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2018年4月 6日 (金)

没後30年銅版画家 清原啓子(8)

Kiyoharaarea  初期の頃の作品を見ていると、最初に画面の構成を設計して制作を始めるのでしょうが、清原は細かいものを描きたい人なのだろうから、それを描いているうちに乗ってしまって、それにつれて細部が生き生きとし始めて描かれた画面を侵蝕してしまう。その結果が完成した作品ということになるように、私には見えます。そして、それをコントロールしようとした過渡期にあると思えるのが「領土」という作品です。「後日譚」のように細部が今にも食み出してしまいそうなところはなくて、全体として納まっているという作品です。その理由の一つとして考えられるのは(これは後付けであって、清原が作品を制作する前から意図していたということはないと思いますが)、画面の中で描かれている事物において自然物が相対的に減って、人工物の占める割合が高くなってきていることです。この画面でいえば石造りの建築物は作られたら崩壊することはあっても、自身で成長したり増殖したりすることはありません。背後の岩峰も似たようなものです。ここからは、草が成長するような動きや生き生きとした要素が生まれてきません。つまり、静止している。生命がないのです。この作品では、このような静止した部分が画面の半分以上を占めています。そのことが動きの歯止めとなって機能していると考えられます。しかし、その他の部分、画面前景の樹木が並び、その下に草が繁茂しているところや中央のドームを壊すように樹が伸びているところ、背景の空の雲などは動きを内包しています。それにより、画面全体としては動きが全くなくなってしまっているわけではない。
 これを別の側面で見てみると、この作品の画面の中央に石造りの塀で仕切られた迷路のような建築物が描かれていますが、立体を平面にして描いたものとしては歪んでいて、立体として成立していない。パースペクティブができていません。この作品全体をみても、ひとつの空間として成立していないのは明らかです。だから、作品としておかしい、欠陥があるというのではありませんが、このことからだけで判断するのは短絡的かもしれませんが、清原という人は、距離をおいて見る、空間を把握するということが苦手だったのではないかと想像できます。しかし、ものに近寄って舐めるように見つめて、細かいところまで識別するのは得意、つまり近視眼的な傾向が、この作品から見て取れると思います。それは逆に描くという方から考えても、ペンを握って葉っぱの葉脈の線を細かく引いていって、しまいに葉っぱになるように描く、けれども画面全体を、このような空間構成にしようと設計するのは苦手だったのではないかと思えます。この作品でも、遠近の位置と描かれた事物の大きさのバランスが釣り合っていないといったことなどに端的に表われています。しかし、そのような全体としてみると歪みがあるからこそ、細部が暴走するように過剰なほど細かく描きこまれても画面が成立していて、むしろ、細部が画面に生命感を与えているということが可能になっているのだと思います。それらの点で、この「領土」という作品は、中庸のバランスといいますが、ほどほどのところに按配よく納まっている作品だと思います。
いろいろ、述べてきましたが、清原の作品は、私にとっては、第一に描く、銅版画であるから銅版を刻むという行為に打ち込むということ、そこから生まれる一本の線、ひとつの点の存在ということ。第二にそれが気が遠くなる多数で形づくられる細かい描写です。そして、それによって結果として画面が成立するというもので。それが生きるのは草葉の繁茂する図像や、細かい細胞が集まって増殖したようなもの、そういったパーツです。それらが結果としてひとつの画面におさまっている。その結果が幻想的だったりする、そういう作品ではないかと思います。

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