無料ブログはココログ

« 人間・髙山辰雄展~森羅万象への道(6)~Ⅰ-3.人間精神の探求(1970年代~1990年代前半)(3) | トップページ | 人間・髙山辰雄展~森羅万象への道(8)~Ⅰ-3.人間精神の探求(1970年代~1990年代前半)(5) »

2018年9月 7日 (金)

人間・髙山辰雄展~森羅万象への道(7)~Ⅰ-3.人間精神の探求(1970年代~1990年代前半)(4)

Takayamaflower2_2  展示のなかで数は多くなかったのですが、静物画は異様さで突出していました。「牡丹(籠に)」という作品ですが、牡丹の花だけが、他のもの、例えば籠が平面的であるのに対して、生々しく精緻に描きこまれて、しかも、その牡丹の花びらの一枚一枚が陰影が深く、屈曲しているようで、そこにダイナミックな動きを秘めているように見えるのです。主実的に描いているのですが、どこかグロテスクな感じのするものになっています。それは、風景画であれば画面全体に雪の襞のパターンを描いていたのを、この作品では牡丹の花という凝縮された部分に圧縮するように描いている、この場合は何枚もの花びらの繰り返しなのですが、その押し詰められた構成が異様な迫力を生んでいると思います。「椿(赤)」という作品でも、花びらの繰り返しを強調するあまり、椿の花には見えなくなるほど突出しています。左下の小鳥が花鳥画の記号的なものであるのと対照的で、描かれた椿のグロテスクな生々しさが、見る者に迫ってくる感じです。
Takayamaflower3_2  例えば、高山より上の世代の速水御舟の晩年の「墨牡丹」などと比べて見ると、墨を滲ませる手法で巧みに描いている、というよりも描くということが先にあって、牡丹を描くというよりは、描いたのが牡丹だったというもので、その結果として作品は“らしく”牡丹に見えます。しかし、存在感とか生き物である牡丹の生々しさといったものはなくて、画家が頭の中に浮かんだふわふわしたイメージというかんじです。それはそれで、幻想的とかイマジネイティブといった方向ではいいと思います。しかし、この高山のような、存在感から生じる一種のグロテスクさはない。いわばキレイゴトであるのが分かってしまいます。その違いはどこから来るのでしょうか。おそらく、高山は牡丹の花を一枚一枚の花びらの集積の結果として描いているのに対して、速水は牡丹の花をひとつの物体として描いている違いだHayamibotan と思います。速水のばあい、花びらは花の部品のようなものなのに対して、高山は花びらは花の構成要素であって、その花びらの構成によって花という全体が成り立っている、いわばひとつの全体として花がある。もっというとひとつの小宇宙のようなものです。
 高山の描く人物像はほとんどが女性で、この展覧会でも展示されている作品の半数近くが単独か複数の女性像です。しかも、作品は一時期に集中しているのではなくて、初期から晩年にわたり、画家の生涯を通じて描き続けているといえます。その中で作風も変化を繰り返してきましたが、中でも1980年代から90年代にかけての女性像は、独特な風貌で、微笑を浮かべていたり、不安げな表情をしていたり、無表情に近かったりと様々ですが、いずれも底知れぬ謎を秘めた奥深さを感じさせ、観る者を深く作品世界に引き込む、と解説されていました。たしかに、そういう感じはしなくもありません。「青衣の少女」という作品です。一見、そういうイメTakayamagirl3 ージで見ることもできるのですが、私には少女の白い顔と手の部分だけが、この作品の中で異様に静か、というよりは空虚のようで、その空虚さに吸い込まれる、まるで気圧の低いところに向けて空気が流れていくような、そういう作品ではないかと思いました。画面をよく見てみると、密度の違いによって、いくつかの部分に分けられていて、例えば一番密度が高いのが手前の花が盛られた部分で、ここは高山の花を描いた作品に共通する小宇宙のような濃密な小空間を作っています。それ次ぐのが、少女の髪の毛と青い衣の部分です。この部分では、絵の具をマチエールのような粒々をつくって画面に盛り上げるようにして凹凸をつくって、それを観ていると画面に独特のグラデーションや陰影を作り出しています。その凹凸が独特の密度を感じさせます。