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2018年8月16日 (木)

生誕150年 横山大観展(2)~第1章「明治」の大観

Yokoyama2018kutugen 会場に入って、まず人集りがしていたのが「屈原」という作品です。たしか、高校の教科書で見た覚えがあります。それだけ有名な作品だろうと思います。この作品にまつわるエピソードはいろんなところで語られて、それが作品にものがたりの衣装を着せて作品に付加価値を何重にも纏い付かせているようですので、そういう物語はここでは切り捨てることにします。だいたい、日本画ってそうなのですが、人物が個人としてまともに描けている作品がほとんどない(だから悪いというのではありませんか、あしからず)。横山も例外ではなくて、というよりも典型で、この人の描いているのは人間に見えない、というと言いすぎかもしれませんが、その中で、この作品は、とりあえずまともに見ることができるという作品、ただし、それじゃあ感心させられてしまうほどかという、そこまでいえない(いったい何様のつもりなのでしょうかね)。例えば、この人のポーズがチグハグで、プロポーションのバランスが取れていないような感じ、しかも、表情がノッペリしていて能面みたい。だから、作品にまつわるエピソードで先入観でも持たないと、この人が怒っているかどうかは判然としない。あるいは、まわり道具をつかって喩えで匂わす、例えば、そんな印象です。荒れ狂う風は屈原の悲愴な内面感情を、風にざわめく叢の陰に隠れる鴆には讒佞を、背後から屈原を上目使いに見る燕雀には小心さを象徴させた。屈原は右手に蘭を持つが、屈原に蘭を組み合わせる、蘭はほかならぬ屈原自身が『楚辞』のなかで高潔な君子の誓えとして詠み、以来蘭は屈原の高潔な気性をあらわす象徴物とみなされるようになったから、といったような。そんな回りくどいことするなら、当の人物をそれが分かるように描けよ、と思うのですが、おそらくそれが描けるひとではなYokoyama2018still い。というより描き方が分からなかった。結局、このことは最後まで分からなかったようですが。何かボロクソに貶しているようですが、そんなものよりも、この作品では、画面右下の緑色の草の葉が全体の色調が不釣合いなほど浮いていて、描き方も咬み合っていない、そういう波乱要素が画面の中で過剰なものとして、それを作品の中に入れて、まとまりが崩れても、それで通してしまう、そういうところに横山の作品の特徴が感じられると思ったからです。そういう風に見ると、画面の中心は人物ではなくて、右隅の草なのです。屈原は、そのための引き立てYokoyama2018evening 役にすぎません。
 「寂静」という作品です。有名な朦朧体があらわれはじめて全体に霧がかかったような雰囲気ですが、画面上部の竹林の竹が線画なのでしょうが、刷毛で引いたような太い線で少し異様な感じがします、それが突出していて、その上の葉が乱雑に塗りたくったような、竹の葉を一枚一枚描いていくのでなくモヤモヤした塊のように描いています。それが見ていてへんな感じ、違和感を与えます。しかも、下部の水辺の蓮が、全体的なモヤモヤの中で、ハッキリと輪郭が目だって、しかも塗り絵をベタ塗りするように描かれています。大きさの点でも蓮は突出して目だっていますし、ぜんたいのバランスを失してハッキリ描かれています。まるで、アンリ・ルソーの幻想的な植物風景を想わせます。タイトル「寂静」とは、全く似つかわしくない画面で、それを臆面もなく通してしまう。そして見る者に違和感を敢えて与えるように描く(そうとしか思えないところがあるからです)。ある種のアバンギャルドなところ、そういうところが横山の作品の特徴なのではないかと思います。ただ、それは、横山が理念をイデオロギーのようにもっていて、それを画面で主張したというのではないと思います。むしろ、配慮して画面をまとめるのが面倒くさいといったような批評性を本質的に欠いている、そこが却って魅力となって画面に表われてくる。この作品には、その萌芽が見られるのではないかと思います。
 「夏日四題のうち 黄昏」という作品です。これまで見てきた作品のようなチマチマした作品を描く一方で、小品ながら、このようなスケール感のある風景をあっさりと描いてしまうところ。この人は筋を通すとかいったところがないのか、と思ってしまう無節操なところが横山の作風と言えるのかもしれません。画面真ん中あたりに小さく鳥の飛んでいる姿が細かくハッキリとした輪郭で描き込まれています。それが小さいのですが、強調されるように目立ちます。それが、朦朧体で大雑把に描かれた森林のさまと対照的になっています。それが、風景の大きさを引き立てるようにスケール感を作Yokoyama2018bokudou り出しています。この作品を見ていると、朦朧体というのが、技法というよりも、ある種の手抜きというのか、丁寧に細かく描き込むことをしなくて、それが却ってスケール感を生んでしまった。そういう感じです。しかし。この作品の時点では朦朧体がひとり歩きして、技法のための技法になっていまで、画面にスケール感を作り出していると思います。
