駒井哲郎─夢の散策者(3)~第2章 夢のマチエール 1954~1966

大岡信の説明を引用します。“憑かれたように、樹木の連作を始めた。それはあるいは、文字通り夢破れて、最初の徹底的デッサンからやり直そうとする画家の決意を物語るものだったのかもしれぬ。初期の甘美な幻想風景はほとんど意識的に拒絶され、画家はビュランの刻む鋭い線そのものに、彼自身の存在理由を問うかのように、執拗に線を引きつづける。この当時の傑作「廃墟」や「ある空虚」は、すさまじいまでに濃密な線で埋められていて、すでに単一の方向を持った夢は跡形もなく拡散してしまっている。この時期が駒井氏にとっては最も苦痛にみちた時期だったのではないかと思うのだが、今日これらの全く写実的な「樹木」の連作や「ある空虚」の超現実的な夢魔の世界を見ると、この画家がフランスでしたたか味わわされてきたにちがいない、骨組みの絶対的優位性とでもいえそうなものの自覚的追
求がはっきり見てとられる。”
求がはっきり見てとられる。”
「樹木」という作品では、ぼんやりした画面での黒の諧調とは正反対の無数の細い明確な線が縦に走っているという画面で、白か黒かという、以前の黒と白の中間を彷徨っていたのが、黒と白の二項対立に
なってしまった刺々しさのあるような作品です。樹木という対象を描写した具象作品に見えるのですが、引用した大岡信が書いているように、描くというよりは線を引くという作業を繰り返しているような、その際に樹木という名目で行ったというような印象です。これは、個人的な想像ですが、そうやって線を引く、それを銅版の上で試みようとしたのが「エチュード」という作品であるように思います。版画のことはよく分からないので、説明では“筆の勢いをそのまま表現できるリフトグランド・エッチングの技法を使い、にじみやかすれといった筆の跡が荒々しく画面に留められています。”画面の上下、つまり縦に線を引いていった結果、このような作品になった。「樹木」から対象である樹木を取り払った残りが、この作品ではないかと思われます。



「三匹の小魚」という作品は、そのようなバランスがちょうどいい作品ではないかと思います。それは、精緻に細かく描きこまれているということに表われていると思います。その細かさで小魚の物質としての重量感があったのが、それまでの作品とは違うと思いました。これも印象なのですが、描かれた小魚が画家のイメージから生まれて、その小魚自体が存在感をもって独立しているように思えました。それは、ひとつには線が生き生きとしているという甚だ主観的な印象の域を出ない言い方しかできないのですが、そうなのです。


« 駒井哲郎─夢の散策者(2)~第1章 夢の始まり 1935~1953 | トップページ | 駒井哲郎─夢の散策者(4)~第4章 夢の解放 1967~1975 »
「美術展」カテゴリの記事
- 没後50年 鏑木清方展(5)~特集2 歌舞伎(2022.04.06)
- 没後50年 鏑木清方展(4)~第2章 物語を描く(2022.04.05)
- 没後50年 鏑木清方展(3)~特集1 東京(2022.04.02)
- 没後50年 鏑木清方展(2)~第1章 生活を描く(2022.04.01)
- 没後50年 鏑木清方展(1)(2022.03.30)
« 駒井哲郎─夢の散策者(2)~第1章 夢の始まり 1935~1953 | トップページ | 駒井哲郎─夢の散策者(4)~第4章 夢の解放 1967~1975 »
コメント