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2018年7月14日 (土)

プラド美術館展~ベラスケスと絵画の栄光(5)─Ⅳ宮廷

Prado2018profile3_2  このコーナーも最初に展示されていたのはベラスケスの作品でした。「狩猟服姿のフェリペ4世」。この作品でも、ベラスケスという画家は基本的に肖像画家であるという印象を強くします。とにかく、人物の顔を描くのに力が入っている。次に、この人物の着ている服で、それ以外はとくにどうということはなく、人物を描くための引き立て手段程度というのが明らかです。それは、全体をきちんと描いているルーベンスとは対照的で、しかし、顔の部分だけはルーベンスが雑に思えてしまうほど、力を込めて描いていることが分かります。“本来、人間は不完全なものであり、肖像画はその不完全さ補って完全なものとすべく制作されていた。しかし、ベラスケスにとって「肖像画を描く」ことはモティーフに直接的に近づくことを意味する。自然主義絵画、「自然の模倣」という画家としての基本姿勢を反映した写実的な相貌に、国王として品格を加えながら、ベラスケスはハプスブルク王家の肖像画に新たな伝統を紡ぎ出していくのである。従来の肖像画は豪華な衣装や様式の肖像画が主流であった。君主の肖像画は鎧や武具を身につけ、またその権力を示す多くの印で飾られた高価な衣装をまとって描かれている。これと比較するとベラスケス作品が、国王自身の似姿で、服飾的な誇示は避けられ、わずかな色階と熟達した微妙な光を駆使して、「豪華さと富」というイメージよりも「統治の職務と責任」を負う国王としてのイメージが強調される。簡素な空間や地味な衣装は、ほとんど表情のない国王の顔と補完関係にあり、人間的な感情を表現することをよしとしないハプスブルク王家の人々の肖像画の長い伝統に則っている。ベラスケスが描いたフェリペ4世の肖像画Prado2018profile4_2 は、単純な構成、色彩の簡素さが特徴で、国王の責任と義務への倫理観を表現している。”と説明されています。そんなものか、とは思いますが、私の見方が当時とは違うからなのかもしれませんが、この作品を見ていて、どこに人物の国王としての倫理観が見て取れるのか分かりません。私に分かるのは、人並外れた長い顔(馬面)で、そこにとってつけたようなひげを生やしているのが、どこか滑稽にうつる。それを滑稽に見えてしまうように描いている画家が、自然主義と言われれば、そうかもしれないと思ってしまう、そういう程度です。むしろ、この馬面はハプスブルク家の一族の身体的な特徴であったでしょうから、それを糊塗することなく個性として描いている(それにしても、この顎の描き方なんぞ容赦ない感じで、不細工とか、威容ではなくて異様といっていいくらい。ここまでやってしまっていいの?と心配になってしまうほど)。この作品では、その個性を主張していて、それはそれでよいのでしょうが、この人物は虚勢を張るように髭をたくわえ(この髭は、現代人の私から見ると滑稽以外の何ものではありません)て、威厳ありげに胸を張って、ポーズをとっている。それが後世である現代から見ると、このハプスブルク王家が外面的には広大な植民地を征服し、強大な軍隊を持っていたように見えて、その実経済状態は借金まみれの火の車で、国内は疲弊しつつあったという虚飾に満ちた統治であったという薄っぺらさが透けて見えるように思えてしまうのです。それは私が歴史を知っているから、そう見てしまうのかもしれません。もとより、ベラスケスはそのようなことを露ほども知らず、国王を偉いと思って描いているのでしょうから。しかし、後世の私が見て、そのように受け取れる要素が描かれてしまっていると言っても、あながち否定することもできない。そういう作品になっているのではないか、それは深読みしすぎかもしれませんが、そう見える作品であると言えます。
