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2018年5月21日 (月)

駒井哲郎─夢の散策者(3)~第2章 夢のマチエール 1954~1966

Komaitree  1954年、駒井はパリに留学し、西洋の銅版画の伝統に直接触れて、自分を見失ってしまう。そのため、抒情的な夢の世界が崩壊の危機を迎えたと言います。
 大岡信の説明を引用します。“憑かれたように、樹木の連作を始めた。それはあるいは、文字通り夢破れて、最初の徹底的デッサンからやり直そうとする画家の決意を物語るものだったのかもしれぬ。初期の甘美な幻想風景はほとんど意識的に拒絶され、画家はビュランの刻む鋭い線そのものに、彼自身の存在理由を問うかのように、執拗に線を引きつづける。この当時の傑作「廃墟」や「ある空虚」は、すさまじいまでに濃密な線で埋められていて、すでに単一の方向を持った夢は跡形もなく拡散してしまっている。この時期が駒井氏にとっては最も苦痛にみちた時期だったのではないかと思うのだが、今日これらの全く写実的な「樹木」の連作や「ある空虚」の超現実的な夢魔の世界を見ると、この画家がフランスでしたたか味わわされてきたにちがいない、骨組みの絶対的優位性とでもいえそうなものの自覚的追
求がはっきり見てとられる。”
 「樹木」という作品では、ぼんやりした画面での黒の諧調とは正反対の無数の細い明確な線が縦に走っているという画面で、白か黒かという、以前の黒と白の中間を彷徨っていたのが、黒と白の二項対立にKomaietud_2 なってしまった刺々しさのあるような作品です。樹木という対象を描写した具象作品に見えるのですが、引用した大岡信が書いているように、描くというよりは線を引くという作業を繰り返しているような、その際に樹木という名目で行ったというような印象です。これは、個人的な想像ですが、そうやって線を引く、それを銅版の上で試みようとしたのが「エチュード」という作品であるように思います。版画のことはよく分からないので、説明では“筆の勢いをそのまま表現できるリフトグランド・エッチングの技法を使い、にじみやかすれといった筆の跡が荒々しく画面に留められています。”画面の上下、つまり縦に線を引いていった結果、このような作品になった。「樹木」から対象である樹木を取り払った残りが、この作品ではないかと思われます。
Komaibird2  「鳥と果実」という作品は、以前の作品のような海の底のような静けさは失われて、その替わりに躍動感のある画面になっていると思います。この作品も、とくに鳥や果実を対象に描いたというよりは、版画の技法をためしていたとか、描くとか、そういう行為を執拗にやっていて、その結果、出来上がったものという印象です。鳥の形と果実の形が重複して面白い形になっているという説明はできるでしょうが。それよりも、様々な線や、その線で区画されたところの様々な表われ方が、アトランダムな感じが、落ち着かなさというのか、そこから動きのようなものを感じさせていると思います。「果実の受胎」という作品も、同じような印象です。この作品では、果実が重なっているところが透き通って見えるようになっているのを白黒で表現しているのが凄い。私の主観的な印象ですが、「束の間の幻影」や<夢>の連作といった作品では画家Komaifrut の持っているイメージを形にする手段のようなもので、描くというのはイメージを伝達する手段のように思えるところがあります。ところが、これらの作品は作品自体に存在感が出てきている。表現が自立しているという印象です。画家はイメージは持っているのでしょうが。描くという行為は、必ずしもイメージを表す手段に留まっていなくて、描いていることがイメージを作っていく、そんな違いがあるように思います。具体的には、線そのものに存在感があるといったことです。
 「三匹の小魚」という作品は、そのようなバランスがちょうどいい作品ではないかと思います。それは、精緻に細かく描きこまれているということに表われていると思います。その細かさで小魚の物質としての重量感があったのが、それまでの作品とは違うと思いました。これも印象なのですが、描かれた小魚が画家のイメージから生まれて、その小魚自体が存在感をもって独立しているように思えました。それは、ひとつには線が生き生きとしているという甚だ主観的な印象の域を出ない言い方しかできないのですが、そうなのです。
Komaifish  「魚または毒」という作品は、同じように魚が作品タイトルにありながら、全く印象の異なる作品です。「三匹の小魚」が1958年の作品で、「魚または毒」が1962年の作品なので、それほど制作年が離れているわけでもなく、駒井という人は特定のスタイルを持たない画家であったようです。この作品は、果たして魚なのか画面の真ん中でむちゃくちゃに直線を引いて重ねて真っ黒になったと説明してしまえるような画面です。強いて言えば、その真っ黒なところが魚と言われれば、こじつけで魚に見えなくもない。ちょっと無理かな。といった作品です。見ていると、たしかにひとつひとつの線が自己主張している力を感じますし、それが集まっている迫力ですね。しかし、それが気分というのか抽象的な印象というのではなくて、そこに在るというKomaifish2 実在している感じがむき出しになって見る者に迫ってくる。そういう印象です。衿を正さずにはいられない。そういう作品であると思います。駒井哲郎という画家は、こういう作品を創作活動のピークだとか、そういう提示の仕方でなくて、作品の制作を続けていて、その中で、時折、不意に、さり気なく示してみせたりする人なのかもしれません。私のような、単に見ているだけの者にとっては、捉えどころのない人です。決まったスタイルがないので、駒井の作品をひと目でそうだと見分けることが、正直に言って難しい。

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