没後30年銅版画家 清原啓子(3)

実際、この作品では、書き割りの舞台のような場面で、網のように絡んだ蔓が伸びていることや、小さな粒が増殖するようにしてある形状になったもの、これは柘榴の実のようにも見えますが、そういったものが折り重なるように描かれていて、そこに人工物である人形が座っています。無関係なものが画面の中で同居していると、何やら意味ありげに見えてくる。しかも、柘榴の実は割れているし、人形は壊れて顔にひびが入り、胴体は中身が開いてしまっています。手前の卵でしょうか球体は殻が割れています。ここに崩壊感覚があるという意味を付与することは見る者の勝手でしょうが、現実には同居し得ない物が隣り合わせになっているということは関係性とか境界といったことが崩壊しているとも意味づけできます。それは、言葉であればアナグラムは何か尤もらしく、かっこよく受け取られてしまうという意味づけがされてしまうのと似たようなことが起こっている。それが清原の作品の魅力の源泉のひとつと言えるのではないか、と思います。


こじつけに聞こえるかもしれませんが、この「卵形のスフィンクス」の身体を見てください。四つん這いになった肢体は柔らかな曲線で描かれていて、後肢のところなど艶めかしい尻を想わせます。しかし、その身体には細い鎖か紐のようなものが掛けられていてキツク締められています。そのため、身体の筋肉が鎖に分断されて、腫れ上がるように局部的に膨らんでいます。そして、それぞれ分断されて膨らんだ形が卵形になってしまっている。ここに、まとまって統一されているものを、細かいものにわけていってしまう、という作為がないでしょうか。スフィンクスの身体は、卵形のものによって構成されているように、結果として見えてしまう、というのは、見ようとしてそうした、と考えられないでしょうか。「Dの頭文字」等の作品に顕著に現われていた、殻を割るとか、ひびをいれるといった崩壊への志向は、ここでは分断ということに形を現われていると思います。そこには、まとまって形を成している全体よりも部分である細かいものを志向するという傾向があるように思います。それは、人の意識とか意志とか感情といった人がひとつのまとまりとして成ったときに、それをまとめるものであるわけで、そのまとまりよりも、部分のひとつひとつの細胞を尊重した場合、例えば、ものその細胞の一つ一つが独立していた場合、意識というまとまったコントロール機構は意味をなくしてしまうことになるわけです。これは、グレッグ・ベアというSF作家の『ブラッド・ミュヘジック』という長篇小説が、まさにそういう話なのですが、清原が読んだかどうかは分かりませんが、「卵形のスフィンクス」の画面を見ていると、スフィンクスの顔に表情がなくて、生き生きとしているところが感じられないのに対して、スフィンクスの周囲の地面に転がっている苺の実のような小さな粒の集まった物体のほうが、不気味な存在感があるのです。あきらかに、この粒々の方が蠢いているように目立っているように見えるのです。
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