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2018年7月17日 (火)

プラド美術館展~ベラスケスと絵画の栄光(8)─Ⅶ.宗教

Prado2018east  静物画のコーナーにはベラスケスの作品展示はありませんでしたが、ここでは最初にベラスケスの「東方三博士の礼拝」という作品です。キリストが誕生したときに、3人の博士が東方から贈り物を携えて祝福にやってきたという福音書のエピソードの場面です。ベラスケスの未だ若い頃に制作された作品とのことで、独特の粗い筆遣いは未だ現われておらず、隅々まで丁寧に描きこまれています。後年のダイナミックな動きを孕んだ生き生きとした画面に比べると、すこしノペッとした感じではあります。解説によれば、この作品はイエズス会の修道院のために描かれたものということで、“イエズス会の修道院は、初誓願を立てる精神の若い修練士が修道士としての適性を有しているかどうかを究明する施設である。そこでは日々、イエズス会の創始者である聖イグナティウス・ロヨラの提唱する「霊操」が実践されていた。聖なる出来事を、まるで今、眼前で起こっている現実の出来事であるかのように想像し、その現場に身を置いて、五感を用いて実体験することにより、霊益を修めることを目指していたのである。”と説明されています。その説明は、この作品の画面の説明にもなっているようです。つまり、この画面の人物たちは、キリストや聖母マリアをはじめとした聖人ばかりですが、ここで描かれているのは、聖人とて光彩を放つような理想化された姿ではなくて、市井のどこにでもいるような普通の人々の姿です。それだけな実在感があって、現実に当時の人々の目の前で起こっても不思議ではない場面として見ることができると思います。天使も飛んでいないし、輝かしい光輪も、そういう装飾的なものが排除したような画面の中で、その手前側、右上からPrado2018maino 左下への対角線上に配置された聖母マリアと幼いキリストと、その前で跪く若い男性が中心で、画面左上からの光を受けて、明るく輝く、白い服のキリストは見る者の注目を集めるようになっています。そして、画面左手のキリストに贈り物を捧げる博士たちの顔は影になっていて、作品タイトルが「東方三博士の礼拝」というのだから主役であるはずなのに、それを影にして、対比的にキリストに光がさしているのをコントラストで強調しています。そこに、カラヴァッジオのようなドラマが生まれています。しかし、若描きのゆえでしょうか、キリストの顔が後年の肖像画などに比べると生彩がないというかノッペリとした印象で、他の人々の顔も類型の範囲を出ていない感じがします。
 ファン・バウティスタ・マイーノの「聖霊降臨」という作品は、ベラスケスに比べると、装飾がたくさんあって、中心の女性の衣服は聖母マリアのシンボリックな姿(鮮やかな青とピンクの衣装など)でいかにも聖人という描き方です。しかも画面上部の中央にハトが飛んでいて、その上から光が降り注いでくるドラマチックな構図は、エル・グレコを想わせます。グレコに比べると人々の姿のデフォルメが少なくて、人間らしく描かれています。
Prado2018suru2  スルバランの「祝福する救世主」という作品です。ベラスケスの作品に比べて、さらに余計な装飾を取り払ったような作品です。背景はなにもなくてキリストが一人中央に立って右手を上げて祝福を施す仕草をしていて、左手は世界を表わす球体に乗せて、その球体の上部に立てられた十字架を背負うように脇に抱えている。これは「サルヴァトゥール・ムンディ」という中世のイコンの図像パターンだということです。しかし、スルバランのこの作品では、画面左から斜めに差し込む強烈な光が濃い陰影を生み出して、明暗のコントラストが画面全体に神秘的な雰囲気を生んでいます。ここではキリストの衣服の質感その日にやけて褪せてしまった色の表現、そして何よりもキリストの手のごつごつした手のとくに指先の肉感的な表現、日に焼けたような肌の色。それが、キリストのリアルな人としての実在感。それが、見ている人には、キリストと一対一で向き合っているような神秘的な体験をさせてしまうような作品であると思います。これは、並んで展示されていたグイド・レーニの「使徒大ヤコブ」とよく似ています。しかし、レーニの作品は迫力がある画面ですが、スルバランの作品に比べるとあざとく映ります。
 アロンソ・カーノの「天使に支えられる死せるキリPrado2018kano スト」という作品です。頭を垂れて、血の気をうせて土気色になってしまったキリストの死体の手前側の左手の甲の磔にされて釘を打たれた後からは鮮やかな赤い血が流れています。暗闇の中で、その姿と背後の天使だけが浮かび上がる、このポーズと幻想的な雰囲気が、19世紀末の象徴主義的な幻想絵画を想わせるところがありました。
 ルーベンスの「聖アンナのいる聖家族」という作品です。これまでのスペインの画家たちの作品とは、明らかに異質の作品で、見るからにルーベンスとしか言いようがない。中央の聖母マリアの成熟した女性の姿、しかし、可愛らしさが感じられる。こういう女性像はルーベンス以外の画家はなかなか描けないものです。そして、マリアに抱かれた裸のキリストの肉体のまるで大人の体を赤ん坊に当てはめたような豊饒に肉々しい様子。当時の豊かな市民のアットホームな家族の姿のように描かれているようですが、この人物たちの豊饒さは神々しいというか、ルーベンス独特の理想化された姿と言えると思います。こうなると、もはや光輪とか天使など描く必要がないと言わんばかりです。
 バルトロメ・エステバン・ムリーリョの「小鳥のいる聖家族」言う作品です。ムリーリョはベラスケスやスルバランに負けないピッグ・ネームで、数年前の三菱一号館美術館の「プラド美術館展」では大作「ロザリオの聖母」が展示されていたのに比べると、今回の展示はムリーリョの作品は、これ一点のみで残念でなりません。今回はベラスケスが中心なので、しかたがないのでしょうか。ムリーPrado2018mulillo リョもベラスケスと同じように、キリストも聖母マリアといった聖人たちを、普通の人々の姿で描いて、現実に当時の人々の目の前で起こっても不思議ではない実在感ある場面にしています。ムリーリョは、そういう点に加えて、この画面では幸福な家族の日常的なスナップショットのように、見る者にとって優しく親しみ易い雰囲気を作り出していました。これがベラスケスにないムリーリョの魅力であると思います。ベラスケスの荒々しくあるタッチが画面全体をダイナミックに躍動するような生き生きとしたところがあるのに対して、ムリーリョは、流麗なタッチと霞のかかったような柔らかい仕上げで、穏やかでくつろいだ印象を見る者に与えてくれます。ベラスケスが聖なる出来事を現実に目の前に起こったように再現しているのに対して、ムリーリョは、さらにそれをより身近なものとして表現しているといえるのではないかと思います。それだけに、ムリーリョの作品をもっと見たかったです。

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