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2018年9月23日 (日)

小津安二郎監督『宗方姉妹』の感想

111  小津安二郎が監督した「晩春」以降の作品は小津調とよばれ、「晩春」で小津調が生まれ「東京物語」で完成したと、一般的には言われているようだが、私には「晩春」「麦秋」に対して「東京物語」は異質に感じられていた。全然違うじゃないか、と思っていた。それが「宗方姉妹」を見て、その間がつながったような気がした。小津の作品には
  晩春─麦秋
 (風の中の牝雞─)宗方姉妹─東京物語
という二つに性格分けできる作品の系統付けができるのではないか。小津調というと、ロー・ポジションでとること、カメラを固定してショット内の構図を変えないこと、人物を相似形に画面内に配置すること、人物がカメラに向かってしゃべること、クローズ・アップを用いず、きまったサイズのみでとること、常に標準レンズを用いること、ワイプなどの映画の技法的なものを排すること、といったことが具体的に挙げられが、これらが、上記に作品に、すべて見られる。しかし、そのあらわれが異なって見える。「東京物語」では、その小津調がスタティックなのだ。スタイルがすでにあって、それに従って作品が作られている。つまりスタイルをなぞっているように見えるところがある。例えば移動撮影。田中絹代と高根秀子の姉妹が薬師寺を訪れたシーンで、寺の風景を横にためるように移動するカメラが映しだす。それは、「東京物語」と行き場を失くした老夫婦が上野で途方にくれて佇むシーンで、寛永寺の塀を移動で映したのを思い出した。固定ショットで画面をつくる小津の作品ではカメラが移動するのはただ事ではない、何かあったのでは見る者の心をざわめかせる。それが証拠に「晩春」では、心にもやもやを抱えた原節子をカメラが追いかけて移動するだけで、画面は不安を掻き立て、それが的中するように原節子は走り出し、感情を高ぶらせる。しかし、「宗方姉妹」の薬師寺のシーンでは何も起こらない。心のざわめきは宙ぶらりんになってしまう。「晩春」や「麦秋」では、そういう個々の小さなシーンが、それぞれ意味をもつように、物語を生んでいく。婚期の遅れた娘を愛しながら心配する父親とのやりとりというストーリーはあっても、小さな物語が遠心的に生じて作品に豊かな広がりをつくっていく。これに対して「東京物語」もそうなのだが、「宗方姉妹」では田中絹代演じる節子とかつての恋人宏と夫の三村の三角関係と、それを妹の高嶺秀子演じる満里子が絡んでくる。そのストーリーが中心となって、ドラマをつくる。いわゆる、小津調は、そのストーリーをうまく表わす手段となっている。そこでの俳優の演技はストーリーを内面化した心情を表わすロマンチックな、いわゆる役になりきるような演技だった。他の小津の作品では、あまり見られないストーレートに愛を相手に告白するところや、恋人どうしを一つの場面で向い合せることまでしている。これに対して、節子と三村の心が離れてしまった夫婦は同じひとつのシーンで向き合っても、部屋の奥と手前で、すれ違うようにしながら、画面はまよこからの場面として、表面的には向き合っているが、実はすれ違っているところを暗示している。小津というよりは、成瀬巳喜男の俳優の演出を想わせる。それは、作品の冒頭のところの節子の登場シーン。大学の研究室でソファーに座った後姿で登場して、教授が部屋に入ってくると、節子が振り返って、顔を見せる。まるで、成瀬の印象的な振り向きのようだ。これに対して「麦秋」では「宗方姉妹」にある激しい感情をあらわすような演技は見られず、画面の中に俳優がいて、その全体がシーンをつくって物語を生んでいく外面の関係が心情を見るものに想像させるようなのだ。だから、「宗方姉妹」も「東京物語」にも悲劇的な要素を多く持っている。笠智衆は癌で余命が短い設定だし、節子が三村と別れることを決心した時に、当の三村は心臓麻痺で死んでしまう。節子は、そういう死の影に囚われて終わる。初めの方で、姉妹が薬師寺を訪ねて、東塔を臨んで二人で並んで腰掛けるシーンがあって、そこでは姉妹は別々に立ち上がって歩き始めるが同じ方向に合流する。一方、最後近くで、同じ薬師寺で、同じように節子と宏が腰掛け、連れだって立ち上がるが、ここで節子は宏に別れを告げる。同じシチュエーションで初めと終わりで対比するように変化させる。これによって、節子と宏の別れの印象を強める。これは、「東京物語」で最初と東山千栄子の葬儀のあとで尾道のフェリーの乗り場で、朝の通勤風景と、人けのない風景を対比的に見せる。同じ手法をつかっている。これに対して「晩春」も「麦秋」もスタートから死による欠落を抱えているが、そういう初めと終わりの変化を対比的に見せるようなことをしていない。小さなシーンを繰り返して、そういう大きな変化はなくて、ずっと続くというのを淡々として見せて、小さな変化が少しずつ起こっていくところに淡い諦念というか、あっけらかんとしたような明るさを感じさせるようになっている。
 おそらく、この作品では新東宝という他社で、気心の知れた小津調を一緒に作ってきた小津組でないスタッフと小津調の画面をつくるために、突き放して、客観化した決まった形のスタイルとして認識したのではないか。画面をつくることがストーリーを生むことはできないので、物語の筋を中心的な柱として、作品を構成させた。その結果、「東京物語」に通じるような一貫したストーリーが、見る者には分かりやすいもの、シンプルで感情移入しやすくなる結果となった。

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