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2018年9月29日 (土)

日常生活|相笠昌義のまなざし(3)

Aigasacross  「交差点にて、あるく人」という2007年頃の作品。人の数は格段に増えましたが、画面の構成は「日常生活:公園にて」と同じです。背景は、公園の立木を取り払って、横断歩道の縞を地面に付けたくらいしか違いません。人々が無秩序に横並びになっているのも同じです。ただ、人の数が増えたので、場所が「日常生活:公園にて」のようなガランとしたところが薄れているので、ストレートに空虚さを感じられなくなっています。しかし、本質的なところは変わっていないと思います。つまり、「交差点にて、あるく人」は描かれている人の数が多くなっているだけで、空虚であることに変わりはない。それは、描かれている沢山の人々に存在感とかリアルさがないからです。たとえば、かの画面の一番手前でショルダーバックを肩にかけて背中をこちらに向けている人の物語を想像してみようなどということは考えられません。したがって、この風景に叙情性とかペーソスとかいった感情移入を拒むところがある。しかし、翻ってみれば、それが、私たちが、普段、こういう場面にいて、そこで見ている視線そのものなのではないか。こういう風景に目を向けているけれど、実はそこに何もみていない、いってみればその視線は空虚なものです。この作品を、それを敢えて、私たちの前に、そういうものであるということを、そこに安易な価値判断とか評価をまじえることなく(それがロングショットの突き放したような距離感です)、丁寧に提示してくれている。屈折しているかもしれませんが、そういうところに、衒いもなく親しみを感じることができると思います。
Aigasacherry  「お花見」という作品は大作ですが、このような作品でも、沢山の花見客を一人一人丁寧に見るという見方もありますが、全体を通り過ぎる車窓の風景のようにぼんやりと、見るとはなしに視線を向けて、ぼうっとする。そういう無関心さが、似つかわしいのではないかと、私の個人的な感想ですが、そう思います。ここでは、絵画を鑑賞するということとは違った見方を教えられたような気がします。作者は、そのようなことを意識しているわけではないかもしれませんが、ただ、ここには画家が対象を見て、それを描くというとは違った距離感のようなものを感じます。つまり、画家がこのお花見の風景を描こうとすれば、描きたいところを視野からピックアップして対象化して、それをターゲットにように視線を絞って、そこから距離をおいて見ることに集中する。観察し、凝視するという。そこから、特徴を取り出したり、描くための核心的なものを見つけたりするということでしょうか。そのためには、見方の技法があって、画家はそれらを駆使している。しかし、私たちが、日常生活で、目を開けているときに、画家が対象を見るようなことをしていないのです。そこに、絵画を描く際に見るということと、私たちが、そういう意味では見るとはいえない、単に目を開けていることとは質的に異なります。そのギャップによって、私たちは絵画を見ることで、実際のそこに立ったことがあった風景でも、発見することができるし、認識できなかったものを見出すことができるわけです。しかし、相笠の作品を見ていると、そういうような絵画というものの、見る者に対する押し付けがましさのようなものを敢えてさけて、私たちの普段のぼうっとして見ているようで見ていない目に同調しようとしている、あるいは歩み寄ろうとしているように思えてきます。そんなこと言っても、例えば、この作品でも、一見写真のように写実的で、だれでもお花見の風景と分かる仮面を細かく丁寧に描き込んであるではないかと思うでしょう。たしかにそうなのですが、このお花見の風景もそうだし、相笠の他の作品、例えば駅のプラットホームで電車を待っている人々の風景や大通りの横断歩道をわたっている人々の風景もそうですが、画面に中心がなくて、人々が平面的に並べられている。その人々の間には画面の中での優劣がなくて、これを描きたいという中心がありません。地と図という言い方をしますが、背景のというバックがあって、こその前に画面の主人公が、これを見てくださいというように画面の一番目立つところ、それは画面中央であることが多いですが、これらの作品には、その中心がありません。そのかわりに背景というのは、中心を引き立たせなければならないので、中心に比べると、少し手を拭いたように描かれます。しかし、この作品では、地と図にわけられで、全体が地として描かれています。それだからこそ、これらの作品は丁寧に、細かい部分は精緻なまでに描きこむ必要があったのではないかと思います。そうしておかないと、私たちが見ているようで見ていない、それを再現しようとすると、その見ているものをちゃんと作品に定着させなければなりません。そうした上で、見ているようで見ていない、いわば、空虚さという、マイナスを作り出すためには、このように描き込むことが必要だったのではないか。空虚といいましたが。画面に中心がなく、したがって奥行きも、ちゃんと描かれているのだけれど感じられません。そういうマイナスの描かれていないというのを、最初から何もない白地のキャンバスに描くことは出来ません。そこで、まず、画面にプラスを作り出して、そこからマイナスを施した。そのためには、精緻に描き込むことが必要だった。いわば、この作品は描かない、あるいは見えていない、ということを描こうとした作品、何か、言葉にすると面倒くさい作品のように思われたかもしれませんが。それが、パッと見て、なんとなく感じるというような作品になっている。それが、相笠の描く作品の大きな魅力ではないかと思います。

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