無料ブログはココログ

« 生誕150年 横山大観展(2)~第1章「明治」の大観 | トップページ | 生誕150年 横山大観展(4)~第3章「昭和」の大観 »

2018年8月17日 (金)

生誕150年 横山大観展(3)~第2章「大正」の大観

Yokoyama2018namiki_2  「夏並木」という作品です。この作品は朦朧体のもやもやした画面は影を潜めて、それとは正反対の松の幹の表面の樹皮を太い線で、幹の輪郭よりも目立つように描いています。松の葉の繁っている様子ももやもやでなくて、輪郭をくっきりひいて塗り絵するようにのっぺり絵の具で彩色しています。掛け軸の小さな画面から描写が溢れ出してきそうな、朦朧体の作品の線のない画面とは正反対の線が過剰になって、詰め込んだ感じもしなくもない画面です。これは、また、朦朧体のときとは逆の意味で、奥行きを画面に感じさせない、空間の一部を切り取ってきたような場面です。そこから線が溢れ出るような描き方で、松の木の大きさが小さな画面で感じられるようです。しかし、それ以上に、この作品では、松の幹の模様のようになっている表面樹皮が割れたものが幹の上で反復するように描かれているということです。パターンの繰り返しになっているということです。松の葉を細かく描きこんでいるのも同じように繰り返しと見ることができます。これは、前のコーナーで見た作品とは180度方向転換したように見えます。ただし、横山という人は統一性とかそういうことはあまりこだわらないひとなのかもしれず、同時期に「瀟湘八景」のような朦朧体をつかった作品も制作しているのですから。
Yokoyama2018fire_2  「焚火」という三幅の屏風です。左右の人物は問題外なので無視して、中央の焚き火の部分です。燃やされている落ち葉が、同じパターンをコピーアンドペーストしたように繰り返しで描かれているようで、その上部の炎についても、くねくねした赤い色のパターンを反復させているようです。しかも、塗りはベタ塗りのようにグラデーションがなくて、貼り絵のようです。落ち葉は黒と茶色の2パターンで、これは葉の裏表の色分けなのかもしれませんが、その色のパターンは、左右に立っている人物の衣装の2色と同じです。このような細かいものを反復させて、画面を構成させる。また、これは屏風で金箔を貼った地に描いているので、背景を描く必要がなくて、画面に空間を構成させる必要がないので、奥行きとか平面的になるとかをあまり考えずに済むだろうから、パターンの反復をやり易かったのかもしれません。この大正期の作品展示では、屏風が増えてくるのですが、それが要因しているのでしょうか、平面的な画面にパターンの反復で構成するような作品が目立ってきます。
Yokoyamashushoku_2  「秋色」という作品は、そういうパターンの作品のひとつのピークをなしているのではないかと思います。以前の横浜美術館の展覧会でも見ているはずなのですが、今回の展示を見ていて、この作品が一番印象に残りました。とくに、鹿のいない右側の葉が画面を多い尽くしているような方がとくにすごい。写実とか構成とか空間とかいったことを無視するように、大量の葉っぱが執拗に描きこまれています。しかも、「秋色」という題名で、つる草の葉っぱであるだろうに、紅葉した色とりどりというのではなくて、紅葉している途中の、あまりきれいでない葉を描いています。それが生々しさをもった迫力を生んでいます。横山は、このような葉っぱを描いたのは、紅葉してしまったのであれば、赤とか黄色といった単色で葉を描かなくてはならないのに対して、このような途中であれば、緑から赤や黄色に変化していくので、それYokoyama2018fuji_2 ぞれの色や途中の色を使うことができるので、たくさん色を使えてバリエィションを多彩に派手にできるからかもしれません。しかも、その多彩な色が鮮やかな原色をそのまま使っているような感じで、感じ方によっては毒々しいほど、攻撃的なのです。この色彩だけでも強く印象に残るのです。色彩の氾濫というのか、フォービズムの作品に触れたような印象なのです。とても秋という季節の葉っぱが紅葉して枯れていくという、寂しげとか、そういうニュアンスは全くありません。秋の紅葉という題材は、赤や黄色といった原色を屏風に氾濫させるために便宜的に選んだと言った方が、この作品にはふさわしいと思えるほどです。また、この作品に琳派の影響を説明されているようですが、琳派のグラフィックデザインのようなスッキリしたシャープさや彩色の均一なところは、この作品にはありません。琳派の装飾的なところは隅々まで計算されたデザインのようですが、この作品の過剰な色彩によって感じられる、毒々しさとか異様さは琳派ではありえないものです。端的に言えば、ブッ飛んでいる、ハジけている、そういう作品です。私は、横山の作品の中で、このようなブッ飛んだものが、だいたいのこの作品と相前後して描かれた何点かの作品が、個人的には一番好きです。見ていて、ワクワクしてくるのです。
