浜田知明100年のまなざし展~戦争を経て、人間を見つめる(3)~2.社会へのまなざし 「見えない戦争」を描く 1956~1973年


そういう浜田が人間を描こうとすると肖像として、その姿に個人の内面が表れるとか、感情移入するといったものではなくなります。喩えていうと、タ
モリという現在では司会者として通っていますが、昔はキワモノ芸人のようなことをやっていて、その中で物真似もやっていて、彼のレパートリーの中に三遊亭円生があって、これが絶品だったのですが、彼の真似る円生は落語家独特の話し方が身についてしまって、それをまるで田舎の方言とかなまりのように、標準的なふつうの話し方ができないことを皮肉るようにして演じていたのでした。そこに風刺的な笑いが生まれていたわけです。浜田の描く人間というのは、これと似たようなパターンになっているのではないかと思います。「副校長D氏像」という作品を見てみましょう。浜田自身の言葉を借りながら追いかけていくと、副校長D氏は「長年月、生徒を前にして固い話ばかりしてきた」せいで「心までも四角四面になってしまった」。「眼は複眼の如く、キョロキョロとす早く動く。」そのくせ酒を飲むと「わいせつな言葉を吐いて、周囲の人達のヒンシュクをかう」…。ここで浜田が語っているD氏のイメージは、連想であり、象徴化の操作によって表されたものです。話の「固さ」は、「丸くはない」角張ったものとして連想、変換され、戸棚のような頭が描かれます。並んだ数字も、数でしか物事を判断できない頭の固さを表していると言えます。複眼のような眼つきは文字通り複数化されて描かれ、固い様子の陰に隠されたわいせつさは、閉まった扉のむこう、引き上げられた布のむこう側からのぞく女性のヌードとして表現されています。



「愛の歌」という作品は荒野に草が生えていて二つの葉が出ていて、それが唇の形をしている。その二つの唇が恋人のシンボライズということなのでしょうか。この唇を顔から切り離して取り出した作品として、他に「噂」という作品があります。これは室内の空間に無数の唇が浮かんでいる。これは、そこいらで噂を囁いていることをシンボリックに表わしたものでしょうか。この二つの作品は唇という記号的な形の反復と場面への当てはめ方で、画面をつくっています。私には、浜田という作家にとって制作するということは、この作品で言えば唇というような記号的な形を使って、何かの対象を描写するというのではなくて、自身で世界を創造するように白く四角い紙の上に画面を創るということではなかったのかと思います。ただし、その創ろうとした画面というのは純粋な視覚的なイメージではなくて、
言葉によるイメージや物語、しかも、既成のものを組み合わせて異化させたようなものを視覚化していくというものだったように思います。それは、浜田という人のイメージの限界とも、そういうパターンだったとも言えるのかもしれませんが。それが作品を見る人々に受け入れられる、あるいは共有とか共感ということを考慮すると、メッセージとか風刺といったことが見る人との間を繋げるのに都合がよかった。最初に引用した主催者の挨拶の中に“ユーモラスな諷刺”という形容がありますが、ここで展示されている作品にも、そういう要素が見られるものもあります。これは、そういう事情の中で考えると、私には納得し易い。例えば江戸中期以降の浮世絵が記号のように人の顔を描くことを追求して、写楽や歌麿のようなデフォルメをエスカレートさせていったのと同じようなものに思えます。ユーモラスと言うのは、
作品を見る人の側で、浜田はデフォルメのパターンを突き詰めたり、繰り返し使ったりということを作品で行っていたということではないかと思います。これは、浜田がそういう姿勢だったというのではなくて、作品の画面を見ていて、私が見やすくなるために考えたストーリーで、私なりのこれらの作品の論理として引っ張り出したものです。


また、浜田の銅版画の特徴として、この後の方のコーナーで同時代の他の銅版画家の作品が展示されていましたが、それらと比べると彼の鋭い線が目だってきます。その特徴的な、鋭い線と、その線による細かな表現及び明暗の深さというのが、この時期の作品でピークに達していたように見えます。この後の展示では、時間的に遅い時期で、本人が高齢となって体力的な衰えから、この時期の鋭さや細かさを維持できなくなっていったように見えます。「晩年(B)」という作品です。この右手の人の形の内部の描き方や点描のような背景は銅版にニードル(針)を引っ掛けるようにして鋭い線を引き、細かい作業を気の遠くなるほど繰り返すことで制作していったのではないかと思います。おそらく、ヨーロッパの「同じ面積でなら、できるだけ細かい部分まで再現する正確な複製像の方が必ず勝ち抜く」という細密な銅版画に接して、『わたくしのヨーロッパ印象記』などで、もともとの彼自身の方向性をさ
らに推し進めて細密な描写を行っていました。それが、彼自身のものして消化された結果表われた作品の一つではないかと思います。ヨーロッパの銅版画は細密描写は、もともと版画が複製だとか写実的なものであったことから要請されてできたものだったのに対して、浜田の作品は、写実とは無関係にデフォルメされた形に鋭い線や細密な描写が為されている、ちょっとしたアンバランスなところに特徴があると思います。そのアンバランスさがギクシャクした印象を見る者に与えて、それが画面へのひっかかりをつくっている。それが特徴的に表われた作品のひとつではないかと思います。

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