無料ブログはココログ

« ある会社の決算説明会 | トップページ | 内部監査担当者の戯言(10) »

2018年4月26日 (木)

與那覇潤「知性は死なない 平成の鬱をこえて」

 “世界秩序の転換点でもある平成という時代に、どうして「知性」は社会を変えられず、むしろないがしろにされ敗北していったのか。精神病という、まさに知性そのものをむしばむ病気とつきあいながら、私なりにその理由を、かつての自分自身にたいする批判をふくめて探った記録。”と著者自身が語っているが、書き下ろしの体裁になっているけれど、一貫性が感じられず、自身の罹患のことを語ったものと反知性主義が蔓延している状態について語ったことの二本立てで、小文を連発したのを集めたエッセイ集として読んだ。
 著者は「知性」の立場、端的に言うと、身体と理性の二元論的な立場で感情などは身体に起因するものであるのに対して、理性に起因する論理で言葉を組み立てるということ。それを思想として堅持するのであれば、行動にも反映しなければならないのではないか、という倫理的な立場。言ってみれば知行合一。例えば、嫌韓や反中が盛り上がった風潮のなかで、相手の国の言っていること自体は内容的に、リベラルと言われる人々がずっと主張してきたことと重なるわけで、その人々が、韓国や中国の主張に関して「反日を感情的に煽って政治に利用するのは問題だが、言っている内容は正しい。いきりたつ日本人こそ戦前の反省が足りない」というような敢然と筋を通す人が、なぜ出てこなかったのか。反知性主義が蔓延しているということについては、知性が衰えて感情とか身体に起因ものが優勢になったという二元論でとらえるのではなく、そういう分類は物事をストックとして捉えているものだという。そうでなくてフローとして捉えるべきだはないかという。それは、例えば知性の立場ではこういう考えだという、どう考えるかという道筋ではなくて、こういう考えというラベルで知性か感情という分類をしてしまっている。こういう主張は保守とかリベラルという固定化させてしまっていることだ。
 それが端的にあらわれているのが、マルクスの解釈だ。共産主義というと私有財産をなくしてみんなが平等になるというように一般的に理解さされている。しかし、マルクスは金持ちと貧乏人の対立ということは言っていない。彼が言っているのは資本家と労働者だ。お金もちと資本家とは違う。資本とは、お金が投資されて事業を作り出すようなものなったものだ。現ナマが箪笥のなかでへそくりとしてしまわれているのは、いくら大金でも資本ではない。マルクスは、そのお金ではなく資本を対象とした。事業を生み出す資本というのは、公共的な性格が強い。だから社会共有のものとして流通させるべきではないのか。それがマルクスの考え方ではないかという。それでは、むしろ資本主義を純粋化させるような考え方ではないかということになる。そうだとすれば、著者のいうフローとして捉えるということは、たいへんな困難を伴うが、自分で考えろということに収斂することになると思う。それだけ自分で考えていない人が多いということだ。耳が痛い。

« ある会社の決算説明会 | トップページ | 内部監査担当者の戯言(10) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 與那覇潤「知性は死なない 平成の鬱をこえて」:

« ある会社の決算説明会 | トップページ | 内部監査担当者の戯言(10) »