 「月下牧童」という作品も同じように、画面上方の遠景で群れをなして飛ぶ鳥を黒い点のようにして描いて、画面下の手前の最前景では草むらに咲く花を白い点のように描いて、遠景の黒い点と前景の白い点を対照的に対比させています。その間の牧童がいる中景は前景、遠景との境目がなくて、その境目をぼかすようにして小さい画面の中に収めるのに朦朧なもやもやが機能している。さらに、黒と白の点と、そのもやもやが対比されていて、それぞれの小ささと大きさが強調されるようになっている。その結果、巧まずして小さな画面に大きな広がりがイメージされるようになっている。
 「杜鵑」という作品。ホトトギス一羽を、爽やかな初夏の新緑を舞う鳥としてではなく、深山を飛翔する孤高の鳥として描いている。ホトトギスを小さく描いたがゆえに、まるでその鳴き声が山に響き渡るかのように広く空間を獲得している。ほとんど点のように小さく描かれた鳥(ホトトギス)は風景の一点で、この小ささならば鳥という生命の存在を描き込む必要はなくなります。その意味で、横山の苦手なところを巧みに回避した戦略的な構成と思います。しかも、空に舞う鳥ということで余白を取ることができて平面的な画面構成が許されることになります。とは言っても、下方の木々の描き方がいかにも平面的で、図案化が中途半端です。しかも遠くの霞んだ木々と同じようにもやのように描かれています。ただし、このもやもやが、その森の奥の空にかかる雲のもやもやと連動しているので、そのもやもやが画面にリズムをYokoyamatori 生んでいるのも確かです。ここでは、朦朧体のもやもやが動きや画面を構成するところまで機能するものとなっていますが、惜しむらくは横山が論理的に画面を構築することに意欲的でなく、それを突き詰めようとしていないようで、中途半端に出たとこ勝負になっている点です。
 それが「帰帆」という作品では、もやもやが画面に一様に覆ってしまって、靄にかすんだ船の帆と月が中空に浮かんでいるような、バルザックの「知られざる傑作」の「美しき諍い女」のような何が描かれているのか分からないような作品になりそうな作品です。横山という人は、近代人のもっている批評性をあまり、持ち合わせていなかったでしょうか。描いてしまったら、えいやっと売ってしまうか、発表してしまうというような、しかし、それが横山という画家の特徴で、それは、同僚の菱田春草のような人との大きな違いではないかと思います。
 「彗星」という作品です。薄墨で描いた夜空に、胡粉で彗星の核を、墨の塗り残しで彗星の尾を表現したといいます。「帰帆」と同じような朦朧で画面をいっぱいにしても、取り上げる題材によっては、うまくハマッて、こちらは見れる作品になっています。掛け軸の小さな画面の大部分を夜空にとっていて、月や星々では、それだけではもの足りないだろうし、雲では過剰なところがあって、彗星が尾を引いた様というのは、その意味では、ちょうど空の大きさを引き立たせて、画面に当てはまる格好の題材となったということでしょうか。
 そして「山路」という作品です。これは正直に言えば、汚い。乱雑に、絵の具をベタベタ塗りたくったような印象の作品です。“発表当時、西洋の印象派と南画の融合と評されたタッチを多用することで、明治30年代に大観らが試みた朦朧体を脱し、大正期に流行した〝新南画〟の先駆けとなったといわれる重要な作品です。”とのことですが、それにしても、単なる実験とか、試みであれば、試すだけ試して、それで廃棄してお終いでいいと思うのですが。ただ、これは大正期に横山が色彩豊かな豪華絢爛な作品を生んでいく前触れのような作品のように、私には思えるので、あえて、ここで取り上げてみました。
Yokoyama2018suisei Yokoyama2018yamaji

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コメント

こんにちは。横山大観の絵で印象に残っているのが紅葉の絵ですね。赤い紅葉と青のコントラストが今も忘れられないでね。作風は強くて迷いがないイメージ。小学生の時に見て大好きになりました。

poemさん、こんにちは。横山大観という人は、ワビサビとか渋味とかいうイメージを裏切って、色気違いみたいに無邪気に絵具を塗りたくったバロックな画家と思ってます。大正期の作品に、森を題材にアンリ・ルソーみたいな色がぶつかり合う作品なんかが、らしいと思います。

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