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2018年5月22日 (火)

駒井哲郎─夢の散策者(4)~第4章 夢の解放 1967~1975

Komaitree2  第3章の敬愛する美術家たちは駒井の作品の展示ではないので、省略します。駒井の晩年の作品ということになります。解説ではフランス留学で陥ったスランプを克服し、円熟期を迎えていたとあります。私には、この人の場合、一貫したスタイルをもっていて、成長していったというのは当てはまらなくて、融通無碍に、作品によって作風が変化していった捉えどころのない画家という印象が強いです。だから円熟といったことはイメージできないのではないかと思います。
 「大樹を見あげる魚」という作品です。パリ留学から帰国後、駒井は<樹>を題材にした作品を何点も制作していますが、その中でも最後に近い作品ではないかと思います。前に見た「樹」は縦の線を引いた結果が樹となったという印象の作品でした。しかし、これは明らかに樹木かそのイメージを描いていると思います。中央に株立ちの木、水面、遠くの森というように構成要素が増えていて、その樹木は脚元が画面からトリミングされるまでにもっとずっと手前にあり、しかも一株だけ独立して描かれています。そのために水面と森は樹木の背後全面を満たしています。しかし、この樹木は「樹」のような2本の線で引かれたようなすっきりとした姿ではなくて、無数の細い樹が寄り集まっているようです。ここでの線はすっきりと引かれた線ではなくて、撚れて曲がり絡まり合っています。喩えは変ですが蛆虫が群れて蠢いているような動きの感じがあります。このより集まっている細い木の線は「三匹の小魚」の細かい生々しい線を想わせる線です。さらに水面の無数の波に水平方向の線が引かれていますが、の線も直線に近いですが、蠢いているような線です。その水面の中から、画面向かって右下のところに2匹の魚が顔を出しています。それは、生々しい水面の一部のようです。つまり、この風景自体がひとつの生きもののように蠢いている。それは現実の風景ではありえないし、夢としても生々しすぎる。それは線の表現の自立しているがゆえの迫力と言えると思います。
Komaistillife  「静物」という作品です。こちら静物というだけあって静かな落ち着いた雰囲気の作品です。グレーを背景に壺が描かれているようですが、この背景のグレーの静かな雰囲気は、初期の夢を描いた作品の薄明るいグレーの感じとは違います。あのぼんやりと靄のかかったような感じではなく、ここでは背景は細いが明確な線が無数に引かれているのが分かります。実際に、初期の代表作「束の間の幻影」と比べてもらうと、薄明るい画面でぼんやりと形が目に映るというものですが、「束の間の幻影」では画面全体がぼんやりしているのに対して、この「静物」は離れて見ているとぼんやりしていますが、画面に目を近づけると無数の線が引かれているのを、はっきりと認めることができます。それは使われている技法が違うということも原因しているのかもしれませんが、薬剤で銅版の表面を腐食させて雰囲気の効果を出す技法ではなくて、わざわざ銅版を削って線を引くという作業を無数に繰り返している。しかも、その線は力が入るでもなく抜けるでもなく、薄く細い線で、おそらく力の加減が難しく、労力を要する。それを無数にひくということは途方もない集中した時間を、敢えてかけていると考えられます。もちろん、作品を見る者にとっては、作者が時間をかけたとか苦労したから作品がすばらしいとはかぎらないわけです。しかし、この作品の無数に引かれた線には、その時間が籠められていて、その時間を感じさせる何かがある。「束の間の幻影」には、それは感じられませKomaistillife2 ん。しかし、だからといって、この「静物」という作品に、駒井の苦労を直接感じとることができるか、というとそれはない。むしろ、軽さがある。それは、私の想像ですが、駒井は、線を引くということを、遊びのように楽しんで、喜々として行っていたのではないか。これは、前に見た「エチュード」や「魚または毒」といった作品でやっていたことを、何度も試みてきて、そこに駒井自身が喜びや楽しみを見出してきた結果と、私は想像してしまうのです。
 同じ静物を扱った作品でも「Nature Morte(静物)」という最晩年の作品では、明確な線が消え失せて、「束の間の幻影」の雰囲気に戻っています。こちらは、ジョルジオ・モランディの、瓶や壺を並び替えた配置で何枚もの静物画を制作して、その小さな画面が、まるで世界そのもののように見えてくる、そんな作品に似た印象を受けます。
 「星座」という作品は、カラーの作品で、今まで見てきたモノクロから解き放たれたような印象を受けますが、かといって極彩色になったのではなく、相変わらずと言っていいかもしれない、濃淡のグラデーションに少しだけスパイスのようにバリエイションが付け加わったくらいにしか。「束の間の幻Komaistars 影」が黒ではなく、群青色の基調になったという印象です。むしろ、カラーとなって色彩を喜々として画面にぶちまけるように使っているのは、同じころに制作された「花々」という作品の方でしょうか。さて、「星座」は細分化された四角形の枠のそれぞれに、あるいは枠をはみ出して何ものかが描かれていて、その枠の中も別々の世界になっている。それは、星座というたくさんの星々が集まって、何万光年も遠く離れた我々が星座として見るような。その一つ一つの星がそれぞれ存在していて、それを星座としてみている我々はひとつひとつの星の存在とは別のもののように星座を見ている。その間の途方もない時間と存在のリアルのズレそれを、小さな枠と、その枠を乗り越えてしまうというふたつのあり方として画面を作っている。そのような枠のあり方にとってモノクロよりもカラーの方が濃淡以外のバリエイションの必要だった、と言えるのではないかと思ったりします。その途方もなく長い時間を小さな画面に凝縮し、積み重ね、畳み込み、刻みつける、しかしとは言っても、その結果が決して重く息苦しKomaiflower いものになってはならず、長い時間が、その画面の中に流れているようにするために、その枠と色彩があった。しかもそれだけでなく、その描かれているものたちの細部もです。それらは「束の間の幻影」にはなかったものではないかと思います。言ってみれば、「束の間の幻影」にあった夢が凝縮され、リアルな表れとして結晶した、そういう印象を受けます。

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