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2018年4月21日 (土)

没後20年麻田浩展…静謐なる楽園の廃墟(4)~第3章 パリへ

 Asadawaterfoll 麻田は1971年にパリに渡り、そこを活動の拠点とした。その頃の作品です。
2階の展示室で最初に目に飛び込んできたのは、「原風景(赤)」という1.5m四方の大きな作品で、前面に塗られた赤は鮮烈でした。それは、センスの良さがまずあって、赤の鮮烈さあるのにどぎつさがなく、落ち着きがあって、しかも透明感がある。地面を描いているので、けっして原色とか抽象的な赤ではなくて、少しくすんだような、汚れたようなところがあるのですが、それが現実的な存在感を生んでいる。この人の色の使い方の感覚は、絵の方向性はまったく違うのですが、加納光於の抽象画の色の感覚に通じるところがある、と作品を見ていて思いました。例えば「落水風景」という作品などは中心に円があって、加納の作品に少し共通しているところがあるかもしれません。
 これまで、展示されている麻田の作品を見ていると、私には、麻田は、何かを描く、それは具象的な対象でも、内心の思いを形にするとか抽象的なことを描くとか、そういうことよりも、描くことを画面に存在感を与えることのように捉えて、そのために、石膏や絵の具のようなマチエールを盛ってみたりしていた。しかも、存在感は絵を見る者に納得してもらわなければ、絵としての価値(存在意義)がない、それで見る者にも分かるように既存の手法試みた、アンフォルメルだったり、シュルレアリスムだったりと、そうこうしているところで、自身の色彩センスに気がついて、画面を色で塗りつぶすようになった。それを、それを見る者に納得させるため、塗りつぶしている色との適合性を考えているうちに、壁とか地面とか水といった一面に広がるものを題材として発見した。その題材だけでは、見る者は、対象を見たがるので、視線が定まらず、画面を醜くなるので、その視線の助けとなるものを壁や地面の手前に加えていった。このように、私には、麻田の作品の性格を、そのように見えました。
Asadaorigin  「原風景(重い旅)」という作品です。穴ボコの地面を描いた作品です。私は、描かれているのが地表だとかいうことよりも、この画面いっぱいに塗られた色、深いグレーと、そのグラデーションの暗い、落ち着いた雰囲気を感じます。こんな穴ボコがあって、表面いっぱいに小さな粒々があるのは地表なのだろうことは分かります。しかし、それにしては、この地面は土なのか岩なのか、いかにも地面らしくはなっていますが、リアルではない。さらに見ていくと、ヘコんでいるところの影の付け方がチグハグであることが分かります。それは、ひとつの視点から俯瞰して地面を見て、それを描いているということではないということです。ヘコみもそうですが、そこから飛び出しているような物体は、上から見下ろしているにもかかわらず、横から見たような角度で描かれています。これは、視点が複数存在しているのか、空間が歪んでいるのか、もしかしたら、画家は空間をつくろうとは意識していなかったのか、いずれにせよ、見る者は地表の風景と思っていたら、実は、そうではないということに、気がつく人は気づくことになる。「あれ?!」という感じです。おそらく、このことに気づく人は、この画面に魅入って、じっくり眺め始めた人に違いありません。結果として、この作品は、そこで見る人を選別していると言えます。空間の歪みとか、不安定さは、そういう関門を通り抜けた者だけが感じることのできるもので、そこで一種選ばれたともいうような親密さとでも言うべき濃密な関係が生まれる。そういう作品であるように思います。
AsadatrotAsadaplaza  「ル・トロトワール№1」という作品で、ル・トロトワールとはフランス語で歩道のことだそうで、「原風景(重い旅)」と同じ頃の制作ということです。「原風景(重い旅)」が地表を描いていても、題名は原風景としているのに対して、この作品はタイトルで題材を特定しています。歩道の石畳の白っぽい色が基調となっているためか「原風景(重い旅)」のような暗さはなく、色調としては明るいのですが、石畳の隙間やポッカリと開いた穴にある、あるいは出てくるものが鳥の頭、手の指、三角ポッド、あるいは得体の知れないもの、でシュルレアリスムっぽいところがあります。ここでは、これらのものたちが雑然とした賑やかさの印象をつくりだして、「原風景(重い旅)」の静寂さとは違った印象です。おそらく、画面を塗りつぶして世界とするということについて、麻田は、このふたつの面ともに持っていたのでしょう。この作品を経由して「原風景(重い旅)」をもう一度みると、「原風景(重い旅)」にも、動きという要素があったことに気づきます。
