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2018年6月 3日 (日)

没後40年 熊谷守一 生きるよろこび(4)~2.守一を探す守一:1920-50年代(2)

Kumagainude2_2  「人物」という作品です。裸婦の後姿を描いたものでしょうか。これまでの作品の見方から、色のブロックの組合せが室内の裸婦の形を成しているというように見ることができると思います。そしてさらに、色のブロックが色というだけでなく、画面に絵の具を塗ってある筆の跡が画面にリズムを作り出していることに気づきます。例えば、裸婦の背中や尻のところの円形の筆跡。それが背景にもあって、それらが色によって形がなして在るのは別に、筆の跡が新たな形を画面に創りだしている、と見えます。熊谷は、これを裸婦や風景を題材とした作品で試行するように制作していった、それらが並べて展示されていました。「裸婦」では赤い絵の具のくねった筆跡だけで裸婦ということにしてしまっています。これなどは、もはや裸婦を写生したことを超えて、筆で引いた筆跡を裸婦ということにしてしまっていると言った方がよいのではないと思われる作品です。「横の裸」という作品では茶色と白の筆跡だけとも見える作品で、これはタイトルがあるから、そのように見て、はじめて、何が描かれているのか分かるもので、タイトルがないところでは抽象画と言われても、そうだと信じてしまいます。つまりは、熊谷にとって世界とは、そういうものとして存在しKumagainude3_2 ていたのではないか、と思えるのです。だから、自分なりに創ってしまうことができること
にもなるわけです。
 例えば「安良里港」という作品です。漁船は水平に筆を動かして赤と白と薄い青の帯が数本引かれたというもので、画面手前の岸に集まった人々は円形に筆を丸めて引かれた跡が三角形に集められています。「人物」から、さらに一歩進んで、既成の真理以前の状態で世界を検知するというところから、筆跡という要素を描くことにくわえることによって、画面をそれで作っていこうとすること、それは、熊谷が新たに創り出した、既成の真実ではない彼自身の尺度で世界を判断しようとするもの、というところに行こうとしている。つまりは、検知した情報を基に彼自身による世界を構築しようとしている方向に一歩進んだのではないか、ということです。なKumagaiport_2 お、ここに見られる作品は、スタイルとしては表面的にキュビスムやフォービスムに似ているところがありますが、これらの運動は、理念として真実を尺度として、真実を画面に再現するための様々な試行錯誤と考えられるので、根本的に熊谷の姿勢とは別物と、私には思えます。それゆえに熊谷の作品には、そういうイズムの作品にある計算された緻密さにはないプリミティブな奔放さとか荒々しさがあるように思えます。
そして、表われて来るのが。熊谷守一のトレードマークともいえる赤い輪郭線ではないかと思います。展覧会での説明では、熊谷はもともと光と影に関心を持っていて、前に見た「横向裸婦」では逆光の位置に立ち、身体の縁から漏れる光を白く細い線で表わしていたと言います。「夜の裸」という作品は、「轢死」のKumagainude5 モチーフを引き継いでいて、夜の闇の中の死体をはっきりとそれと分かるために、光と影を色に置き換えるだけでなく、逆光の縁取りが赤い輪郭線となって現われたと言います。本来、現実の世界に輪郭「線」は存在しません。あるのはモノと空間、またはモノとモノとの境目だけです。熊谷は何ごとも一から自分で考えなければすまない性格です。その熊谷が実在しないはずの輪郭線を画面の上に引くためには、一度「線のように見える細い輪郭の光の帯」という確かな手がかりを用意する必要があった。と展覧会では解説されていました。
 そして面白いのは、赤い輪郭線を引くことによってなのか分かりませんが、輪郭線によって引かれて形成された形がひとり歩きし始めるよKumagaitanigatake うなことが見られることです。 「谷ヶ岳」という作品では、「夜の裸」の顔を背け、腕を投げ出した裸婦の輪郭を左右反転させると山並みのラインとよく似ているのです。これは、一連の裸婦像や風景画で筆跡がひとり歩きして世界を創るようになっていったのと同じように、輪郭で形成された形態が世界を創ることもできることなるわけで、熊谷は、このように様々な方法で世界を創ることを試みていたのではないか。創るという意図的なことではなくて、既成の真実という尺度のないところで世界があるということを検知して、それを表わそうとして、そのままでは他人には分からないから、何らかの尺度をそこに他人のためのフィルターを入れることを試みていたのかもしれません。
