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2018年3月 8日 (木)

池田学展「The Pen─凝縮の宇宙」(6)~Chapter3 自然と文明の相克 The Rivalry of Nature and Civilization(3)

Ikedatrace 池田の作品では、海、とりわけ波をモチーフとして頻繁に取り上げられています。「予兆」は波の形が基本になっていますし、「Meltdown」では波の穏やかさが二項対立の一方の要素となっています。「痕跡」という作品は、その海面が画面全面を占めています。海面の上を飛んでいる鳥の影のほかは、画面いっぱいに砕ける波の様子が描かれています。しかし、近寄って見ると、中心部には深い青色の部分と、島があることを連想させる穏やかな浅瀬があることが分かります。また、鳥の影は海の青の濃くなった黒のような感じで、海の上でなくて海中にいるようにも見えてきます。そう見ていくと、そもそも波の影が濃くなっただけで鳥などいないかもしれない、という疑いも起こってきます。ここには、近寄って細部を目を凝らしてみていくと、遠目で全体をみた概観を裏切っていく池田の作品の特徴が現れています。それは、Ikedadrifter2 かなり飛躍した議論になるかもしれませんが、全体を概観するというパースペクティブに見方は概念による知性の働きを中心にしたものです。空間の解とか構成といった構想力に基づくといっていいと思います。これに対して、細部を目を凝らして、ひとつひとつ描くというのは接近した、直接触れるような、触覚に近いダイレクトな感じのもので、より直感的、肉体的です。さて、近代の西洋絵画は、セザンヌの写実とかキュビスムといった傾向は、知的に画面を構成していく傾向を推し進めたものです。池田だけではないのかもしれませんが、そういう近代絵画の傾向は知的にすぎて、人の肉体的な実感からかけ離れたものになって行きました。それに対して、池田の場合は、ペンで細かい線をひたすら引きまくるという、手や指という肉体を酷使する結果して稠密な画面を描くという作品を制作しています。それは、知性で全体の画面を構想する以前に、とにかく手という肉体を動かし線を引いていくということに思えます。その結果として、知性では捉え切れなかったもの、あいまいなものや画されていたものが、作品の細部に表わされている。それが、全体としての画面の中に表わされている。その両方が併存して画面にあるということになっているのです。それが、見る者には作品の一様な解釈ではない、見る人それぞれの多様な解釈を生み出すものとなっているのです。それが池田の作品の大きな魅力ではないかと思います。この「痕跡」という作品でも、この画面では見えないかもしれませんが、真ん中あたりの色が濃くなっているところに、濃い影で鳥居のような形態が見えます。まさに痕跡です。とくに、海面というのは透明な水ですから、その水を通して、海面の下には痕跡が隠されているかもしれない。そういうことでしょうか。池田は海を描くことが多い。

Ikedadrifter その海面を通すということを断面で描いたのが、「漂流者」という作品です。以前に見た「領域」もそうですが、海面の上と下を断面で描いています。「痕跡」が上から水平面を描いていたのに対して、これらは垂直面でえがいていて、海面に下に隠されているのは、このような世界というものでしょうか。「痕跡」では見えるものとして波と、痕跡である島の影や鳥の影、鳥居の影だったのか、これらの作品では海の下の部分が明瞭になっていて、「痕跡」の見えるものと見えないもの対立的な二項並立はありません。この断面を構図とするのは、他の作家でも、例えばクリスチャン・ラッセンなどがよく取り上げているパターンです。池田は、ここではアドリブの基となるテーマを、このあたりから使っているかもしれません。しかし、海中の細かく描かれた生物や海流の描写を見ていると、すこしグロテスクで幻想的な印象がしてきます。このイメージは「風の谷のナウシカ」の腐海の幻想的なイメージを想い起こさせるのです。Ikedadrifter3

池田は海の他にも山の風景をしばしば取り上げます。ひとつは岩稜、もうひとつは森の風景です。「山と雲」という作品です。「痕跡」では画面全体が海面に占められていたように、ここでは山森の木々に占められています。そこから雲が湧いてきて、それが龍になってくる。それだけでなく画面上部には岩峰なのか、巨木(といって現実離れした巨大さですが)なのかが柱のように空に向かって突き上がっています。それは龍の胴にも見えます。とはいっても、この作品での圧巻は、一本一本描かれた樹木です(「Untitled」という作品もそうです)。これを見ていると、池田という作家は、実際には描く前には長時間瞑想したりしてイメージを練っているのでしょうが、頭の中で概念的にイメージをつくった通りに描くという作家ではなくて、描くという作業をする手の肉体的な感覚からもイメージを作っていく作家であることが分かります。生物学Ikedamountain 者の福岡伸一が池田について次のように語っています。“それは彼の内部にある種の特殊な同時性が存在するからだ。顕微鏡的な解像度で細部を描いている真っ只中にも、常に望遠鏡で宇宙を見渡すような俯瞰性が共存している。つまり極小の細部の中のどの場所にも全体があり、極大の全体のあらゆる部分に公平に細部がある。それゆえに、近寄ると顕微鏡的な精密さが浮かび上がり、遠くから眺めると望遠鏡的なスペクタクルが立ち上がる。ミクロスコーピック・テレスコープ。ミクロな世界を訪ねるとそこにいちいちの物語があり、マクロな世界には壮大な一大絵巻がある。ここには、極小世界と極大宇宙を目まぐるしく往復する意識の流れがあるのだろう。いやこの言い方はたぶん正確ではない。ほんとうは往復してはいないのだ。それは運動ではなく、同時性なのだ。池田学の脳内には、AIが実現しようとしているもの─膨大なビッグデータの中から最適解をと抽出してくるアルゴリズム的ロジック─とは全く別の、同時性かある。極小の中にある世界が、極大の空間に広がる宇宙と、瞬時に重ね合わされてしまうような、言うなれば量子論的な同時性。この同時性をいずれも全く破綻なく共存させうることが、池田学の天才性の真骨頂だと思う。”と権威によっかかってしまいました。Ikedauntitles

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