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2018年7月11日 (水)

プラド美術館展~ベラスケスと絵画の栄光(3)─Ⅱ.知識

Prado2018menipo_2  ベラスケスの「メニッポス」という作品です。この章立ての分類方法は、私にはその意味がわからないのですが、展示されている作品は知者とされている人を題材にした作品や、それらしい題名の作品が並んでいました。メニッポスは古代ギリシャの犬儒学派の哲学者だそうで、深刻なテーマを嘲笑の精神で論じ、とくにエピクロス主義とストア派を攻撃して楽しみ“メニッポス的風刺”と言われる著作で知られたといいます。しかし、この画面を見る限り、古代ギリシャの人という雰囲気はなく、何か哲学者らしい小道具も配されていなくて、外套を着た男性の肖像画、しかも、貴族のような身分の高い人の豪華な感じもなく、庶民の姿、つまり風俗画という風情です。背景は壁のようなのか、壁色を一面に塗っているだけ、右下の壺は、平面的で影のようです。ベラスケスという人は基本的に肖像画家であると展覧会の説明にあったように覚えていますが、この作品を見ていると人物だけを描きたかったということがよく分かります。もちろん、現代とはちがって画家は注文を受けて、その通りに制作しなければならなかったはずなので、どこまでが画家本人の意志なのは分かりませんが、何らかの寓意を込めて哲学者を部屋に飾ることを目的としていたはずです。しかるに、ベラスケスはうだつの上がらない男性の姿を描いているだけです。その姿の外套の黒は、最初に見た「ファン・マルティネス・モンタニェースの肖像」の黒とは明らかに違っていて、「ファン・マルティネス・モンタニェースの肖像」の黒にあった光沢はなくて、すこし煤けたような鈍い色です。鈍い色の背景と黒い外套に対して顔の肌色は対照がきわだって、スポットライトが当たっているように目立つし、視線は、そこに導かれます。つまり、この作品を見る人は、それ以外の背景とか小道具とかに注意を注ぐことなく、視線を顔に集中するように画面が作られている。そこでは、ベラスケスは顔に重心をおいているのが分かります。これは、見方によっては近代的なリアルな人間の描写であるという見方もあるといいます。古代ギリシャの哲学者という舞台装置や小道具を輝かしく画面に入れ込んで、それらによって飾り立てるのではなくて、その人物だけを描写して、その人物の迫真的な描写によって哲学者であることを、近代的な主体の考え方で、表現しようとしている、という見方です。しかし、この作品の人物の顔の描き方については、「ファン・マルティネス・モンタニェースの肖像」のときのように丁寧に細かく描きこんでいるわけではなくて、画面に近寄って観察してみると描き方は粗いです。それが離れてみると生き生きと人物が描かれているように見えてしまう。それが、ベラスケスの大きな特徴といえるでしょう。だから、人物を一個の主体として内面まで表現するというのは違うと思います。この作品は宮殿かどこかの壁に飾られるので、鑑賞されるというのではなくて、部屋のインテリアとして、眺められるという性質のものでしよう。だから、それらしく見えればいいということで、見えるということを考慮して描かれている。それが、さきに述べた、この画家の特徴となっているということなのではないかと思います。それが、実際に、この作品のような哲学者を描いた作品では、どのような効果をあけているのか、それは、展覧会でも解説されていましたが、私にはよく分かりません。正直なところ。ただ言えることは、題名とかあまり考えないで、ひとりの男性を描いた作品として、際立った特徴とか個性とかを感じることはないのですが、絵になっているという作品ではないかと思います。
 むしろ、近代主義的な主体的な人物を表現しようとしている意図があるのは、この展覧会でベラスケスに次いで目玉となっているジュゼベ・デ・リベーラの「ヘラクレイトス」の方ではないかと思います。この作品では、書斎で執筆している哲学者の姿のようで、それらしい雰囲気を作っていますが、その人物の顔が、賢明であるように造っている。しかも、その顔にスポットライトを当てています。バロック絵画の光と影の演出で、その姿を強調していますが、その中心は人物の知者として迫真をもって描こうとしているのは通じます。しかし、私は、あざとさを感じてしまうのですが。
 おそらく、その前段階としてアントニオ・デ・ペレーダの「聖ヒエロニムス」は、伝統的な構図にアトリビュート満載で、それらが細かく描きこまれて、文字のない言語としての機能を満たしていながら、絵画として自立しようと描き込まれた。そんな作品のように感じられます。このヒエロニムスの描き方もマンガのキャラクターのような定番の形を踏まえて、そこにカラバッジョばりの光と影の演出を施している。この3つの作品を逆に辿っていくと、徐々に人間だけが抽出されて、それにつれて人間の表現が変わっていく様を追いかけることができるように思えます。しかも、細かい描写から、ベラスケスの粗いといえる描き方まで描法も変化していったのが手に取るように分かる。
Prado2018bulugel  ヤン・ブリューゲル(父)他の画家による「視覚と嗅覚」という作品。これまでとは傾向が全く変わった、構成によって意味を表わす作品。いろいろなメタファーがあって、その意味を解読する楽しみがあるのと思います(例えば、このブログなどで)。この会場では、大きな画面でひとつの空間を表現しているというのと、例えば陳列されている絵画が本当に一枚の絵画のように詳細に写実的に描写されている、その描写に圧倒されるように、そのひとつひとつの陳列された絵画を鑑賞するのも面白い。そういう大きな画面の細部を重箱の隅をほじくり返すようにして見つけて楽しむことができます。この画中の絵画に描かれたものと、この絵画の画面が同じような精度と迫真さで描かれているため、陳列されている絵画の世界と、この画面の世界が同じような存在感になっているようで、これだけ明瞭に描かれているのに、現実が曖昧になっていくというのか、陳列されている絵画に描かれている世界と並んでいて、それらのワン・オブ・ゼムになってしまうかのような錯覚にとらわれ。それが見る者にもどって、現実の存在のはかなさをとして帰ってくるようです。その他、とくに、画面左下の花瓶に生けられたり、テーブルの散乱する花の鮮やかで細かい描写は、おそらくブリューゲルの得意中の得意で、それだけを見ていても飽きることがありません。

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