 アントニス・モルの「ファナ・デ・アウストリア」という作品です。1560年というとベラスケスが生まれる前で、上のフェリペ4世の肖像画の70年前に制作された、上の説明での“豪華な衣装や様式の肖像画”のひとつと言える作品です。ベラスケスの描く肖像画に比べて描写が精緻で隅々まで丁寧に描き込まれています(並んで展示されているアロンソ・サンチェス・コエーリョの「王女イザベル・クララ・エウヘニア・とマ゛タレーナ・ルイス」はもっと装飾的で豪華絢爛)。暗いグレーの背景に立っているモデルには左から差し込む光に当たって映えるように浮き上がる演出がされていて、おそらく絹であろう黒い衣装は、その光に照らし出されるように柔らかな光沢を放っていて、威厳を示すとともに、ひとり暗いところにたって、その黒いに同じないで光沢を放っている姿は孤高で隔絶した印象を与えています。顔のまわりの白いレースの細かな描写や、手にしているハンカチの飾りや衣装の材質の違いといった微細な描写、あるいは左下の椅子のクッションの飾りまで細かく描きこまれていて、目立たないとこめでディテールの豪華さを描きことにも手を抜いていません。彼女のひっつめにした金髪の髪の丁寧な描写といった細密に描き込まれていること自体が、その豪華さをアピールしている。つまり、モデルを引き立てる演出と衣装やアクセサリーの豪華をこれでもかというほど描きこんで、モデルを引き立てています。私のような当時を知ることPrado2018boy_2 のない者は、その細部の描写をみているだけでリアルと錯覚してしまいます。この作品と比べるとベラスケスのフェリッペ4世の肖像は演出も細部の描写でもお座なりと言っても差し支えないほどで、ということは、お座なりでないところ、つまり顔だけで勝負していると言えると思います。それだけ、顔の描写に迫真さがあって、見る者を納得させてしまう。場面の演出もない、衣装や装飾といったものは、モデルの人物自体ではないのだから、敢えて余分なものとして、人物自体を、それが露出している顔だけに焦点を当てて描こうとしている。近代の個人の主体を重視する考え方とは違うのかもしれませんが(そのひとつの証拠として、人物の表情を感情の表われのようにベラスケスは描いてはおらず、無表情と言ってもいいと思います)、そのような姿勢に親しみ易い点があると思います。
Prado2018boy2_2  また、ベラスケスの「バリェーカスの少年」とファン・バン・デル・アメンの「矮人の肖像」は同じ矮人をモデルにしながら、ベラスケスは殊更に矮人であることを強調するようなことをしないで、ひとりの人物として描いているということでしょうか。
 ジョゼペ・デ・リベーラの「女の戦い」という作品は大作です。おそらく宮殿の大広間を飾ったようなものではないかと思いますが、荒唐無稽な場面です。美女同士が武器持って戦っている。しかも、格好が甲冑でも戦闘服でもなく、動きにくそうな長いスカートで。しかし、剣と盾を持って、血も少し流している。それをちゃんと闘っているように、しかも、闘っている女性が美女であること、つまり美しさを損わないようにしている。その按配のそつのなさ。この展覧会でベラスケスがメインで、それに次いでスルバランとこのリベーラという人ということが宣伝されていましたが、ベラスケスは人物の迫真的な描写、スルバランは神秘的な画面世界と、何となく見ることができたのですが、リベーラの場合には、上手いのでしょうが二人のような突出したものが見つけられなPrado2018fight かったのですが、この作品を見ていると、卒なく作品を作ってしまう職人的な腕利きの画家という物だったかもしれないと思いました。この作品でも、壁画の様式のようなところと、リアルな戦闘の描写のあいだで、広間を飾ることができるようにうまく調整しているのはセンスの良さであると思います。
 Prado2018profile5 また、フェリックス・カステーリョの「西ゴート王テオドリック」という作品は、その派手で細かい装飾もさることながら、画面浸りの背景の戦闘の場面の描写など、豪華な作品であると思います。

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