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2018年7月29日 (日)

長谷川櫂「古池に蛙は飛びこんだか」を読んだ。

 長谷川櫂「古池に蛙は飛びこんだか」を読んだ。
 「古池や蛙飛びこむ水の音」というあまりにも有名な芭蕉の名句。古池に蛙が飛び込んでポチャッ!と水音がしたというという単純な内容で、それがどうした?といわれると、カエルの水に飛び込む音が聞こえるくらい静かな情景を、「静か」と直接言わずに、それを読む人が自分でイメージし感じることができるようになっている。そう解釈されている。
しかしそれなら
 「古池に蛙飛びこむ水の音」
 の方がいいではないか、と著者は言う。芭蕉が敢えて「古池に」ではなく「古池や」としたのは、「や」という切れ字で、ここで切ったからだという。つまり、「蛙飛びこむ水の音」は古池とは無関係だからだという。蛙が飛び込んだのは古池ではない。それは、この句の成立の経緯を追いかけると分かる。最初に「蛙飛びこむ水の音」の部分ができていたという。この句の情景は蛙飛びこむ水の音を芭蕉が聴いたというものだ。その後で古池の風情を想った。それは、蛙飛びこむ水の音が、現実のただ中で芭蕉に、彼の古池という心の中の世界を開かせた。その劇的な瞬間を表わしたものだという。
 これによって、俳句は言葉によって現実の物事をキッカケに、人の内面の世界が開けるという精神性を獲得していくことになったという。それは現実を描写しているようで幻想を表わす、それが句集としてまとまったのが「奥の細道」だという。
 まるで、芭蕉はボードレールやマラルメではないか!!俳句は詩なのだという驚くべき指摘。
 このようにして、芭蕉の名句を読んでいくと、例えば、次のようになる。
「閑さや岩にしみいる蝉の声」
 『奥の細道』の中で、芭蕉一行が山形の山寺(立石寺)を訪ねた時の名句。ああ何という静けさだ。“何という静けさ。ふと気がつけば、この静寂の中で蝉の声のするのが、あたかも四囲の苔むした岩石の中へと沁み透ってゆくかのような気がする。あたりの静寂はいっそう深く、自分の心も澄み切って、自然の生命の中へと融けこんでゆくかのようだ”というのが解釈がスタンダードなのではないか。
 この解釈では、「閑さや」は静けさの中でということになる。そのような静寂の中で蝉の声が岩にしみいっている。ということになる。「古池や」の句では静けさを、静けさという言葉を使わずに読み手にイメージさせた芭蕉は、なぜ、この句では、冒頭に「閑さや」と強く言い切ったのだろうか。おそらく、芭蕉は、冒頭に敢えて強く「閑さや」という直接的な言葉を投げかけなければならなかった。というのは、普通に考えると静寂と蝉の声は相容れないからだ。この句は、“岩にしみいるように鳴く蝉の声を聞いていて天地の閑さに気づいた。”と言っているのではないか。その驚きこそが冒頭の「閑さや」という語に集約させる。この句の「岩にしみいる蝉の声」は芭蕉のまわりで今しきりに鳴いている現実の蝉の声であり、その他方で「閑さや」は芭蕉が心の耳を澄ませた大地の静寂だ。蝉の声と静けさという相容れないはずのものが、芭蕉の中では、蝉の声が芭蕉の「閑さや」という不易の心の世界を開かせた。そういう眩暈のするほどの、気の遠くなるような瞬間を凍り漬けのようにして取り出したものだ。ということになる。
 そうなると、芭蕉という人は詩人=幻視者なのか。でも、「古池や」の句もそうだけれど、芭蕉の句は短すぎて、そういう瞬間から、現実に戻って来る回路がない。あっちへいっちゃったままなのだ。
「夏草や兵どもが夢の跡」
 これも、『奥の細地』でもとくに有名な句のひとつ。“人気のないところに、今はただ夏草だけが生い茂るばかりだが、ここは、かつて義経主従や藤原一族の者たちが功名・栄華を夢見たところである。知るや知らずやこの夏草を眺めていると、すべてが一炊の夢と消えた哀れさに心が誘われる。” といったところが試験の回答にするような現代語訳。そうであれば、「夏草は兵どもが夢の跡」でもいいはず。「夏草や」としているのは、「夏草や」は芭蕉の目の前に広がっている現実の風景。これに対して「兵どもが夢の跡」は芭蕉の心の中の景色と、別の景色を見ているから。
 その中で「兵ども」には三つの解釈があるという。
 ①義経の臣下
 ②義経の臣下と、その他藤原氏の人々も含める
 ③表の意としては義経主従の戦死にかかっているが、芭蕉の胸中にはその間自然と藤原三代の栄華が夢の如くに滅びてしまったはかなさを思う気持ちがあった
 しかし、この句は「兵どもが夢の跡」であって「兵どもの跡」ではない。「兵どもの跡」であれば、義経主従を指すことは明白だ。もし、その「夢」には二つの意味があるという。ひとつは、「兵ども」が夢のようにはかなく消えてしまった、それがひとつ。もう一つは、「兵ども」が夢見たもの。実現しようと戦い、ついにはそのために命を落とした「夢」。その夢をみた「兵ども」とは誰か。それは義経主従はふさわしいか。それより、都を遠く離れたみちのくに黄金の王国を築こうとして破れた藤原氏、というよりみちのくの人々にこそ相応しいのではないか。「夢の跡」は理想の国の夢の跡ということにはならないか。「兵どもが夢の跡」は、一つの思い出に別の思い出に紛れ込むように義経主従の「兵ども」の「夢の跡」に藤原氏の「(栄華の)夢」が、さらにはみちのくの(もしかしたら芭蕉の)理想の国の「夢」が侵入した、重層的なものではないか。そこで、現実と夢が地続きになる。

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