オットー・ネーベル展(9)~8.ルーン文字の言葉と絵画 Runes in Poetry and Image

「黄色い知らせⅠ」という作品。ネーベル自身が“高められた平面”と呼んでいた平面が現われます。平面の重みは、その形、大きさ、色彩の強さによって決定づけられ、意味を与える形となります。ネーベルは特定のリズムを選び、絵の要素が一緒に踊ったり、重なり合ったり、ひとつの全体に融合したり、反発しあったり、画面に浮かび上がったりするように描いています。ここで、ネーベルの画面は、この作品のように平面の上で、一度ごちゃごちゃにされ、見直されていきます。1930年代に易という象形文字のような記号シンボルに注目したりした経験から、記号的なものを取り上げた作品を制作したということでしょうか。

「照らされて」という作品です。上述の説明がある程度あてはまるかもしれません。一定の太さの線を見ていると文字のようです。その形はシンボリックに見えてくるし、線と線とが絡み合ったり重なったりしたりしているようにも見えます。クレーの作品が戦っている姿のシンボル記号のようにも見えてくるのと、通じたところがあるようにも見えなくもありません。しかし、ネーゲルにはクレーの即興性や線に内在する動感のようなものはありません。むしろ、計算されたフォルムという感じです。そして、例によって細工が職人技なのです。絵の具がきれいに凹凸の縞を作っているのです。それをさりげなく、細かくやっています。そう、このさりげなく細部ですごいことをやっているということ、人は年齢を重ねて人生を経験していくと性格も円くなってくるもの、というのは日本的な考え方でしょうか。日本的な考え方で言えば円熟ということになるかもしれませんが。ハッチングとか点描といった稠密な細工に没頭してしまうことを、いわば目的になって、それをやりやすい画面を選んでいたのが、建築的な構成だったり幾何学的なデザインだったと、私には見えます。それが、細部が画面に及ぼす効果を、ある程度客観的に見るようになって、第一目的であった細かく描くということが、それを生かすということにシフトしていったのがネーベルの円熟であるように、私には見えます。その表われが、直線だけでなく、柔らかな曲線も入って、しかも、画面全体の構成が不均衡の要素が入って柔軟性が生まれてきた。そこに見る者にとっては、緊張感が緩和され、リラックスして画面に向かうことが可能になった。そういうものに格好のものとしてシンボリックな文字やオリエンタルな模様という素材を見出したという、私には、そういう物語を想像してしまいました。ここで、細かく描いたことから生まれる独特の陰影やグラデーションをうまく生かすことのできる舞台として、ここで展示されているルーン文字の作品を見ることができるのではないかと思います。

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