人間・髙山辰雄展~森羅万象への道(7)~Ⅰ-3.人間精神の探求(1970年代~1990年代前半)(4)



高山の描く人物像はほとんどが女性で、この展覧会でも展示されている作品の半数近くが単独か複数の女性像です。しかも、作品は一時期に集中しているのではなくて、初期から晩年にわたり、画家の生涯を通じて描き続けているといえます。その中で作風も変化を繰り返してきましたが、中でも1980年代から90年代にかけての女性像は、独特な風貌で、微笑を浮かべていたり、不安げな表情をしていたり、無表情に近かったりと様々ですが、いずれも底知れぬ謎を秘めた奥深さを感じさせ、観る者を深く作品世界に引き込む、と解説されていました。たしかに、そういう感じはしなくもありません。「青衣の少女」という作品です。一見、そういうイメ
ージで見ることもできるのですが、私には少女の白い顔と手の部分だけが、この作品の中で異様に静か、というよりは空虚のようで、その空虚さに吸い込まれる、まるで気圧の低いところに向けて空気が流れていくような、そういう作品ではないかと思いました。画面をよく見てみると、密度の違いによって、いくつかの部分に分けられていて、例えば一番密度が高いのが手前の花が盛られた部分で、ここは高山の花を描いた作品に共通する小宇宙のような濃密な小空間を作っています。それ次ぐのが、少女の髪の毛と青い衣の部分です。この部分では、絵の具をマチエールのような粒々をつくって画面に盛り上げるようにして凹凸をつくって、それを観ていると画面に独特のグラデーションや陰影を作り出しています。その凹凸が独特の密度を感じさせます。しかも、髪が細かくウェーブがかかったように見えるように伸びて、その先には青い衣のつくりだす皺に連続するように、波のように頭の先から身体全体を通じて足までつづいていて、それが動きを作り出しています。そして、次に窓の外の暗い緑のグラデーションによって波状に描かれた森の風景です。最後に、それらに囲まれるようにして、中心に、それらの密度の高い塗りから取り残されたように空白が形作っているのが、少女の顔と手というわけです。ですから、この作品は一人女性を描いているというよりは、画面の構成のなかに女性が残されているという作品ではないかと思います。したがって、この作品の女性は、みずから表情をもって作品の中で自己の存在を主張しているのではなくて、画面全体が構成されていて、その中でポッカリ空いた穴のようなものです。この時期の高山の描く女性が謎を秘めた奥深さを感じさせると解説されているのは、そういうところから、見る者が、そこに何か意味ありげな印象を受けて、そこに見る者自身の想像を喚起させられるからではないでしょうか。人間だから本来はもっているはずの表情がそこにはなくて、しかも、画面は全体として少女の顔と手以外は濃密に描き込まれている。だから、画面を見ていて、少女が空白であることを見る者は受け容れられない。そこで、見る者自身の想像で穴埋めをする誘惑にかられる。しかし、もともと、そこは空白なのだから、何も出てこない、いやそんなはずはないと、そこに謎めいた感情が生まれてくる。そういったようなプロセスをへて、この少女が神秘のヴェールを見る者が被せていく、そういう効果を巧みに生み出すものになっているのではないかと思います。まあ、神様などというのも、そんなものに近いのではないでしょうか。


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