無料ブログはココログ

« 没後20年麻田浩展…静謐なる楽園の廃墟(5)~第4章 帰国 | トップページ | ある会社の決算説明会 »

2018年4月23日 (月)

没後20年麻田浩展…静謐なる楽園の廃墟(6)~第5章 晩年

Asadafall  1990年以降の作品が展示されていましたが、ここで作風が変わったとか描く対象が変わったようには思えません。なぜ、ここで分けたのか私には理由が分かりませんでした。
このコーナーの展示室に入ってすぐに「御滝図(兄に)」が展示してありました。麻田には珍しく那智の滝という具体的なものを題材にして描いた作品です。しかし、13世紀の「那智瀧図」へのオマージュと解説されていて納得がいきました。つまり、実際の那智の滝というよりは、描かれた那智の滝を題材にしているわけです。それは、画面下の水が流れ出た海(?)が滝の風景からはみ出ていて、滝の風景の周囲に黒い枠があることからも分かります。おそらく、「御滝図(兄に)」で円で枠取りされた風景が4つ横に並んで挿入されていますが、真ん中向かって左の滝の風景は、「那智瀧図」の部分を引用しているのではないかと思います。そして、その向かって左側、つまり端の円は麻田の兄である麻田鷹司の「雲烟那智」からの引用ではないかと思います。また、真ん中右側は自身の「地の風景」ではないでしょうか。これらは、私には麻田の「御滝図(兄に)」が13世紀の「那智瀧図」や麻Asadafall2 田鷹司の「雲烟那智」を題材にして、それらのネガとして描かれているのではないかと思われるのです。つまり、「那智瀧図」が暗い色の中に、真白い筋が伸びているという巨大な滝の持つただただ豪快で大味な大量の水の集積では無く、静かに筋のように伸びた白さ、その穏やかさや静けさを持った水がそこにはあるという静謐な雰囲気に、滝の神秘性、宗教性を見る人に感じさせるものになっている、つまり、画面の中心は白い線にあって、視線がそこに集中するように描かれています。だから、結果的になのかもしれませんが、滝の周囲の景色は暗くハッキリしません。これに対して、「御滝図(兄に)」は、逆に遠心的と言えるのではないかと思うのです。「那智瀧図」に対して地と図が反転していると言えばいいのでしょうか。滝の水は、「那智瀧図」よりも写実的になって、滝の岩壁の一部に引っ込んでしまっている。その反面、岩壁には円で枠取りされた風景が4つ並べられていたりしています。そうすると、視線は滝の水以外のところに導かれることになります。それは、「那智瀧図」が何よりも滝を描いていて、それを見せる作品であるのに対して、麻田の「御滝図(兄に)」は全体を志向した作品であるということで、滝を描いているのではなくて、滝の風景もある全体を画面に入れているという作品であるということです。つまり、この麻田の作品は先行する「那智瀧図」へのオマージュであると同時に、自分はそうは描かないというマニュフェストでもあるのではないかと思えるのです。
Asadagreen  「エスパス・ヴェール(Ⅱ)」という作品です。エスパス・ヴェールというのは緑の空間という意味ということで、この作品は2点で一対の一方なのですが、まず、グリーンの色の基調のしかたと、その色遣いが、この画家の独自性で、この色調だけで他はいらないと思わせるものですが、この作品では、「御滝図(兄に)」の方向性であるひとつの風景についても、羽根やテーブルといった物と同じように画面に一部として、その意味とか位置から切り離して取り込んでしまった作品です。この風景そのものも、ひとつのまとまった風景になっていなくて、森の風景と難破した帆船が重ねあわされていて、脈絡がありません。その風景のまわりには黒い枠があるようになっています。しかし、その枠は曖昧で、風景の中のフクロウのいる樹のてっぺんは枠を突き抜けていますし、風景と枠をまたぐように風景から浮いているような葉っぱや羽根が漂っています。しかも、この風景の中にあるパーツ、例えば樹木やふくろうなどの描き方はわざとらしさがあって、まるで風景を舞台として演技しているように見えます。もともと、麻田の描くは細部はリアリズムを追求していくうちに、度を越してしまって却ってうそ臭くなってしまうところがありましたが、ここにいたって、それを意識的にやっているように、私には見えました。