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2018年7月16日 (月)

プラド美術館展~ベラスケスと絵画の栄光(7)─Ⅵ.静物

 スペイン・バロック美術の静物画は「ボデコン」と呼ばれる独特なもので、私の大好きなジャンルです。解説によればスペインで最初に静物画を残したファン・サンチェス・コターン(1560~1627年)ということで、“彼は基本的に宗教画家であったが、1600年前後に幾つかの静物画を制作したとされる。これらの作品は、北方ともイタリアとも異なる閑寂な雰囲気を帯び、そこでは重厚な石壁が四角くくり抜かれたかのような窓枠状の縁取りの内部に、野菜、果物、獲物などが一定の距離をとって並べられている。この構図は日常を映し出したものではなく、幾何学的な趣向に基づいたものであり、その中で身の回りの「モノ」たちは、自らの存在を暗闇から救い出すかのような超自然的な光に射られ、私たちの目の前に浮かび上がる。それはいわば現実と非現実の神秘的な邂逅であり、以降、スペイン静物画の大きな特徴とし魅力の一つになっていく。”
Prado2018bode  フェリペ・ラミーレスの「食用アザミ、シャコ、ブドウ、アヤメのある静物」という作品は、ファン・サンチェス・コターンの「獲物、野菜、果物のある静物」をモデルに描いた作品とのことです。“重厚な石壁が四角くくり抜かれたかのような窓枠状の縁どりの内部に、野菜、果物、獲物などが一定の距離をとって並べられている。この構図は日常を映し出したものではなく、幾何学的な趣向に基づいたものであり、その中でモティーフは自らの存在を暗闇から救い出すかのような超自然的な光に射られ、神秘的なオーラを放っている。”と解説されているコターンの作品に倣ったようならミーレスの作品です。たしかに、四角い窓枠のようなものは日常生活にはないもので、並べられている個々の物は生活の場面のなかで、このように並べられることはありません。また、背景が真っ黒で四角い枠の中の個々の物だけが照らし出されるというのも非日常的な場面です。そこで、個々の物そのものが日常的な場面から抜き出されて、それ自身の存在が照らし出される。その個々の物をラミーレスは精緻に描写しています。例えば、暗闇から照らし出される、金属の花器の硬く冷たい光沢とブドウや鳥の羽の柔らかい肌触りの違いが、他の要素が切り捨てられているだけに際立たせられていて、物それ自体の存在を見る者に、それぞれに強調しています。まるで、それぞれの物のそれぞれが在るということが輝かしいとでも言われているようなのです。
 Prado2018bode2 ファン・バン・デル・アメンの「果物籠と猟鳥のある静物」という作品です。“石でできた窓枠のような場所に、様々な種類の果物や猟鳥が配されている。メロンやモモ、ブドウを盛った藤籠を中心に、向かって左側には手前に突き出た丸ウリと茶色のテラコッタ製カップが右側には小さな丸ナス、そして白い陶器の皿にのったブドウとプラムが配されている。頭上からは、左側にキジ科の猟鳥アカアシイワシャコが2羽、右側に3つのザクロとサケイ科の猟鳥シロハラサケイが2羽、つり下げられている。全体として緩やかな左右対称をなし、安定感のある堅固な構図が作り出されている。画面左手前から差し込む光は、暗く閉ざされた背景の上にモティーフの輪郭をくっきりと浮かび上がらせ、描かれた事物の迫真性を演出している。”と説明されています。“モティーフを配す「舞台」として、上辺を欠く窓枠のような奥行きの浅い石の台を用いることは、この画家の最大の独創であった。モティーフを台から手前に突き出したて置いたり、また上からつり下げたりして視覚的なイリュージョニズムの効果を高める手法も、彼が得意としたそれである。”とも。たしかに、奥行きがなくて、空間の狭さが感じられます。しかも隙間を埋めるように多様な果物を籠かにこぼれんばかりに盛り合わせて、画面を所狭しと埋め尽くすような「空間恐怖」と解説されていますが、そんな構図になっています。それは、ひとつには、豪勢に盛り付けられた華やかで装飾的な効果を作り出していることが言えます。そこでラミーレス←コターンの作品に比べると、ラミーレスの作品は背景の暗闇が思いのほか大きな面積を占めていることが分かってきます。それゆえにアメンの作品のように空間が閉じて狭苦しくはなっていません。それは、じつは暗闇の深さ、つまり深淵となっていることが、この比較から分かってきます。アミンは、そのような暗闇の深さを嫌ったといえるからです。ラミーレスの作品では暗闇を背景にして静物が在ります。つまり背景の暗闇には何もないのです。何もないということは「無」の世界、つまり虚無です。ラミーレスの作品ではそういう虚無をバックにすることで、静物が在るということが強いコントラストを作り出し、緊張感の高い厳格な世界を作り出しています。しかし、虚無というのは、普通ではありえないことです。というよりは、あってはならないことです。しかし、そういう画面構成であるからこそ、静物画が神秘的になっているわけです。その矛盾を抱えたアメンは、極力、虚無を描かないようにした。そのために虚無の穴を埋めるように静物で画面を埋め尽くすようにした。アメンの作品は、絵画的と言えると思います。
 そういう、ボデゴンという静物画の孕んでいる矛盾を、より尖鋭に画面にしているスルバランの作品が、今回はなかったので、とても残念に思いました。今回の展示作品の中で、スルバランの作品はベラスケスに次いで印象的だったのですが、ボデゴンの作品の展示がなかったのは本当に残念です。
Prado2018flower  ヤン・ブリューゲル(父)の「花卉」という作品です。“テーブルに置かれた花模様の縁を持つ陶器が、カーネーション、何種類ものバラ、スイセン、アネモネなど、様々な種類と色彩の花を数多くたたえている。しかし、収まりきらなかった幾つかの草花はテーブルに散らばり落ち、最前景には小さなオレンジの花の枝が美しく横たわっている。さらに、画面中央の白いカーネーション上のテントウムシ、左上の小さな枝に止まるチョウ、反対に右側の花から蜜を吸おうとするトンボなと、花々の間には何匹かの生き物が潜んでおり、作品に真実らしさをもたらしている。ブリューゲルの花卉画においてシンボリックな解読は、命や美のはかなさというヴァニタスの概念に基づけば、常に成り立つ。しかし、彼は、寓意的。理知的な解釈よりも迫真性やそれ自体の造形美を魅力とする光景で我々の心を揺り動かすことに成功している。”と解説されています。この作品も背景は暗闇で、台こそありますが、背後はラミーレスと同じで暗闇の深淵です。そこに映し出されるものが、果物や獲物か花かの違いで、この画面にはそのものが在るということが峻烈に差し出されていると思います。ブリューゲルのすごいのは、果物や獲物とは違う花の柔らかさ、例えば花びらの透き通るような薄さを、その花びらの一枚一枚の個性を精緻に描き出していることです。さらに、この花が生き物であるという生々としさを感じさせていることです。ラミーレスの作品では在るということが抽出されている感じでしたが、ブリューゲルの作品では生きているということ、在ろうとして在ることが抽出されているという感じです。それが作品の美しさとなっている、とても感覚的な言い方になってしまいますが。
 この静物画の展示で残念でならないのは、スルバランのボデコンを見ることができなかったことです。この人の作品は、静物画というものを超えて、宗教的な静謐さを湛え、瞑想に誘う雰囲気があるからです。最初のコーナーの「芸術」のところに展示されていたキリストの磔刑図に劣らない宗教画となっているのですが、それがあると、静物画から次のコーナーの宗教画への連続性をもって強く意識できたのに、と残念に思います。

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