が色彩の深いグラデーションを生み、細部の有機的な陰影を形づくる。こうして縫いつながれたディテールはある瞬間から巨大な生態系の姿に変貌し、空気と秩序をまとい、全体と細部との絶妙な表面張力の上に顕現する。”これでも抽象的かもしれませんが、池田の作品の全体像を要領よく言い表していると思います。しかし、それをどのように見る人は捉えるか、何を魅力としているかを具体的にイメージできません。また、ここで触れられていないのは、池田は何を描いていないかというと、これがけっこう、この人の魅力を探る上で意味を持ってくるのではないか、と思います。そのあたりのことを頭の片隅に置きつつ、作品の感想を述べていきたいと思います。

なお、作品は、次のような構成で展示されていたので、それに従って記述を進めて行きたいと思います。

Chapter1 エピソードの始まり The beginning of the tale

Chapter2 想像の旅人 The traveller’s  imagination

Chapter3 自然と文明の相克 The Rivalry of Nature and Civilization

Chapter4 ミクロコスモス Microcosmos

Chapter5 様々な断片 Various Fragments

Chapter6 誕生 Rebirth

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