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2018年6月28日 (木)

ルドン─秘密の花園(4)~3.植物学者アルマン・クラヴォー

Redonsadface  ルドンが描いた人間の頭部を持つ植物は、ボルドーの在野の植物学者アルマン・クラヴォーの影響ということだそうです。ルドンは石版画集『夢想』を、年上の友人に捧げたそうです。ここでは、そこからの作品を中心とした展示です。
 『ゴヤ頌』より「Ⅱ.沼の花、悲しげな人間の顔」というリトグラフ作品。ルドンの作品の中では比較的知られた作品で、ルドンという名を知らずに、どこかで目にしている人もいるのではないかと思います。不思議、怪奇、グロテスク、そして黒い画面といった特徴は、一度目にすると記憶に残ってしまう作品ではないかと思います。真っ黒な背景に対して、それよりも黒い植物が一本生えていて、その実が人間の顔で、それが光って周囲を照らしている。グロテスクな姿です。しかも、人の顔が、タイトルで「悲しげな人間の顔」とありますが、デフォルメされたマンガのような、別の言い方をすれば手抜きでスカスカの顔は、悲しいという表情を、タRedongoya イトルからそのように感じようとしなければ、あるいは記号としてマンガの顔を悲しいと読み込む土台がなければ、そうとは見えないものです。虚心坦懐にみれば、空虚とか不気味といった感想が出てくると思います。おそらく、ルドンは人間の感情とか表情を繊細に表現する作品を、他に制作しているわけでもないので、悲しみとか表情といったことの表現の志向があったのか分かりません。ルドンが人を描いている場合は、顔はぼんやりして細かく描かない、したがって表情がないので、この作品のように目鼻がとりあえず描かれているのは珍しいのではないかと思います。『ゴヤ頌』という版画集のタイトルは何かしらゴヤを意識していたはずで、こじつけかもしれませんが、ゴヤの「巨人」とか「わが子を食らうサトゥルヌス」のような人間の表情など入り込む余地のないグロテスクな画面を意識していたのではないかと思います。ルドンの作品は個人的な感情とか内面といったことにこだわるとか表現するというものには、私には見えないで、これもゴヤの画面とかグロテスクさとか黒さといったことを取り入れた結果こうなったという感じがします。
Redondream  『夢想』より「Ⅱ.そして彼方には星の偶像、神格化」という作品です。男がいる球体は星なのでしょう。したがって、黒が基調の画面は夜と考えていいわけです。その暗い中で男の顔ははっきりせずに表情を読み取ることはできません。というよりもそういうように描いていないと言った方がいいと思います。端的に言えば、何かを描くということには興味がないのではないか。それは人でも物でもそうですが、対象とするということは自分の外部に自分との別のものが存在していることを認識することです。人であれば、それは他者として自分とは別の人がいて、表情を見ようとするのは自分と他者の関係を測ろうとすることです。その表情を描こうともしないということは、ルドンの画面には他者というものが存在しない。ルドンという人は他者に興味がないということが言えるのではないでしょうか。したがって、自分の外部の何かに興味をもって、それを対象として捉える、その結果としてそれを描くということにはならない。ルドンの作品は幻想的という言われ方をしますが、現実の世界は自分の外部で、自分とは異質で独立した他者がいて、その他者と関係を取り結んでいかなくてはなりません。そういう他者の存在が認められない。つまりは、自分にとって異質なもの、自分の外側を排除してしまったものが、ルドンの、この頃の作品と言えるかもしれません。それは別の面でも言えると思います。男がいる球体は星なのでしょう。したがって、黒が基調の画面は夜と考えていいわけです。星なのですから暗い夜空で瞬いてもいいのですが、そういう星の光は描かれていないようです。いったい、ルドンの“黒い絵画”と呼ばれるようですが、黒という色そのものが美しいとか、その色を画家が使いたいとか、そういうことは感じられないのが不思議です。“黒い絵画”といいながら、黒が魅力的でないのです。そこには、作品を描くということ、つまりは、ルドンという人は他者に対して表現するということに意欲がないように見えるのRedondream2 です。それゆえに、外部ということがない閉じたなかで、他者という異質な存在の入り込んでくることのない世界をつくる。この版画集は『夢想』というタイトルですが、夢という自身の内部で作られた世界。それがルドンの幻想というもの、言ってみれば閉じこもりです。そういえば、ちょうどルドンと同時代に文学の世界で、ロマン派とか象徴主義といった人たちが、例えばJKユイスマンスの「さかしま」という作品は主人公が城に籠もって、そこに自分の好むものだけに囲まれた空間をつくるという話です。ルドンの絵画は、これに共通する雰囲気があるように見えます。
 同じ版画集の「Ⅳ.かげった翼の下で、黒い存在が激しく噛みついていた・・・」という作品です。「Ⅱ.そして彼方には星の偶像、神格化」では球体の中に男がいましたが、ここでは球体の外側で翼を生やしたものと、後姿のおとこが組み合っています。“噛みついた”というタイトルと二つの何ものかが組み合っていることから、少なくとも闘っているのでしょうが、そういう激しさは感じられず、他の作品も同じですが静けさ、クールに雰囲気になっています。それは、画面に対立といったようなダイナミックな要因が排除されている安定した世界だからかもしれません。
Redonbudda  「若き日の仏陀」という油彩の作品。淡い色彩の明るい作品が、どうしてこのコーナーの展示になっているのか、展示意図がよく分かりませんが、この展覧会には、そういう戸惑わさせられる展示が少なくありません。その代表が、この展示の目玉であるドムシー城の食堂を飾ったルドンの装飾画が一堂に会すというのに、広い展示室にそれを全部展示しないで、分けて展示していることですが、そこには、あまり深入りしないようにしましょう。この展示の中で他の作品が“黒い絵画”ばかりだったので、この作品が唯一のカラー作品で異彩を放っていたので、その色彩が際立った印象だったのかもしれませんが、背景の青が印象的であったこと。その青と群青の背景にクリーム色が侵蝕するような配置となって、その諧調の敢えて言えば海底の珊瑚礁のような無秩序さが、おそらく作品の中心であろう仏陀との関係がよく分からず、したがって何かを表現しているとか、ということとは無関係に、ただそういう背景だという無意味さ、それゆえに静謐さを湛えているところが、不思議な感じがしました。けっして絵画的な美しさとは思えないのですが、絵の具の塗りは丁寧さを感じられないし、眼を近づけてみると汚いとか投げやりと思ってしまうところがあるので。そういう背景をバックにして、画面の中心であるはずの仏陀の顔が空虚であるのも不思議です。いや、むしろ、この画面では仏陀という中心が空虚であるからこそ、仏陀を中心とした画面の構成ができていなくて、背景や仏陀の衣装の色彩が、それぞれテンでバラバラになっている状態になっていて、それが独特の色彩の諧調を見る者に印象付けているという結果になっているのかもしれません。仏陀という人物の存在感がないゆえに夢の中のぼんやりとした光景のような、フワフワした雰囲気を作り出している。そういう実体のない空気のようなところがルドンの作品の特徴と言えるかもしれません。

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