それは、以前であれば物をそれがあるバックグラウンドから切り離されて、てんでばらばらに画面にとりこまれていたのが、この作品などは物があるバックグラウンドである風景すらそれ自体の秩序をバラされて画面に取り込まれるようになっています。それは、現実の関係とか構成等に対して解体してしまうと、そこにある事物が構成に対して関係していることから生ずるポーズが浮いてしまうわけで、その浮いた状態を麻田は画面に取り込んでいるわけです。これは物だけでなく、現実の関係とが構成つまりシステムといったものを間接的に画面に取り込んでいることになるのではないかと思います。そこで、画面が全体をあらわすということの深度がさらに強いものになっていると思います。
Asadatanta  「庵(ラ・タンタション)」という作品です。ラ・タンタションは誘惑という意味だそうですが、画面に引き込もうとする意図があるのかもしれません。それは画面を書き割りの舞台のようにしつらえているように見えるからかもしれません。画面上部の蔦の絡まった彎曲した木の太い枝は左右の柱で支えられた鳥居のようで、それが画面への誘いのように見えます。その真ん中には麻田には珍しく大きな人影のようなものが描かれています。これは人影なのか、そうでないのかは、私には分かりません。これらが黒の枠取のなかでブラウンの色調が暗さと、印象としてノスタルジックな雰囲気を作っていると思います。そこで敢えて言えば、時間のスパンとでも言うのか、昔の風景と現在がつながっているという時間を取り込んだという感じがします。
 「旅・卓上」という作品です。横長の画面で、前にテーブルがあるという構図は、「原都市」でも「蕩児の帰宅」でも「旅・影」でも、麻田の作品によく使われるものですが、この作品もそうです。人によっては、これら似たような構図で作品の区別がつかなくて、どれも同じような暗い作品というように受け取られてしまうかもしれません。麻田の作品には、そういうところ、つまり同じような作品を繰り返し描くというところが多々あると思います。この作品Asadatravel について麻田は“A.地表に代表される二次元的な平面、90度の真上からの視点。B.窓、0度の地平から見た断面的空間の奥行きを、多層に重複する空間として表現する空間心理劇を追求して行きたい”とノートに記しているといいます。手前には横長のテーブルが描かれていて、食物が乗せられているのはダ=ヴィンチの「最後の晩餐」のようでもあります。その奥には3つの形の異なる窓と小さな階段と扉があります。右手の閉じた空間には地表が見えて、手前のテーブルクロスと結ぶように1本の木が伸びています。このように、異なる次元の空間がひとつの画面のなかに、それぞれ独立した断面のように挿入されるようにありますが、全体としては、空間に奥行きがあったり、広がりがあったりと感じられることはなく、平面的で閉じた感じ、この画面の中で完結した感じがします。それは、麻田の作品の魅力として一貫して感じられる色彩センスに裏打ちされた色調の統一性と、プラットフォームのように秩序化されている画面全体の構成ではないかと思います。そのなかに、さまざまな具体的な細かい個物であるとか、空間の断面が即興的に散りばめられて、全体を形づくっている。私個人の感じ方なので、異論は多々あると思いますが、麻田の作品は、何かを表わしているとか、訴えているといったものではなくて、だから彼の作品に作家の心情とか感情の表現(例えば不安とか、世界観とかそういった具体性のあるもの)をそこに読み取ろうとすると、そういうものはないし、それが空虚だというのであれば、それはそれでいいのですが、この画面には秩序というと堅苦しいかもしれいのでコスモス(カオスに対して)といったことが私には感じられます。宇宙というと空間のひろがりだけと思われてしまうので、人の内面の方向もあるのでコスモスという方が通じるのかもしれません。具体的なことを言えば、この作品でもそうですが、画面にさまざまな個物が散りばめられていますが、それぞれの単独の個物が何かのシンボルであるとか、何かの意味を持っているとか、例えば、画家の不安を表わしているとか、画家の伝記的なエピソードの一場面につながっているとかとうような、単独で取り出するものではないということです。