 「群青富士」という作品も、「秋色」とほぼ同じ頃に制作されました。金泥地の上に、やや俯瞰的に、湧き立つ白い雲(中景)を両隻にわたって流し、左隻に繁茂する樹叢(近景)を、そして右隻にその頂にまだ数条の雪を残す富士(遠景)を描いた作品ということです。絵画というよりは、グラフィック・デザインに近い、ポップに図案化された作品。とくに富士山はリアルには山になっていなくて、青に近い群青色の凸型の図案です。白い雲の半円の反復の中に、緑の半円が同じリズムで富士の外輪山の頂上が顔を出しているということなのでしょう。この反復はポップアートと言ってもいいかもしれません。「秋色」と同じ時期に描かれたとは、とても思えない異なった方向にブッ飛んでいる作品です。この屏風を改まった席で、もっともらしく飾られていたら、思わず笑っちゃいます。「霊峰十趣」の連作も同じようにポップな作品です。
Yokoyama2018kaki1  「柿紅葉」という作品です。右側の緑色から赤に徐々に色が変化していく様子を描いたといえると思います。緑色が青々と新緑で繁っているような清新な鮮やかさを出しているのに対して、赤は鮮やかでなくて少し毒々しい印象の色になっています。赤く紅葉した葉、赤が滲んでくるような描き方で、まるで腐食しているような感じさえ受けます。葉っぱが紅葉した木の幹は青い苔が取り付いているようで、他の幹にはついていません。そこに何か病的な感じといいますか。また、中には幹が赤くなっている木がいくつかあって、それも病的な異様さが感じられます。さらに、画面全体は、遠近とか、それぞれの木々の大きさのバランスがわからず、これらの木々がどのように生えているのか、全く考慮されていないのか、全体の空間を想像しようとすると目眩がしてきます。それほど空間としては支離滅裂です。この作品については、画面を言葉で記述しようとするとネガティブな言葉しかでてこないのです。それYokoyama2018kaki2 が凄いというのか、敢えて現代の言葉で言えば、パンクな作品で、大正時代に、よくそんな発想があったと感心するほどです(もとより横山当人は、意図的にやっているとは到底思えませんが)。
 第二会場で「生々流転」という長大な水墨画の巻物の作品が展示されていました。よろしいんじゃないでしょうか。巻物を広げた長い展示のウィンドウの前に鑑賞する人々がズラッと並んでいるのを見ているのが面白かったです。その意味で、これもブッ飛んだ作品の一つに入るのでしょうか。
Yokoyama2018snow  このコーナーの最後に「雪旦」という作品。薄闇の残る中に白い椿の花が。雀が一羽とまる。綿のような花びら。そして、立体感があって陰影まで丁寧に描き込まれた葉。この人も、ちゃんとした“らしい”日本画を描けるということが分かりました。やればできる人なのだということでしょうか。しかし、このような作品は少ない。従って、横山は、このような作品を描こうとしなかったということなのでしょうか。それよりも、上述のようなブッ飛んだ作品を描いていたということになります。その理由は分かりませんが、この「雪旦」という作品。たしかに、「やればできるじゃん」と言ってあげたくなりますが、この作品だけを取り出して眺めると「だからどうした?」と訊きたくなる作品でもあるのです。もっとハッキリ言うと「何が面白いの?」ということです。

« 生誕150年 横山大観展(2)~第1章「明治」の大観 | トップページ | 生誕150年 横山大観展(4)~第3章「昭和」の大観 »

美術展」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/564097/67067172

この記事へのトラックバック一覧です: 生誕150年 横山大観展(3)~第2章「大正」の大観:

« 生誕150年 横山大観展(2)~第1章「明治」の大観 | トップページ | 生誕150年 横山大観展(4)~第3章「昭和」の大観 »