没後30年銅版画家 清原啓子(5)

どこかに明確な線引きをすることはできないのですが、「魔都霧譚」や「孤島」といった清原の早すぎる晩年に近い制作年代の作品には、無理しているように見えるところがあります。「魔都霧譚」の鉛筆による下絵と版画として完成した作品を比べると、鉛筆の下絵は版画の制作のためのスケッチとかいうような下絵という範囲を超えて、ひとつの作品としてまとまっていて、それだけで完成作といってもいいものに見えます。その下絵と版画の完成作を比べて見ると、私には鉛筆の下絵の方がまとまっていて完成度が高いように見えるのです。これは、私の個人的な好みからなので、客観的な評価ではないのですが、すっきりとした鉛筆の下絵に対して、版画の完成作は、細部の描写がかなり書き加えられていますが、その加筆がむしろ全体のバランスをくずしてまとまりをなくしてしまっているように見えるのです。細部の描写は凄いのひと言で、それ以上何も言えないほどのものなのですが、明らかに過剰な印象なのです。言葉は適切ではないかもしれませんが、ゴテゴテしているのです。はたして、その過剰さに意味はあるのか、こういう問いは、ややもすれば作品への中傷になってしまいかねないものですが、私の個人的な感想としてのものです。これは、「孤島」の参考として展示されていた30回の試し刷りを見ていても、刷るたびに、どんどん細部が書き加えられていったのも、同じように、過剰さを感じるのです。そして、これらの作品の構成を見ていると、これもこじつけかもしれませんが、画面の中に枠取りがしてあって、その内側に図像が描かれているようになっています。しかも、その枠取りはその図像のなかにも設定されていて、画面は何重にも枠取りされていて、求心的と言えるのかもしれませんが、中心が、その何重もの枠の中で、画面の事物はその中心に向かっている。つまり、画面で描かれた空間は何重にも閉じられているのです。そのなかで、細部が過剰なほど細かく濃密に描きこまれていっている。私には、そこで清原は袋小路に入り込んで、そこで閉塞してしまっているように感じられるのです。具体的に言うと、以前の「Dの頭文字」や「海の男」のような作品には明らかにそれとして在った裂け目や崩壊が、自然物や人工物が重層的に重なり合っている境界や画面の枠といった境界の一部に実質的な抜け穴を作っていて、それによって相互に侵犯が発生しているのです。それはまた、世界が崩壊と生成を繰り返していて、画面で描かれているのは、その途中にあることを想像させるものとなっています。そこには、空間的な流動性、と時間的な生成と崩壊という流れが内在していたのです。そこで、細かい描写というものが、そのような流れの中で、意味を持っていた。例えば、細かい粒々が増殖してくるような不気味さを画面に醸成させていました。それに比べて、「魔都霧譚」や「孤島」は層や枠に裂け目や破綻がなくて、ブロックに分けられて、おのおののブロックが閉じてしまって、ブロック相互の流れは失われてしまっています。したがって、生成や崩壊を繰り返すような時間が止まってしまっています。したがって、例えば描写が細かく描きこまれていっても、画面の有機的な流れが失われているので、細かい描写の意味がなくなって、ただ細かく描写することだけがバラバラにエスカレートしていっている。そこに分裂、さらに、その根底には、画面がブロックごとに閉じ込められて閉塞していってしまっていることがあると思います。閉じこもったところで、どんどん密度が追求されていって、濃密になっていくと、それにしたがって密度だけが異常に高くなって、酸欠状態に陥ってしまう。「魔都霧譚」や「孤島」には、そういう雰囲気があると思います。
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