しかし、画面の中での配置とか背景の中に置かれていることで、画面全体ができているのです。実際に画面を見てみると、画面の手前のテーブルの上に真ん中左にパンきれはしやワインの入ったグラスが描かれていますが、これらは写実的に描かれていて、これらはキリスト教の聖体の秘蹟としてのものです。しかし、この画面では、そういうものであるというより、古ぼけた長テーブルの上にあって、真っ黒な背景から浮かび上がり、周囲の幻想的な断片が散りばめられているのに対して、古典的な写実で、しかも、スポットライトが当てられたようになっていることで、強い存在感とスペイン・バロック絵画のボデゴンのような神秘的な雰囲気を作り出しています。その雰囲気は、上方の浮かぶ蝋燭や少年の顔を現実的でない神秘的なものに見せています。ちょうど少年の真上の半円形の窓から風景が見えますが、その風景のなかで日の出のような光り輝くのが少年の真上に位置しています。その縦の配置には、なんらかの印象を見る者に及ぼしますが、それは、これらの配置と、それぞれの描き方、間の背景の雰囲気、それらすべてが関係していると思います。そういう全体の構成なのです。それは、喩えていえば、バッハの音楽のようなものとでも言いましょうか。バッハの対位法で厳格に構成された音楽は、感情に訴えるような情緒的な歌や美しい感じられるメロディは、余りありませんが、むしろ。どこかから引っ張ってきたような月並みな節を使っていたしながら、がっしりとした構成に当てはめられて、その中で即興的な部分が音楽にダイナミックな躍動感を与えながら、流動する宇宙のように聴く人を包み込んでしまうところがあります。これは、モーツァルトやベートーヴェンの音楽のようにメロディに酔ったり、劇的な展開に盛り上がったりという作品の先の作曲家の人間と向き合うというのとは異質のものです。麻田が、そのような志向をしていたかは別として、私は麻田の作品には、そういうところがあると感じました。だから、同じようなパターンの作品をいくも見ても、個性とかオリジナリティとかいったことで区別する気にはならなかったし、同じものが続くので飽きてしまうといったことにはなりませんでした。しかも初期のころの、色彩センスが前面にでていて、描写は写実的で緻密だったのですが、それぞれの個物の形態だけがういてしまって存在感がいまいちでイラストの図案のようだったのが、このころの作品になるとそれぞれにリアルな存在感を伴うようになってきています。例えば、手前のテーブルの石の重量感。それによってかどうか、個物の存在に時間の要素、つまり長く存在してきた時間のAsadabird 感覚も備えてきたようで、それが長い時間を過ぎてきた年輪のようなもの、それが見る人によっては廃墟の時間によって風化した感じと重なるような様相になっていると思います。そういう風化した感覚というのは、以前も指摘しましたが吉岡正人や有元利夫の中世風のテイストをもちこんだ画家と同じ雰囲気を感じてしまうのです。
 「居るところ・鳥」という作品です。麻田の作品では空中に羽根が浮かんでいることが多かったのですが、だんだんと鳥が飛んでいたりすることが出てきました。「旅・卓上」でも羽ばたいている鳥の姿がありました。この作品は、その鳥をたくさん画面に登場させた作品です。鳥のいる風景の断片が、画面の中で重複するように幾つも存在しています。
Asadawindow  「窓・四方」という作品です。暗い色調の作品ばかり並べてしまったようでしたので、白を基調とした作品です。だからといって、一概に明るいとは言い切れませんが。麻田の作品は、明るいとか暗いといったこととは、直接関係するところが少ないと思います。

« 没後20年麻田浩展…静謐なる楽園の廃墟(5)~第4章 帰国 | トップページ | ある会社の決算説明会 »

美術展」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/564097/66643422

この記事へのトラックバック一覧です: 没後20年麻田浩展…静謐なる楽園の廃墟(6)~第5章 晩年:

« 没後20年麻田浩展…静謐なる楽園の廃墟(5)~第4章 帰国 | トップページ | ある会社の決算説明会 »