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2018年3月31日 (土)

没後30年銅版画家 清原啓子(2)

Kiyoharapicture  「絵画」という作品。後の作品では、このように余白をたっぷりと空けることはなくなっていきますから、初期のスタイルが固まっていないところが分かるのですが、画面右下の珊瑚のように見える形状のものですが、細かな細胞のような粒々が集まって、このような形になっているものだろうと見えます。それは、蔓と同じように、この人の作品の中で頻繁に使われるパターンなのですが、この作品は比較的早い時期に現われたものと思います。珊瑚のようだと書きましたが、粒々のひとつひとつを点を一点ずつ打って陰影をつけたり、細かい線を何本も引いて、その一粒を描いていて、その細かさが驚かされます。そして、その粒々が増殖するようにしてできたのが、この形態というように見えます。だから結果として珊瑚のような外形ですが、細胞が増殖して異様な形になっていく、というイメージです。しかし、これはここで画像で見る限りでは、そのようなイメージが湧くことはなく、現物に近寄って、ループで粒々を見ていると、そのグロテスクさに気づくと。思いますこれに気づいてしまうと、気持ち悪くなると思います。そういう不気味さ、夢が突き詰められて爛れたような気持ち悪いところに突き抜けていく、そういうところが清原の作品には、あると思います。この作品には、それが部分的ですが直接露わになっていると思います。
Kiyoharakai  「貝殻について」という作品。一見ヤドカリに見えましたが、大きな貝殻と前部にロバの頭のような物が貝から半身をだしています。そして周囲には、「絵画」でも見た、粒々が増殖したような物体があります。粒はすこし大きくてフジツボのようにも見えます。ここでは、それもグロテスクなのですが、黒くみえるロバの頭のような物体。一見、黒く表面がスベスベの金属のような感じにも見えますが、この黒は微細な線を数えきれないほど、しかも幾何学図形のように平行な縞として引かれて描かれています。表面がスベスベに見えるということは、それだけ均質に細い線が引かれているからです。この頃の作品は、何が描かれているとか、画面全体を世界としてみるとか、そんなことよりも、とにかく、細かい作業、ひとつの点を打つ、一本の線を引くというひとつの作業の質の高さとその量の膨大さに圧倒されたという印象です。おそらく、清原という人が作品を制作するにあたって、異常に細かく点を打つ、線を引くということは制作のための手段とか技法を超えて、描く目的や動機となっていたのではないか、それは確かなことではないかと思います。そういうことが、後の代表作ではオブラートに包まれてしまっていますが、これらの作品には、直接現われていると思います。
Kiyoharapoet  「詩人─クセノファネス」という作品です。ここから、版画と下絵を並べて展示するようになります。私は作品を見る人なので、画家の制作過程には興味がなく、どのように作品ができあがっていくかなど見なくてもいい舞台裏を見させられたと思って、余計なものは見たくないと思うほうです。完成された作品を見ていればいいので、作者などというのは、その作品を同一かさせるブラントのようなもので、実際の人物といったことは作品を見る上では、むしろ邪魔と考えています。だから下絵を見せられるのは、余計なお節介で、下絵というのを作品として提示しているのならそれでもいいのですが、どうやらそうでもないらしいので、作品をじっくり眺めるには邪魔というのが正直なところです。ただ、下絵といえども、ここで展示されているのは、それなりに完成されたものと映って、描いては消したり、描きたしたりという試行錯誤の後のようなものは見られず、きれいに仕上げられているので、それなりではありますが。鉛筆で引かれた線もまた、版画の場合に負けないほど、細い線が無数にあったので、この人の作品というのは、基本的に点と線だけでできていて、そういうところで画面をイメージしている、というよりも、この人にとっては絵というのは点と線でできているものだ、ということが分かります。
 少し脱線が長くなりましたので、作品に戻りましょう。この作品は清原の作品には数少ない白と黒のコントラストがなされていて、白が映える作品です。版画であれば刷られていない紙の地の白いところが割合に多くて、それが白く映えているという、刷られているところより、そうでないところ、余白に視線がいく作品であると思います。白が映える余白とは言っても、一見白く見えているところ、背景以外のところは、細くて微かにしか見えないような線が引かれています。それゆえ、この白さが映えるのは偶然ではなく、作者がそうしたものです。他の作品では、余白を埋めつくように黒くなっているのですが、その数少ない例外と言えそうです。しかし、それではと、余白もあるし、描かれる対象である題名にもなっている詩人の姿はというと、木の蔓や茸や植物に覆われて殆ど隠れてしまっています。部分的に覗かせているというようになっています。この男には何本も矢が刺さっていて、縛られたような格好で矢が刺さっているという姿は、聖セバスチャンの殉教図の姿とかさなるところがあるのではないでしょうか。とくにバロック美術において、宗教的なテーマでありながら倒錯的なエロティシズムを同居させたような作品が多く描かれていました。しかし、清原の作品には、エロティシズムとか宗教的な法悦といった要素はなく、また、これだけ矢が刺さっているのだから痛いだろうにということもない。それは、人物を描いていても、痛みを感じるような身体性がない、もっというと、痛みを感じるような人の意識がない、生きていないのです。

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