内部監査担当者の戯言(4)
4月の初日の今日、各地での入社式の模様がニュースで映されていました。そこで並ぶ新入社員たち、とくに男子は一様に背広(リクルートスーツ)を着ていて、それを画一的とか無個性と批判するむきもあります。自由がなくて規制されているとかいう批判で、日本の企業は軍隊のようだという批判。当の新入社員たちも、自由は学生時代で終わりなどと、諦めてと感じているのかもしれません。
しかし、歴史を考えてみれば、背広というのは画一的で無個性であって、おしゃれでないもの、そうでなければならないものであるのは当然で、もともとそういうものとして造られたものなのです。そうであるからこそ、それを着る人は自由で平等になることができる、そういうものでした。背広のルーツはフロックコートで、映画なんかでも見たことがあると思うのですが、18世紀から19世紀に貴族が支配していた社会にブルジョワが進出したときにブルジョワが着ていたものです。貴族はもともと身分をアピールしなければならないので派手な格好を扮していました。彼らは代々にわたってお洒落の技術を磨いていました。昔の貴族の肖像画を見ると、皆、派手な格好をしています。ルイ14世なんて、ジャニーズ系みたいです。それは彼らが庶民とは違う人種であって、支配するのは当然ということを見ただけで分からせるために必要なこと、生きるための技術だったと言えます。おしゃれとかセンスのいい服装というのは格差の象徴なのだ。そういう貴族に、成り上がりの市民が、おしゃれで対抗できるはずもありません。おしゃれな格好について年季の入り方が違うのです。そこで、誰でも苦労せずに技術を要することなく、らしい格好をして貴族に対抗するために使われたのがフロックコートだったというわけです。昨日成り上がった者も、代々の貴族もフロックコートを着れば、格好、身なりの点で互角に渡り合えることになるのです。そこでお洒落のような訓練を要する要素が加われば貴族とか既存の支配層が優位になってしまう。だから、ださいものでなければならない。ださくて画一的だから、下層階級の者でも上着としてひっかければ平等になる。だから背広というのは自由と平等の象徴でもあるのです。
背広とは、そもそも、そういうものだったはずです。だから、私は背広はお洒落であるべきではないし、ドブネズミ色で画一的であるべきで、そのように着ています。それで、ある種の自由を、この社会で保つのに尽くしていると思っています。
だから画一的なリクルートスーツを着ている若い人たちは、そのことで胸を張っていいのではないか。むしろ、センスのいいおしゃれをしている者たちこそ、人目をはばかれ、恥を知れと言ってもいいのではないか。まあ、アナクロなのだろうけれど・・・
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