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2018年5月 7日 (月)

オットー・ネーベル展(7)~6.「音楽的」作品 《Musical》 Works

Nebelkandyn  当時、抽象的な絵画を志向していた人たちが音楽の感じを絵画にしようとしていた、それにネーゲルも同じように音楽用語をタイトルにして、音楽の効果を目指すような作品を描いていたということです。ただ、ネーゲルの周囲にいた人たち、例えばカンディスキーが先輩にあたり、それに引っ張られてのことなのでしょうか、出来上がった作品を一見すると、カンディンスキー風という形容をしたくなります。何と言ってもカンディンスキーは道を拓いた先駆者であるわけですから、『芸術における精神的なもの』で、“音楽の音色は魂へと直接に通じる。人間は「自らの内に音楽を持っている」ので、音はそこで即座に反響を得るのだ”と1910年に言ってしまっているのですから。その後の人は、どうしたってカンディンスキーの拓いた道をついていくことになってしまう。会場には、そのカンディンスキーの作品も並んで展示されていました。例えば、カンディンスキーの「三つの星」という作品ですが、水色に塗られた地が、音楽でいえば基調とかベースといったことになるのか、そこに浮遊するように顕微鏡でみる微生物のような不思議なものが漂っている。直接、音楽をテーマとしているわけではありませんが、音楽を感じさせるところがある。ここで展示されているネーベルの音楽的作品の画面の構成と基本的に共通するところがある、というわけでしょう。この作品を、コピー、例えば展覧会カタログのような写真製版の画集や画像データをとりこんでデイプレイで見比べると、ネーベルの音楽的はカンディンスキーの作品の影に隠れてしまう。ネーベルの作品には、カンディンスキーの作品には強く感じられる即興性、自由気ままな感じ、そこから動きへの想像を掻き立てられて、の動きが音楽のリズムだったり、音楽を聴いたときに感じる空気感とか感じといった明確に視覚的なかたちにならないものが、ネーベルの作品からは、あまり感じられないのです。ネーベルの作品の不思議な形や、それが画面中に配置されているのは、空間的な構成を計算してデザインされて、いからもそれらしい形をなぞっているようにしか見えないのです。そこに即興性とか動きを想像することは難しい。その点でカンディンスキーの作品の方が圧倒的に音楽的なのです。
Nebelcon  しかし、です。会場でリアルに現物を見ると、それが逆転とまでは言えませんが、ネーベルの作品がカンディスキーとは別の独自の音楽を感じさせる作品になっているのです。「コン・テネレッツァ(優しく)」という作品です。ここに貼ってある画像は小さいので分からないでしょう。しかし、カンディンスキーの「三つの星」の背景が水色に彩色された地のようになっているのに対して、この作品では背景に同じように彩色されているがムラがあるにように見えるのではないでしょうか。現物を見れば一目瞭然なのですが、ぜひこの画像にリンクを貼ってあるので、そのリンクを追いかけて大きな画像を見てみてください。現物には敵いませんが、その特徴の一端くらいは分かると思います。ぜひ、画面に目を接近させて、画像のどこでもいいから一部に焦点を合わせて目を凝らしてみてください。例えば、背景は薄い紫で彩色されていますが、そのムラは模様のように規則的であることが分かります。その規則的になっているのは、模様のように大雑把に映っているのは、無数の細かなハッNebelblue3 チングが集まって模様のように見えているのです。そのハッチングというのも、紫のところの一部を見れば、濃い紫が波を打っている(ここでは、これ以上細かく見ることはできないので、便宜的に波というにとどめて置きます)上に、水色の丸い形(この丸の中にも細かく描かれているのでしょうが、これ以上は追跡しません)と少し薄いピンクが入った紫系統の棒状の形態が微妙に形や配置を変えながら、顕微鏡で細胞を見た時に細胞膜に囲まれた中をミトコンドリアやリゾームが浮遊しているように見えるのと似たような、動きを伴うように、それがルーペで見て漸く分かるほど細かく、びっしりと描きこまれているのです。それを画面全体で見ると、その細かいのが蠢いて、画面全体に動きを作り出している。だから、画面に不思議に形態が図案のようにありますが、その形態が細かく変動しているように、形態の境界が曖昧に見えてしまうのです。それは、喩えていえば、絶えず流動していて止まらない音楽の音の動きのようなのです。そして、このような音楽の動きというのは、カンディンスキーの「三つの星」からは感じられないものです。
Nebelpresure  「青い動き」という作品は、まさに青い色が動いているように見えてくるのです。背景の画像では青く彩色された部分の細長いハッチングの施されたところを、近寄ってルーペでも使って拡大してみると、ここでも凄いという言いようのない、細かい仕事をしているのが分かります。仮に、この細かいハッチングをひとつひとつ丁寧に、執拗に、絵筆をとって、絵の具を塗り分けて描いている姿を想像してみるとします。ひとつひとつの仕事は本当に細かい、何度も言うように病的なほどです。それが、このそれほど大きくはない画面と言っても、その描く数は途方もない数です。気の遠くなるような数を、いつ果てるともないような作業を飽くことなく、執拗に続けるすがた。猫背になって、キャンバスを舐めるように目を近づけて、細い絵筆に力を込めて描いている姿を想像すると、寒気がしてくるほど異様な姿ではないでしょうか。すくなくとも、芸術家という系術の神に遣える晴れがましいイメージではなくて、悪魔に心を売ってしまった憑かれた姿に近いものです。こんな人が、パウル・クレーと一緒にいてもいいのでしょうか。
Nebelanswear  「かなり楽しく」という作品をみると、背景のグレーに彩色されたところのハッチングを見ていると、そこから感じられる動きが「かなり楽しい」と想像できるようになっているのが分かります。
 つまり、ここで展示されている音楽的作品が、ネーベルの細かいハッチングが極限まで突き詰められて制作された作品群と言えるのではないでしょうか。この前の建築的作品もそうで、音楽と建築というのが性格が似ていて、ネーベルの病的といえるほど細かいハッチングは、その共通する性格に、うまくハマッたのではないかと思います。とくに音楽の方がよりハマッたのは言うまでもありません。それは、視覚的に現実の何かの対象、例えば、植物とか動物とか事物といったものを写すことで形態を作るものではないということです。その代わりに数学的なバランスを維持することを条件に、それぞれ独自の約束にのっとって形態が構築されていくものだということです。例えば、石積みの大聖堂は、重い石を積んでいって、天上のアーチやドームは石の重さのバランスをとりながら崩れないように石を積んで、あのような形になったものです。それは、細かいハッチングをひとつひとつ緻密に描いていくことで、ひとつひとつ描き足していくことで画面が出来上がっていくのと同じようなプロセスです。しかも、音楽の場合には建築での重力のような空間的制約Nebeldouble がないので、出来上がる形の自由度は高くなります。「叙情的な答え」という作品では、ハッチングを様々なパターンで多彩に展開していて、その部分によって異なる効果が同時に別々に画面に生まれている多様な世界を作り出しています。
 これらに比べると、展覧会チラシに引用されている「ドッピオ・モヴィメント(二倍の速さで)」という作品は、細部の突っ込みがイマイチで動きに欠ける作品で、他の音楽的作品に比べるともの足りなく感じた作品でした。

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