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2018年4月 2日 (月)

没後30年銅版画家 清原啓子(4)

Kiyoharahisao  「久生十蘭に捧ぐ」という作品は、清原の代表作なのでしょう。この展覧会のパンフレットにも使われていますから。“草木が生い茂る、精緻に描かれた黒一色の画面の下に劇場の舞台が描かれ、中には人体模型らしき姿が見えます。無音・無言の舞台はその中央部がひび割れ、廃墟の用でもあり、何か別種の新たなものが生まれ出る、その時を待っているかのようでもあり、画面に配置された様々な意味ありげな小道具が、見る者の想像力を刺激します。”と解説されていた作品です。この作品は萌芽的なのかもしれませんが、清原の作品には一群のシンメトリーを基本とする図式的な構成の作品があります。この作品ではシンメトリーにはなっていませんが、上半分の舞台のような部分だけを取り出せば、そのような作りになっているように見えます。もっとも、この舞台の部分は画面の中心から右側にずらしたところに位置しているのでシンメトリーとはいえないのは確かですが。他のシンメトリーに近い図式的な作品では舞台らしきものを描いたところが画面の中心になっている場合が多いので、この作品も、それらに順Kiyoharahisao2 ずる構成と言っていいと思います。そして、これらの作品を観ていて、私は、ドイツ・ロマン派のオットー・ルンゲの神秘主義的な作品や仏画、とくに曼荼羅を想い出しました。これらの作品は、神秘主義思想や仏教思想を象徴するような要素を画面に描きこんで、それらの関係を図式化していったもので、画面全体が、その世界観をあらわすようになっているというものであると思います。したがって、これらの画面を見る人は、そこに世界観が象徴されているとか、その意味するものを考えようとします。しかし、清原の作品は、その図式的な外形を借りてきて、このような構成は何か意味ありげであるという雰囲気をちゃっかりパクッていると言えるのではないかと思います。そうすると、その構成に支離滅裂と言っていいほど様々な物がごった煮のように描かれていますが、それらが意味ありげに見えてくる。見る者に錯覚を起こさせている。前のところで、清原の作品にはアナグラムのような性格があると述べましたが、駄洒落が意味ありげどころか、深遠に見えてくることになっているわけです。
 Kiyoharahisao3 他方、解説等では触れていませんが、清原という人は世代的には60年代後半から70年代にかけてのカウンター・カルチャーの影響を受けていると考えられるのではないか、という点です。この作品タイトルで捧げられたことになっている久生十蘭という作家は、一時期、言わば世間からは忘れられた存在だった作家だったはずで、そのリバイバルの一つの契機となったのは1969年に三一書房から全集が出た(その前後の動きを、この全集が集約した)ことが大きかったと言います。当時の、反体制の文化的機運のなかで、権威である文学に対抗するもの、そういう系統とは別の昭和初期の分かれられていたエロ、グロ、ナンセンスといったものとして受け取られた。そういう意味でいうと、清原が読書家で文学や哲学に惑溺したと解説されていますが、その惑溺した人たちの背後に澁澤龍彦の影が見え隠れするのです。かなり独断的な見方になりますが、清原の視野には澁澤龍彦のフィルターがかかっていたように見えます。それが、物事の意味を問わないという、今のオタクに近い心情です。そこに論理はないので、構想ということができない、そこで既存のもっともらしい枠組みを借用して、細部に好みをものを入れ込んでいく、そういう趣向は澁澤龍彦の方法論でもあります。後は、読者が勝手に妄想してくれて、意味ありげなものにしてくれる。清原の作品には、澁澤龍彦のような悪意はないのでしょうが、既存のものを使いまわす、彼の方法論の影響があるように思えるのです。だから、この作品は曼荼羅のようだと述べましたが、長岡秀星でもいいのです。
 Kiyoharamagic 「魔都」という作品。久生十蘭の小説からインスパイアされた作品なのでしょうか。清原が亡くなってしまったため未完に終わってしまったということですが、素人の私から見れば、完成していると言われても、別におかしいとは思いません。「久生十蘭に捧ぐ」の上半分を、さらに追求したという印象です。ただ、他の作品に比べると薄味というのか、物をぶち込み切れていないという感じはします。しかし、だからといってもの足りないということはない。「久生十蘭に捧ぐ」のところで少し触れましたが、「久生十蘭に捧ぐ」のような作品を観ていると、時代という環境もあったのか、清原という人が感じやすく他人の影響を受け易い人であったのか、現存の自分で描いているのではなく、そういう影響からあるべき自分をつくってしまって、そういう自分として描こうとして背伸びしているような感じがします。それが、この作品では、そういうところがあまり感じられない。背伸びしようとしたところで、その前に途中で当人が亡くなってしまったからかもしれません。
Kiyoharamagic2  「魔都霧譚」という作品です。久生十蘭つながりで続けて見ていますが、この作品も未完成ということです。とはいっても、こちらは「魔都」と違って完成に近かったようです。画面全体は真っ黒になるほど描きこまれています。何度も言いますが、一つの点、一本の線に全力を傾注して数えきれないほど銅版を刻んでいった細かく執拗に描きくこまれた画面は、見れば見るほど惹き込まれ、戦慄を覚えてしまうものです。それがあまりにも凄いので、それだけを見ていればいいのですが、この作品を見ていると、その点や線の凄さ、細部の描きこみの濃密さに対して、描かれているもの。例えば画面左右の神殿の柱のようなもの、そこに彫刻が施されているようなのですが、そういうものの造形、あるいは中央の翼を広げている神様か異形のものなのか、そういうものが、描きこみに対して追いついていない、明らかにバランスを欠いているように見えてしまう。もしかしたら、この作品が未完なのは、そういうところにあるのかもしれません。これは、あくまでも私の個人的な主観、独断的なものなので、私には、そう見えるということなので、異論がある方は多いと思います。ただ、私には、この作品もそうですが、「孤島」とか作品には、病的な行き過ぎのような印象を受けます。それは、造形が追いつかないでバランスが保てないのを、細部の描きこみでカバーしようとして、描きこみがどんどん過剰になっていって、さらにバランスが崩れるといった具合に、強迫されているような感じがします。それが異様な迫力を生んでいるとも言えなくもありません。

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