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2018年4月 1日 (日)

没後30年銅版画家 清原啓子(3)

Kiyoharad  「Dの頭文字」という作品です。画面の中心に描かれているのは人間ではなく、人形です。おそらく、ここで大切なことは、まず姿の外形、もっというと描かれた形であるということ。次に、おなじくらい大切なこととして言わば記号のように人である、人形であるということ。逆に大切でないことは意味とか内容、つまり人であれば個人であること、そこには当然、生命とか肉体とか意識しか感情といったことがありますが、それは画面には不要であるということです。こんなことは、清原のファンであれば、わざわざ言葉にして指摘するほどのことでもないことでしょうが、そういうことの上に、この人の画面の世界というのが成り立っている。つまり、画面を言葉のこととして置き換えて考えると、言葉の意味とか話している人の思い、内容がなくて、話された言葉の響きや紙に書かれた字の形、そういった表層を追求したもの。さらに、その表層が意味を切り捨てて独立したもの、たとえば、アナグラムとか駄洒落という、意味がないけれど、そこに楽しさや空想的な世界が創造されてしまう、そういった空中楼閣のような人工的なものです。
 実際、この作品では、書き割りの舞台のような場面で、網のように絡んだ蔓が伸びていることや、小さな粒が増殖するようにしてある形状になったもの、これは柘榴の実のようにも見えますが、そういったものが折り重なるように描かれていて、そこに人工物である人形が座っています。無関係なものが画面の中で同居していると、何やら意味ありげに見えてくる。しかも、柘榴の実は割れているし、人形は壊れて顔にひびが入り、胴体は中身が開いてしまっています。手前の卵でしょうか球体は殻が割れています。ここに崩壊感覚があるという意味を付与することは見る者の勝手でしょうが、現実には同居し得ない物が隣り合わせになっているということは関係性とか境界といったことが崩壊しているとも意味づけできます。それは、言葉であればアナグラムは何か尤もらしく、かっこよく受け取られてしまうという意味づけがされてしまうのと似たようなことが起こっている。それが清原の作品の魅力の源泉のひとつと言えるのではないか、と思います。
Kiyoharasea  「海の男」という作品です。これも「詩人─クセノファネス」と同じように背景が描きこまれていません。同じような時期の作品だろうと思われますが、この後の作品は、余白を埋め尽くすように線や点を描き込んでいくようになります。この作品で、私が語りたいのは、「Dの頭文字」では人形の顔にひびが入り、胴体が開いてしまっていたのと同じようなことが、この作品では人間にも起こっている。この男のすねのところです。「Dの頭文字」の人形の胴体と同じように、皮膚が割れたように開いて、中の繊維のような筋肉の束が露わになっているように見えます。しかし、これは筋肉なのでしょうか、筋肉でない何か別物のようにも見えます。人の形をしていても中身は何か違うものかもしれない。それは、人という意味内容が解体されて、その形だけを残して、あとは別のものの形と組み合わされている。外見は異なりますがアンチンボルドの果物で人の顔を作ってしまうマニエリスム絵画を想わせます。ここでアンチンボルドがでてきたので、念のために述べておきますが、このような試みは言ってみれば際物ですが、アンチンボルドも清原も作品から際物とかまがい物といった印象を受けることはありません。それは、二人とも高度な描写力をもって、しかも執拗なほど描きこんで画面を作っているためです。ふたりとも、その画面の出来上がりで見る者を捻じ伏せて納得させてしまうほどの技と力を、これでもかというほどぶち込んでいるからです。それが画面の出来栄えという点に結晶されているからです。それはまた、清原の作品の魅力のひとつだと思います。
Kiyoharaegg  「卵形のスフィンクス」という作品です。この作品くらいから、画面全体が黒くなっていきます。ということは、清原の細かく線を引き、点を穿つということが画面全体を覆い尽くすようになった、ということです。恩師である深沢幸雄によれば、清原に楽に効果の出るアクワチント等を勧めたが、これは何としても受け付けず、黙々と巨万の点を打ち、巨万の線を引いた、そうです。清原には、アクワチント等による画面では駄目な理由があったと思いますが、それよりもひとつひとつの点を打ち、線を引くということが制作の前提になっていた、その行為自体が実は好きだったのかもしれません。そうであれば、この人の作品の細かさというのは、結果としてそうなってしまったというものかもしれません。
 こじつけに聞こえるかもしれませんが、この「卵形のスフィンクス」の身体を見てください。四つん這いになった肢体は柔らかな曲線で描かれていて、後肢のところなど艶めかしい尻を想わせます。しかし、その身体には細い鎖か紐のようなものが掛けられていてキツク締められています。そのため、身体の筋肉が鎖に分断されて、腫れ上がるように局部的に膨らんでいます。そして、それぞれ分断されて膨らんだ形が卵形になってしまっている。ここに、まとまって統一されているものを、細かいものにわけていってしまう、という作為がないでしょうか。スフィンクスの身体は、卵形のものによって構成されているように、結果として見えてしまう、というのは、見ようとしてそうした、と考えられないでしょうか。「Dの頭文字」等の作品に顕著に現われていた、殻を割るとか、ひびをいれるといった崩壊への志向は、ここでは分断ということに形を現われていると思います。そこには、まとまって形を成している全体よりも部分である細かいものを志向するという傾向があるように思います。それは、人の意識とか意志とか感情といった人がひとつのまとまりとして成ったときに、それをまとめるものであるわけで、そのまとまりよりも、部分のひとつひとつの細胞を尊重した場合、例えば、ものその細胞の一つ一つが独立していた場合、意識というまとまったコントロール機構は意味をなくしてしまうことになるわけです。これは、グレッグ・ベアというSF作家の『ブラッド・ミュヘジック』という長篇小説が、まさにそういう話なのですが、清原が読んだかどうかは分かりませんが、「卵形のスフィンクス」の画面を見ていると、スフィンクスの顔に表情がなくて、生き生きとしているところが感じられないのに対して、スフィンクスの周囲の地面に転がっている苺の実のような小さな粒の集まった物体のほうが、不気味な存在感があるのです。あきらかに、この粒々の方が蠢いているように目立っているように見えるのです。

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