サッカー ワールドカップ私見

あれは、どこかで見た記憶があったのでした。そう、2002年の日韓ワールドカップ。日本の初戦、ベルギーに1点を先制されたあと、日本代表のFW鈴木隆行が同点ゴールした時の、届くはずのないボールを追いかけて執念で足を伸ばした姿(下の写真)でした。ボテボテ転がったボールはキーパーの手をかすめてゴールになった。あの姿がオーバーラップして見えたのでした。

これは、私の偏見で客観性も普遍性もないことだということをお断りしておきます。実際に、サッカーをやっている人には、見当外れの偏見に思えるかもしれません。サッカーのパスはボールを足で蹴るなどして味方に渡すと言うように見えます。この時、プレイヤーはボールをどこに向けて蹴っているのか、ということ。味方にボールを渡すのであれば、見方のプレイヤーに向けて蹴っているのかというと、そうではない。プレイヤーは味方に向けて蹴ってはいません。彼らは、誰もいない空間に向けて蹴っているわけです。相手は、その蹴られたボールが向かうところ、つまり誰もいないところ(スペース)に走って、ボールを取得します。これに対して、同じフットボールでも、ラグビーのパスは味方のプレイヤーに向けて渡すように、相手が受け取りやすいように投げます。ラグビーのパスは味方から味方へ、見るからに受け渡すという感じで、プレイヤー同士の距離はサッカーに比べて近いのです。ラグビーのプレイヤーはボールを嬰児を抱くようにボール持ち、そして大事に味方に手渡します。まさに、One For All, All For Oneという言葉が象徴しているようです。しかし、サッカーは、例えば先日の対コロンビア戦の先取点の場面で、FWの大迫はディフェンスがボールを奪取したらスペースに走り出したのであって、パスのボールを受け取るために追いかけたのではありません。MFの香川は、ラグビーのように大迫の身体に目がけてボールを渡そうとしたのではなく、スペースに向けてロングパスを蹴りました。その時、パスの出し手と受け手はそれぞれが誰もいないところに向かっていたと言えます。そこには互いに、そこでパスがつながるという信頼があるからだと言う人もいるでしょう。しかし、見ているとそんな生易しいのでなく、成功失敗五分五分の賭けのように映る。二人が向かったのは、だから誰もいないという空間(それをサッカーでは「スペース」といいます)、スペースつまり虚無と言えるのではないか。サッカーというゲームは、虚無に向けて11人のプレイヤーのそれぞれが、それこそ独りあそびをするスポーツなのだと思う。それがサッカーというスポーツの、他のどのスポーツにない特異なところであるし、本質的な魅力ではないかと思います。虚無の空間との往還をするわけで、もともと、日本でもご神体の球を奪い合う神事、諏訪の御柱などはそのバリエーションではないか、と共通する、俗世界と超俗とを行ったり来たりする、そういう超越的な行為であったのだろう。ちなみに細かいパスをつなぐスペインのサッカーは、ラクビーのようにプレイする、虚無から逃げ回るようなサッカーで、私には、サッカーをやっているようには見えない、超越しようとしてないで日常の凡庸にしがみついている、だから美しくない。
そういう視点で、19日のゲームでファルカオが虚無に向けて、を投げ出していた姿は、サッカーの本質的な美しさを体現しているように見えたというわけです。
オヤジの知ったかぶりの薀蓄かもしれませんが、サッカーのゲームで勝ったという結果だけ、そうでなければ予選通過するとか、どんな成績を残すかという、成績ばかり話題にしたり、フィールドのプレイそっちのけで応援とかに勤しんで、となりの人と同じことをして一体感に酔い痴れているのも楽しみであることは否定しません。しかし、サッカーのすばらしいプレイは、たしかに世界の視野を広げてくれるところがあって、そういう認識論的な感動を語るということはないのでしょうか。
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