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2018年4月29日 (日)

内部監査担当者の戯言(11)

 前回の続きで、物事をストックとして捉えるのではなく、フローとして捉えるということについて、もう少し。能力を材料に考えてみたいと思います。例えば、「話し上手」な人というのは、その近くにその人の話を聞く人々を集めるから、そういうことになるわけです。視点を変えると、この「話し上手」の人の話を引き出す「聞き上手」の人々があって、はじめて「話し上手」ということが成立するわけです。ということは、「話し上手」な人と「聞き上手」の人々が集まって、話して聞くという場が生まれるということになります。しかし、この場合は、この人の「話し上手」という能力とみなされてしまうわけです。この場を作っているのは「話し上手」の人と「聞き上手」の人の両方で、この両者の関係が生まれて場が作られる。しかし、これを「話し上手」という能力という能力とみなされ、「聞き上手」の人々は無視されてしまいます。地球上の誰にもコンピュータ・リテラシーがないなら、スティーヴ・ジョブズはただの変人です。そこで、その意味で、能力というものは、明確な形をもった物体のようなもの、いわばコンピュータ・リテラシーのある人々によって場が作られているということは、この時には無視されています。無視というよりは、最初から視野にすら入っていないのかもしれません。このような能力があるというときの能力は、そういう場から抽出されて、独立した絶対的な「もの」つまりストックのように見なされているとは言えないでしょうか。しかし、はたしてそうなのでしょうか。実は、ストックとして私有できるものではないのではなくて、人々の間を流通している関係性のようなもの、いわばフローで、能力というのは、その人だけで処分できるものではない、と言えないでしょうか。
 そういうストックとしての捉え方は、企業において機械化によって人件費を削減することに行き着くことになります。力仕事はロボットに、計算などの事務作業はコンピュータに置き換えることができてしまうのです。そうなると、人間の労働が提供できる付加価値は情緒的なもの、すなわち心地よいコミュニケーションを相手(顧客)に提供するスキルしか残されなくなってきている。そうなのでしょうか。
 そこに企業における能力というものの扱いの困難さがある。ストックとしてでないと、機械化のような効率化(企業の用語でいうと改善)や能力の評価ができない、ということで、それが本質的なことだ、言えるかしれません。
 しかし、視点を少しずらせてみましょう。よく、能力主義の人事管理の効率性の議論で、企業という組織集団において、たいていは、そのメンバー全部が能力があって、企業をそれぞれが牽引しているということはなくて、だいたい2割の人が牽引していて、残りの8割は、それにぶら下がっている、といいます。パレートの法則とも2-6-2の法則とも働きアリの法則とも言われているものです。面白いのは、その中で、牽引している2割の、いわば能力のある人だけを集めてエリート集団としたら、全員が牽引するようにならなくて、その中の2割が牽引し8割がぶら下がることになるといいます。それは、もしかしたら「話し上手」の人に対して「聞き上手」の人がいて場が成立しているときの、「話し上手」の人と「聞き上手」の人の関係が現れているものなのではないでしょうか。そう考えると、このような場合、企業で2割の人を能力があると評価するということは、片手落ちの見方で、残り8割の人が2割の人を成り立たしめていることを評価するということが、能力ということを考えていく際に、必要になってくるのではないか。
 また、前回のダイバーシティについて考えた際に、この8割の人々は、ほとんどすべての企業で、この人々のことは採り入れられていません。つまり、2割の人に偏っているのです。この8割の人をとり入れることで多彩な考えとなっていくという方向は、検討すべきではないでしょうか。それに関する具体的なことは、だれも考えていないので荒唐無稽かもしれませんが。

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