Asadaplaza_2  「ひとつの溝」「緑の風景」といった作品。地面を描いていた麻田は、その地面に画面で言えば水平方向に一直線の溝を入れます。そこで俯瞰で地面を見下ろすよう平面だった画面に溝という立体のきっかけがうまれました。その溝を描くことによって、「原風景(重い旅)」で隠されていた視線が一つではないことが顕在化します。そのせいもあって、「原風景(重い旅)」では小さくしか描かれていなかった地表から飛び出すものが大きく描くことができるようになりました。溝という凹み深さという立体があることが明白になれば、地表から飛び上がる高さも同時に明らかにすることができるわけです。「緑の風景」では中央で水が高く吹き上がる様が描かれています。そういう高さが描かれるということは、地表の上の空間が画面のなかで存在することになります。その結果として「」ひとつの溝では、その空間を吹き上がった水が空中でうねるように広がっている様が描かれます。この両方の作品では、その空中を丸い水滴が漂っている様も描かれ始めます。また、この後の麻田の作品で空間を漂うもののシンボルのような鳥の羽がここでは描かれています。しかし、その空間と地面の境界が描かれていません。俯瞰で見下しているという体裁なのでしょうが、それでは高く噴き出している水の描き方が、角度がおかしい。その角度では地面からはなれた空間が画面でちゃんと存在していなければならないはずです。それでは空間が歪んでいるのかということになります。そこで考えられるのは、地面に空間が属してしまっているということです。麻田は、自身で「地表風景と、以前からやっているものとの、総合を目指している。森羅万象。すべての存在感を、ごみ箱をぶちあけるようにして地表に表出してみたい」その地表を描いた作品である「原風景」を「自分の心理的、時間的、空間的な物をすべて含めた幻想風景であり。空想の世界」と語っています。その言葉の中から、地表とう塗りこめた画面に空間も時間もすべてぶち込んで行こうとした、そういうところがあると思います。そして、特筆すべきは、「ひとつの溝」が赤、「緑の風景」が文字通り緑という色で統一された、その色がすばらしいのと、そのように色で統一された世界を描ききる色彩センスで、それがこれらの作品の大きな魅力であると思います。
 実際の2階の展示室に入ってから、このような大作が展示室の壁面を埋め尽くすように展示されていて、室内の濃密さに息切れしてしまうほどでした。ちょうど、マーク・ロスコの作品がそのスケールで見る人を包み込むようにしてひとつの空間に誘うことと似たような感じがしました。もっとも、麻田の作品にはロスコの宗教性、敢えて言えば押し付けがましさはありません。
Asadafable  麻田はこのような大作のみを描いたのではなくて、パリの地で版画をはじめ、エッチングによる小品を制作しましたが、これはファーブル昆虫記をもとに制作それたものの一枚ですが。この細密な描写はまた麻田の力量を端的に示すものであると思います。この細密な描写は大作で描かれていた個々のものたちに、その細密さゆえにリアリティ以上の現実離れした印象さえ与えています。その部分を抜き出したというところもあると思います。現実のセミを忠実に描写しているのに、幻想的な印象を抱かせてしまう。
 「悲の地」は三部作ですが、この後のコーナーで、画面いっぱいに地面を描く、地面を見下ろす視点から、空間を横から描く視点に転換していくのですが、その過渡期ともいえる作品ではないかと思います。この作品には地面と空間の境界が描かれています。私のような素人の半可通が知ったかぶりをするようですが、画面いちめんを塗りつぶすということを繰り返しているとネタか尽きてしまう。それとは別に、地面上の個々の事物を詳細に稠密に描いているうちに、それらの存在が地面の存在を越えて主張し始めた。例えば、たくさんの羽が舞っている。そのためには空間を広くとることが求められてきた。そのために、「原風景」のような作品に比べて、空間が開けたような、隙間が開いたような感じがします。しかし、塗り込められた画面に隙間はなく、その空間があるにかかわらず、開けたと思ったら、さらに閉塞されている。麻田の閉ざされた画面は、さらに一段深化されてしまった。逆説的な言い方で、言葉遊びに聞こえるかもしれませんが、空間を開くことによって、閉塞を一段と深くした、と思えるのです。一方、これらの個物がぶち込んだような、その個物の存在の重さが増してきて、画面には活気のような動きが現れてきています。それらが画面に、納まりきれなくなってきたと言えるかもしれません。

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