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2018年7月10日 (火)

プラド美術館展~ベラスケスと絵画の栄光(2)─Ⅰ.芸術

Prado2018profile  ディエゴ・ベラスケスの「ファン・マルティネス・モンタニェースの肖像」という作品です。展示室に入って正面にイダルゴの「無原罪の聖母を描く父なる神」の迫力ある大画面が目に入ってきます。実際、この作品は派手なので作品の前には絶えず人が集まっていたようです。その向かい側に、(相対的に)ひっそりと展示されていたのがこの作品です。注意していないと見過ごしてしまうように、さりげなくそこに在りました。それほど目立たない、一見凡庸に感じられて通り過ぎてしまいそうな作品でした。私が立ち止まったのは、作品の力とか迫力ではなくて、展示ラベルにベラスケスの作品であることが明記されていたからに他なりません。向かい側の「無原罪の聖母を描く父なる神」に比べて素っ気ないほどシンプルで、色調は地味です。しかし、それでは隣に展示してあるジュゼペ・デ・リベCaravaggioemao ーラの「触覚」も同じようです。しかし、「触覚」は作品としての個性が分かる。例えばカラヴァッジォばりの光と影の激しいコントラストであるとか、厚塗りの絵の具であざといほど手の皺や顔の皺を克明に描いて、人物の老齢と人生の苦労を際立たせるように描いている。(私には、この作品は少しやりすぎでクサイ印象を受けるのですが、それはベラスケスの隣に展示されていて、比べて見てしまったかもしれません)それに対して、この「ファン・マルティネス・モンタニェースの肖像」の特徴とか個性をパッと見分けるのは難しい。それは、大仰な言い方をすれば絵画そのものとしか言えないからです。言ってみればスタンダードとして、これとの距離で作品の個性が測られる、そういった存在と言えてしまう。おそらく、それは後世になって、例えば21世紀に私が絵画を見る際に、絵画のリアルというのは、まさにこの作品のように描くことなのであるという、そういうものとて見えてしまっている。それゆえに、特徴とか個性といったものを見出すことが、私の側では難しくなって、その一種普遍的に映るのが無個性とか当たり前、つまり凡庸に映ってしまう。そういう作品として、私の目には映りました。
Prado2018profile2  作品としては30代半ばの初期のころで、まさに直球勝負といっていい作品で、人物を丁寧にきっちりと描きこんでいる作品です。もっと後の、細部を敢えて粗くして全体をみるとちゃんと絵になっているという描き方にはなっていません。背景が省略されて茶色の壁のようで、しかも人物は黒い衣装を着ているのにもかかわらず、画面全体は暗くなっていないのは不思議です。しかも、この衣装の黒が柔らかくて、光沢がある独特の色合いで、深みすら感じられます。この黒の色合いの眼の心地よさは、心を落ち着かせるものだと思います。その黒から対比的に浮き上がる白い手がへらをもっていて、その繊細な指先の描写にひきつけらてしまいます。この肖像のモデルは彫刻家だそうで、へらを握った手の先にはフェリペ4世の彫像の粘土像だそうですが、画面を見る限りでは、省略に近い描き方で、私は、それゆえに未完成の作品と思いました。しかし、背景が省略され、彫刻家の仕事をしているには他の道具もない、そして造っている塑像も中途半端にしか描いていないのは、制作している彫刻家の姿だけを取り出した、いわば抽象した作品。後世の解釈になるでしょうが、芸術家の姿だけを純粋に取り出して、肖像画という形に結晶させた作品と言えるかもしれません。ベラスケスの代表作である「ラス・メニーナス」では芸術家の姿を物語の一場面のように描いていますが(さすがに「ラス・メニーナス」は見ることはできませんでした)、それとは違った方向で芸術を描くことになった。そう解釈することが可能かもしれません。少し活躍年代はずれますが、ほぼ同じ時代に生きたフェルメールは芸術をテーマにした作品を残していますので、この時代には、そういうことを画家自身が考えるということがあったとのかもしれません。それが、このコーナーのテーマということになるのかもしれませんが。
Prado2018suru  フランシスコ・デ・スルバランの「磔刑のキリストと画家」という作品です。ベラスケスの「ファン・マルティネス・モンタニェースの肖像」と同じように背景はほとんどなくて、画家と磔にされたキリストの姿が向き合うように描かれているだけの抽象化された画面です。ベラスケスの場合にはリアリスティックなのに対して、このスルバランの作品は神秘主義的な雰囲気に包まれているように感じます。それが、スルバランの大きな特徴ではないかと思います。それは、ベラスケスに比べてもそうですし、並んで展示されていたアロンソ・カーノの「聖ベルナルドゥスと聖母」が似たような構図であって説明的な描写があって理解し易い画面でありながら、スルバランの作品にあるような超俗的で神秘的な印象は薄いのです。
スルバランの作品に戻りましょう。暗い背景に、光に照らされた磔刑のキリストが浮かび上がっていて、他方で闇に沈んだ背景には微かにゴルゴダの丘らしき稜線の影が見えます。手前には男がいて、胸に手を当てて、恭しくキリストの顔を見上げています。画面左上、つまりキリストの背後の上方から光が注いで、キリストを通して見上げる男性を照らし出していて、神秘的にキリストと男を結びつけている。そういう情景です。このキリストの描写は迫真のリアルさです。土気色の肌は、見上げている男性の血色のいい肌色とは対照的で死体であることを、そして、そこに光が当たって照らし出されたところが、下の男性の生き生きとした人間らしさとは違う照り映えを表わしている。さらに磔という無理な姿勢を強いられているのが筋肉の陰影が光で強調されるように浮き上がって、それが痛々しさとともに、苦痛に耐えるキリストの姿を強調しています。いわば非日常の姿、超俗的ということになるのか。それと対比するように右下の男性は日常的な人の姿です。それぞれの姿がリアルに対比されていて、それを対角線の関係に配置し、光がそれを繋いでいる。その二人以外のものは余計なものとして排除されて、二人の関係だけが純粋に抽出されるようになっている。そのためなのでしょうか、二人の距離と位置関係はリアルとは程遠い、近すぎるし大きさのバランスがおかしい。しかし、そのことが却って現実の場面ではなくて、抽象された現実でない空間として捉えられることになっていると言えると思います。

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