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2018年3月 4日 (日)

池田学展「The Pen─凝縮の宇宙」(2)~Chapter1 エピソードの始まり The beginning of the tale

Ikedarock 制作年代が2000年以前の、池田が美大を卒業したすぐ後の初期の作品ということです。しかし、細部を緻密に描いた挙句、全体が巨大な塊のようなものになるというスタイルは、この頃には出来上がっていたようです。細部のイメージは後の奔放さは現れていませんが、圧倒的な細かさの質と量はすでに明らかです。

会場に入って、最初に大きな人だかりとなっていた作品が「厳ノ王」という作品で、美大の卒業制作ということで、格的にペン画を始めた記念碑的な作品とのことです。ペンの細かな筆致だけで屹立する岩肌を表現していて、そこにはモノトーンなのに微妙な色彩感が表れていると言います。細部に目を向けると小動物や氷柱らしきものが見え、岩棚や窪みに樹木が生えていたり、数匹の動物が佇んでいたり、岩陰を鳥の群れが飛んでいたり、まるで小宇宙のように、それぞれに物語があるような場面があるかのように、見る者の想像を掻き立てます。その舞台である岩が集積し形を変えながら無限に増殖するようにして全体として岩塔となっている。あくまでもイメージですが、全体として岩塔があって、その各部分が様々なのではなくて、まずそれぞれの部分があって、それが積み重なって全体としての岩塔に成っているという感じです。池田本人がインタビューに答えて“意外と、ただ山を見てもあまり想像は膨らまないんです。山よりも、生えている木を見ると想像が湧く。山は1つの大きな塊であり空間ですが、じつは木の一本一本にも空間があって、そういう小さなものが集まり、大きな塊や空間を形成しているわけですよね。自分の絵のイメージは、それに近いものなんです。”と語っています。そのような一本一本の木とか、岩棚の鹿や、ひとつひとつの岩を、それぞれ見ていると、こんなものを見つけたというゲームの隠れキャラを見つけるようなシンプルな楽しさや個々のイメージがそれぞれ精緻に写実的に描かれているので、それらを見る楽しさがあります。しかし、ある部分の岩と、そのとなり岩をみると順層に逆層が連続していたり、縦に割れ目が入った層と横に割れ目が入った層が隣り合っていたり、と各部分の相互の関係は全くバラバラでつながりはありません。つまり、各部分があつまって全体として塊になっているのですが、各部分が有機的に関係していない、バラバラなのです。そこには全体を部分相互の構成で捉える全体的な視野はないのです。そこには、全体に対して、まったく違って見えてくることはありません。だから、見る側は安心して見ていられる。しかし、よく見ると細部には、小さな発見があって面白い。という、ベースとなる見方を引っくり返されることなく、発見する楽しさとでもいいますか。そういうところがあると思います。

Ikedaanimal 同じ年に制作された「けもの隠れ」という作品です。岸壁にさまざまな動物の姿が見られるといってよいものか。これも、ペンで細かい線がびっしりと引かれて岩が描かれていて、その細かさは高精細のドットでプリントされたグラビアをみているようです。この画像を拡大しても、細かい稠密な線を見ることができるかどうか、それほど細密です。その細かさに圧倒されますが、それは量的といいますか、線が細くたくさん引かれているボリュームがすごいということで、その線の質的なところといいますか、その線で表わされた質感が、この作品と同年に制作された「ぶなしめじ」や「ブロッコリーの木」と変わらないのです。岩肌の硬さときのこの柔らかさが同じように見えてしまう。「ぶなしめじ」は写実的なのですが、意地悪な言い方をすれば、きのこそのものなのか、きのこそっくりにつくった石膏模型なのか区別がつかないのです。そこに、池田の細かい線の特徴があると思います。つまり、池田は無意識なのか、意識的なのか、触角的な質感という感じを切り捨てていると言えます。それは、後には、この初期ほどあからさまではありません。初期であるからこそ、ここまで直接に特徴が露わになっていると思います。実は、そこで切り捨てられるのは人間の顔の柔らかな表情です。これは、後で触れることもあると思います。

Ikedabuda このコーナーでは「厳ノ王」と、この「ブッダ」がサイズの大きな作品で、しかも「ブッダ」は初めてカラーのインクを使ったということです。しかし、会場では「厳ノ王」ほどの人気はなかったようです。おかげでじっくり眺めることはできました。インド南部にありそうな古代の石窟寺院の大規模な仏像というイメージでしょうか。長い年月を経て風化とともに、自然が侵食してきた廃墟の様相を呈しています。というのは、かりそめの説明で、そのようなものとして制作された作品ではないわけです。視線は、細部の緻密に描き込まれた部分に吸い寄せられます。よくぞこれだけの細かい作業を、これだけの大きな画面でやってしまったという、途方もないボリュームに圧倒されます。大きな画面の隅々まで細かさ、明晰さは弛緩することなく貫徹されています。まるでパンフォーカスの隅々までピントが合った映画のシーンを見ているようです。しかし、この作品は比較的ゆっくりと眺めることができたので、思えたのですが、個々の部分を見ていて後から後から発見があるのは楽しいのですが、この作品全体の焦点が見つからず、長し時間で見ていると、もどかしくなってくるというのでしょうか。全体にピントがあっているというのは、どこを見てもいいのですが、中心がないということでもあります。もちろん画面の中心には仏像が鎮座しているのですから、それだということなのでしょうが。仏像をみているうちに、視線はその右側のパラグライダーで飛んでいる白い影に行ったり、左側の隊列を組んで階段を上っている数人の白い影に行ったりと、散漫になってしまうのです。仏像は画面の中央にありますが、視線を集める中心になっていません。つまり、画面全体の構成、どこか中心で、その中心にむけて、そのほかの部分はどのような働きを担っているのかとか、そういったことが全く見えてこないのです。その結果、各部分の細かさはすごいのですが、そこで止まってしまって、そのすごいのがまとまって展開されないのです。全体として何を描いているのか、それが見る者に対して画面として訴えるものが感じられないのです。それはメッセージとかコンセプトといったものではなくて、画面が有機的にひとつになっていないとでもいうのでしょうか。だからというわけではないのですが、そこに見ている側としては感情が湧いてこない、と言える、少なくとも私の場合は、です。それは、おそらく、池田は意識して択った方向性なのではないかと思います。

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