 Kumagaiurushi 「漆樹紅葉」という作品では、輪郭線で区切られた形成された領域を色で埋めて、結果として風景画の画面が出来上がるという、あたかも世界創造をしてしまっているかのように思えます。しかし、何気なく見れば、簡素化された、こどものようなナイーブさを感じさせる牧歌的な風景画で、しかも色が鮮やかできれいというものでしょうか。しかし、この鮮やかな紅葉として見る者が受け取る色彩は、様々な色の相互関係による効果を計算して創り出されたものでしょう。
 解説では、アニメーションのセル画のように塗り分けていると説明しています。「西日」という作品では、光が当たる部分の明るい色と影になる部分の暗い色の塗り分けをそうしています。個々の岩は影に沈んで一色に塗られ、岩の影にあたる西日は赤い輪郭線で表わされています。このようにひとつのモチーフを明暗のブロックに分け、そのブロックをひとつの色で塗っていく、そして、その色はKumagaiwest 現実の固有の色ではなくて、となりの色との相互関係で対比や調和を考えて選んでいくようになっています。このことは、「仁右衛門島」という作品では黄土色に茶色という固有の色の明暗に近い色合わせとは別に、もっとも暗い部分には少量の青や紺が用いられています。つまり、暗部を影にするのではなく黄土色のとなりに青を置いているのです。つまり、真実かどうかという判断をする以外で、存在していることを検知するということをしようとする。それは、(西洋)絵画というもののあり方に対する、根本的な批判ということになりかねないのかもしれません。何かの対象があって、それを目で見て、そのことを描いて他人に見せる。そういうこと、そのベースにある見たままは、その対象そのものを写している、真実であるということです。その真実であるかどうか、ということを外してしまうということです。ある意味、そんなことは絵画の伝統の中で誰も想像すらしなかったことかもしれないわけです。しかし、熊谷以外の人Kumagaiisland は、絵画のそういう伝統の中にいるわけで、仮に熊谷がそういう試みをしたとしても、例えば私であれば、熊谷が試みているということを聞いていたとしても、習性的に伝統の中で熊谷の描いたものを見てしまうでしょう。したがって、熊谷がそういう試みをしている作品を、批判されている伝統として見てしまっている。それゆえ、そこにすれ違いというのか、正直に言うと、熊谷の作品に対して、簡素化したパターンのような同じようなモノの繰り返しを大量生産しているとして、絵画というよりイラストとか挿絵のようなもの、と見なしてしまう。しかし、熊谷からすれば、そういう検知をしていて作品を制作するだけでよかったのか、自分ですら手探りで試行錯誤を繰り返しているのに、それに自覚していない他の人に作品を見てもらうということができるのか。おそらく、見せたとして、それを分かったという人がいても、今言ったように混同してしまうのが関の山ということ、こんなことは熊谷も分かっていたと思います。したがって、熊谷は誰もやっていなかったことをするということと、それを他の人に見てもらって、そういうことだということを分かってもらうという、二つのことについて作品を創ることをしようとした。とくに二つ目のことについては、少なくとも混同を避けるためには、従来の絵画とは違うということを見る人が、ひと目で分かる、かといって絵画であると認められる範囲から外れてしまえば、見てもらえなくなる。そういう綱渡りのようなギリギリのバランスの中で、試みを続けていたのではないかと想像をしてしまいたくなります。とくに、この「西日」のような作品は、その結果としてシンプルさとか、軽さといったことを獲得し始めた作品ではないかと思えるのです。少なくとも、私には初期の真っ暗な作品と、どちらが親しめるかと問われれば、躊躇することなく、こちらを選択します。

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