しかも、髪が細かくウェーブがかかったように見えるように伸びて、その先には青い衣のつくりだす皺に連続するように、波のように頭の先から身体全体を通じて足までつづいていて、それが動きを作り出しています。そして、次に窓の外の暗い緑のグラデーションによって波状に描かれた森の風景です。最後に、それらに囲まれるようにして、中心に、それらの密度の高い塗りから取り残されたように空白が形作っているのが、少女の顔と手というわけです。ですから、この作品は一人女性を描いているというよりは、画面の構成のなかに女性が残されているという作品ではないかと思います。したがって、この作品の女性は、みずから表情をもって作品の中で自己の存在を主張しているのではなくて、画面全体が構成されていて、その中でポッカリ空いた穴のようなものです。この時期の高山の描く女性が謎を秘めた奥深さを感じさせると解説されているのは、そういうところから、見る者が、そこに何か意味ありげな印象を受けて、そこに見る者自身の想像を喚起させられるからではないでしょうか。人間だから本来はもっているはずの表情がそこにはなくて、しかも、画面は全体として少女の顔と手以外は濃密に描き込まれている。だから、画面を見ていて、少女が空白であることを見る者は受け容れられない。そこで、見る者自身の想像で穴埋めをする誘惑にかられる。しかし、もともと、そこは空白なのだから、何も出てこない、いやそんなはずはないと、そこに謎めいた感情が生まれてくる。そういったようなプロセスをへて、この少女が神秘のヴェールを見る者が被せていく、そういう効果を巧みに生み出すものになっているのではないかと思います。まあ、神様などというのも、そんなものに近いのではないでしょうか。
Takayamamountain3  「山を行く」という作品です。描かれているのは少女ではなく釈迦ですが、これも中心である釈迦の顔と足は空虚で、そのギャップは「青衣の少女」よりも徹底しているかもしれません。顔は正面なのに、足は右に向いているという突っ込みは措いて、そこに現われているのは、釈迦を統一したポジティブな存在として描く対象に捉えていないという事ではないかと思います。高山は、それよりも優先して描くべきものがあったから、そういうものは蔑ろにしてしまった。では、その優先されたものとは何か、というと釈迦の着ている衣装と、彼の周囲です。おそらく背景の山に分け入った周囲の風景は、滝にでも打たれているのか、高山の靄に巻かれているのか、定かではありませんが、高山独特の絵の具をマチエールのように物質化して、点描のように貼り付けて立体的にして描いた背景は重厚で動きがあります。厳しい状況の中を歩いているという感じが強くします。しかし、それだけではなくて、画面の凹凸によって見る者には陰影が変化しきて、視点を変えると寺院にある仏像の光背のように見えてくるのです。一方、釈迦の着ている衣は、その背景と同じ白ですが、白の色が濃い。だから空間が濃密になっている。つまり、光背の気が凝縮して実体となったともみえなくない。しかも、衣の皺が大きな流れをつくりだしていて、光背の渾沌として無秩序の動きが、ここでは一定の秩序ある流れに整理されて、しかも凝縮されている。しかし、さらに中心の部分である釈迦の顔の部分は能面のように目鼻のパターンの線が引かれているようにしか見えません。

« 人間・髙山辰雄展~森羅万象への道(6)~Ⅰ-3.人間精神の探求(1970年代~1990年代前半)(3) | トップページ | 人間・髙山辰雄展~森羅万象への道(8)~Ⅰ-3.人間精神の探求(1970年代~1990年代前半)(5) »

美術展」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/564097/67141426

この記事へのトラックバック一覧です: 人間・髙山辰雄展~森羅万象への道(7)~Ⅰ-3.人間精神の探求(1970年代~1990年代前半)(4):

« 人間・髙山辰雄展~森羅万象への道(6)~Ⅰ-3.人間精神の探求(1970年代~1990年代前半)(3) | トップページ | 人間・髙山辰雄展~森羅万象への道(8)~Ⅰ-3.人間精神の探求(1970年代~1990年代前半)(5) »