
駒井哲郎の初期作品です。そこには
「丸の内風景」という題名のとおりの風景作品もありました。“夢と現実。私にはそのどちらが本当の実在なのかいまだに解らない。”という駒井自身のことばが残されているそうですが(画家本人の言葉というのは、後付けの弁解のようなところがあって必ずしも、その言葉通りに受け取るものではないと思いますが)、それを手がかりにしたわけではないでしょうが、心に浮かぶ夢や幻影を作品とした<夢>の連作を1950年前後に制作します。その中からの展示が、「束の間の幻影」とともに、私には駒井哲郎の作品の代表的なイメージとなっています。

「夢の始まり」という作品。眼の形のような枠の中に薄明かりのような、輪郭の薄ぼんやりした風景を覗いているような作品です。この枠の眼の形は、見ているという、あるいは覗き見ているという行為を意識してのことのように思えます。それは、前年の「孤独な鳥」という作品では鳥の黒々とした丸い眼が目立っていて、鳥の向いた正面には現実の風景とは違う靄のようなものがひろがっていて、その中に描かれているのは夢なのか分かりませんが、明らかに、この鳥が見ているものです。「夢の始まり」もそうですが、ここで描かれている夢というのが、例えば
シュルレアリスムの画家たちであれば、現実のリアルな風景や事物がベースになって、それが歪められたり、物と物との組合せが現実にないような関係にずらされていて、あくまでもリアルをベースにしているのに対して、これらの作品では、そういうリアルの痕跡が見られません。それだから明確な形をとれないのかもしれません。駒井自身も曖昧で明確になっていないイメージを、そのまま表出している。それを夢というのは、駒井自身が言っているからそうなのだ、というものでしかないでしょう。

「夢の推移」という作品も、眼の形とはいえないのかも、しかし、見ているというイメージで、その中に広がっているのは、家とか橋とか魚といったイメージですが、現実の物というより頭に浮かんだイメージをそのままという抽象的な感じで、それが家とか橋とか見る者が分かるようなのは、微妙な明暗の加減を表現するためメゾチントの技法で制作されているからではないでしょうか。「孤独な鳥」で不定形に広がって中が渾沌に近いものだったのに比べると、この作品では整理されてきて、そこでてきた余白に黒の諧調が変化してくるのが表わされていて、それが深さを見る者に想像させている。三つの作品しか、ここでは見ていないにもかかわらず、黒のバリエイションが広く、細かくなって、その関係によって黒の深みが作品を経るに従って深みを増していくのが分かります。

「消えかかる夢」という作品。「夢の推移」は暈しが凄いと思いましたが、これも凄い。しかも、「夢の推移」は暈しだけでしたが、こちらは暈しが多彩でメリハリが加わっている。一方、外側の大枠が眼の形で、その中に内側の枠のように眼の形があって、二重になっています。しかも、その内側の眼の形がその中を泳いでいる魚とつながっています。そして、その魚の内側に別の小さな魚がいる。その何重にも層を成しているようになっている。これは、見ること、夢を見ること自体を掘り下げて、深さという側面から描いたと言えないでしょうか。それは、別の例でいえば、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』で主人公が夢から覚めたと思った現実が、実は夢の中で、そこから覚めたとおもったら、その覚めたと思ったのも夢で、何重にも夢の中にいて、では、そう言っている今は夢なのか現実なのかという錯綜して境界が曖昧になって、現実とか夢

の区分が相対的になってしまう物語に似ていると思います。
このような眼の形は「束の間の幻影」ではなくなります。それにつれて、見るということから、その見ているものを描くように移っていったということでしょうか。「海底の祭」という作品でもそうです。これらの作品には、それまでになかった浮遊感があり、内的世界に身を委ね、ある種の開放感に浸りながら創作する駒井の姿を、想起させるものがあります。それが深海に喩えられるようなイメージです。これまでの作品よりも黒を基調としている性格は強まっているのに、暗いとか重い感じはしません。しかも、描かれている事物は抽象的になって幾何学的な図形や模様になっていきます。この作品では、タツノオトシゴやヒトデのかなりデフォルメした図形のような形もありますが。
「時間の迷路」は、白から黒までの微妙な色の変化によって、暗い空間に幾何学的な形が浮かび上がる幻想的な世界を表現している。画面にちりばめられた平面にも立体にも見える無数の矩形は、無限の宇宙を漂っているかのようです。

そして、ロオトレアモンの『マルドロオルの歌』に挿絵を制作し、これは「老いたる海」につけたものですが、<夢>の連作とは逆に眼を外側から描くようにして、その眼が集まる夢の世界と言えそうです。ここには、いままで見てきた作品にはない不気味さがあります。駒井は、後年大岡信や安東次男らと詩画集を制作したりして、詩や文学に興味を持っていたのかも知れず、主実的な視覚イメージとは別のところでイメージを作っていたのか、とはいっても、言葉の論理によって画面を構築する、例えばシュルレアリスムが駄洒落のような画面を作っていたようなことはしていません。そのようなところが、この人の独自なところではないかと思います。
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