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2018年5月17日 (木)

山本芳久「トマス・アクィナス─理性と神秘」

 山本芳久「トマス・アクィナス─理性と神秘」を読んだ。
 私の受けた歴史教育ではヨーロッパの中世とは暗黒の時代で、その時代の哲学は煩瑣で非科学的という先入観を植え付けられてしまった。しかし、スコラ哲学や神学の議論に触れてみると、哲学者同士で哲学バトルをやっているし、毛現代の哲学の課題のすべてはここで生まれていた。その中でアクイーノの聖トマス、つまりトマスアクィナスは中世ヨーロッパのスコラ哲学の大成者。フランチェスコ会のボンヴェントラ、オリヴィー、ウィリアム・オッカムのような過激に突出した人々に対して、ドミニコ会のトマスは中道の大家だと著者は言う。例えば、忘れられていたアリストテレスがアラビアから逆輸入された時に、保守派は拒絶し、急進派は盲目的に従うの間の中道のトマスは、アリストテレスのテクストに密着して、その理性的な方法論を援用してキリスト教神学を読み直していった。保守も急進も、大層なことを言うが、現状に手をつけないのに比べて、どっちがラディカル(根源的=過激)か・・・。
 今、宗教を信じるということは科学と対立する不合理な受け取られ方をしているが、その端緒はマルティン・ルターであって、トマスの中道的な行き方は科学的な理性と信仰を対立するものでない。「神」と呼ばれる絶対的な何ものかが存在するとしたら、それは原理的に人間理性による把握を超えているはずだから理性によって探求しても意味がない、とトマスは考えない。だからといって逆に、人間理性によって「神」を理解し尽くすことができるとも考えない。すべてを把握できるはずという傲慢からも、何も理解できるはずがないという諦めからも解放されて、理性は、理性を超えたものとの出会いにおいて、その無力さを露わにするのではなく、むしろ、その本領を発揮する。自らの力を超えたものを理解すべく格闘するなかで、自らが、思いがけないほどの豊かな力を有していることをあらためて自覚していくことができる。そのような格闘こそが、トマスの驚異的な知的達成の原動力があった。と著者は紹介する。
 かなり魅力的にトマスを紹介する。しかし、と私は思う。そういう信仰と理性の捉え方をしているなら、「神」がなくてもやっていけるのではないか、と思う。日本的な発想かもしれないが、「そんなもんじゃないの」とか「しかたない」と語ると、ここで言っている「神」をこれらに置き換えることができてしまう。
 日本語の「信じる」とヨーロッパ系の言語の「believe」の内容は違うのではないかと思います。例えば、信頼と信用と信仰は意味が違いますが、これらをまとめて「believe」です。自然科学の法則、例えば惑星の軌道がいままではそうだったからといって、これからもそうだということの理由はありません。だから、今までもそうだから、これからもそうなるというのは信じている。そういうベースがあって探求する、理性が働く。聖トマスの信仰論にはそういう論述があるそうです。
 しかし、日本語では、それを信じるとは、おそらく言わない。「そんなもんだ」というような諦念にも似た言い方をしているのではないか。存在もそうです。妄言でしょうか。

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