内部監査担当者の戯言(13)
もう何十年も前の若い頃、クラシック音楽のファンサークルに入っていたことがありました。ある時、そのサークルのブルックナーという19世紀後半の作曲家の交響曲のCDを聴く集まりに出席したことがありました。十数人の人々が集まって、リスニングルームでCDを聴いて、その後、喫茶店に場所を移して、お喋りに花が咲きました。中で、いかにもマニア然とした年配の人が、「この演奏にはブルックナーの宗教性が感じられない」という意見を述べて、それをキッカケに、ブルックナーの宗教性ということで話題が盛り上がりました。それで、よく分からなかった若年の私は、ブルックナーの交響曲を聴いていて、例えば、どこの、どのような響きに宗教性が感じられるのかと教えを乞うたところ、盛り上がっていた議論は、一変にシーンとしらけてしまいました。その時に、最初に口火を切った年配の人から「音楽を理屈で聴くものではない」と言われたことをおぼえています。でもこれって、理屈ではなくて、自分なりの感じ方を他者に話すということでしかないですよね。その人が言うには、ブルックナーという人は、長年、教会でオルガンを弾く仕事に就いていた。だから宗教的なのだ、ということでした。でも、それだからといって、ブルックナーという人の作曲した交響曲が宗教的に聴こえるということではないですよね。その交響曲が宗教的というのは、そういう情報を持っていない人が聴いても、宗教的と感じるということで、それは実際に交響曲を聴いていて、ここのところとか、こういう響きとか、それを実際に教えてほしいと、私がいったわけです。その人は難しく音楽を考えるな、と言いました。
結局、この人は、聴いた音楽を語るための借り物でない自分の言葉を持っていないか、音楽を聴く自分自身の耳を持っていないかのいずれかである、と今では言えます。この人は、誰かのブルックナーの感想やCDの解説に書かれている情報を確認していたという、CDを聴くのは、それをしている自分を確認しているようなものだったのではないかと想像できます。だから、当時の私の問いに答えるには、自分はどのように音楽を聴いているか、ということ、それはこの人がやっていないことを、考えることを迫られるわけで、そこで考える対象でうる自分がないからできない、ということで、それはだから、そのとにとって難しいことになるわけです。
そして、これは音楽に限らず、仕事の場面でも年齢や肩書にかかわらず、自分の言葉を持っていない、ということは自分を持っていない人をしばしば目にすることになりました。そういう人は、例えば営業セールスであれば、お仕着せの教えられたマニュアル通りに、セールストークをするような人で、そのセールスを受けていて、その人の言葉を、つまりこういうことですよね、と私の言葉にして言い直して、それで質問すると答えられないということがあります。
つまり、マニュアルにしか仕事をできない。私が、内部監査で、ある担当者に、ある作業の手順について、この仕事の目的とか、意義とか、どうしてそういう手順になっているか、と質問すると、そうきまっているから、としか答えられない人が結構おおいのです。
これを監査する側がそういう人であると、内部監査が社内の粗探しとか、揚げ足取りに陥ってしまうおそれがあると思う。
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