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2018年9月 6日 (木)

人間・髙山辰雄展~森羅万象への道(6)~Ⅰ-3.人間精神の探求(1970年代~1990年代前半)(3)

Takayamalight  「灯」という作品です。青の色調で統一された、その青がとても美しい作品です。全体のその青のグラデーションを点描風にして、粒々のゴツゴツした肌触りが、夜ということもあって、風景の輪郭を曖昧にして、家屋の中から漏れ出る灯火が印象的に強調されて、輪郭が曖昧に夜の闇に溶けてしまうような家屋や立木などの風景に対して、灯火のはっきりした姿は存在感があって、見る者の視線は、そこに導かれ、想像を掻き立てられます。その意味で、この作品は、実はまったく画面には描かれていない、家の中の光景がじつは中心なのではないかと思われます。それがシンプルに伝わってきます。同じ題名(漢字が違いますが)の「燈」では、この作品のようなシンプルさがなくなってしまっていて、そういう想像を掻き立てる要素が拡散してしまった作品なっています。だから、高山は作品によっては、平均的に高い品質を維持するという作家ではなくて、いい時と悪いときがある人ではなかったと、と思います。
Takayamalight2  「音」という作品です。白一色の世界を、雪の積もった山里の風景を、白の点描で、主としてグラデーションと影で描いています。この作品では珍しく人物が一人だけ、しかも注意していないと気付かないほどさり気なく控えめに描かれています。フリードリヒの「海辺の僧侶」の手前の人物のようです。しかし、この作品の人物はフリードリヒの作品にくらべて控えめです。しかし、一度気がついてしまうと、この小さく控えめな人物が、それ以外の画面のすべてに対してしまうほど強い存在感を見る者は想像してしまう。見方によっては、この画面に描かれている大きな風景は、この小さな人物の心の中の心象風景なのかもしれないと想像させられてしまうのです。雪が積もって生まれた襞のような模様と地形の凸凹が積雪によってはっきりとした形に浮かび上がり、それらが襞のような波紋を作り出して、それが画面のテーマのようになっていて、それが繰り返されて、地形に変化によって、その繰り返しが変容していく様相が、音楽で言えば主題と変奏のように、変化が変化を生んでいく。以前の「温泉」では川の流れと渓流の岸壁の描写にそういうところが見られましたが、ここでは、それが画面の中心となって、しかも、小さなTakayamasnowroad 後姿の人物が、そういう繰り返しに対して異分子のようになっていて、繰り返しを掻き乱す機能をしています。そこで、人物が浮き上がってくる、というわけです。したがって、高山の作品は見る者の想像を掻き立てるものだと述べましたが、その想像力というのは、決して物語といった言葉によるものではなくて、あくまでも視覚的な想像なのです。
 同じように一面の雪の積もった風景を描いた「雪路」という作品です。こちらは遠景ではなくて近景ですが、ホワイトアウトといって、雪が一面に降り積もって白一色になってしまう、その結果として風景が分からなくなってしまうような世界になっています。この作品では手前の馬を引いた人影と左端の樹の影以外は雪の塊のしろだけの世界となって、風景の輪郭が曖昧になってしまって、まるで白のグラデーションによってつくられた文様のような抽象的な画面です。それを人と樹の影がかろうじて風景画と分からせてくれる。高山は絵の具をマチエールのようにして盛るようにして画面に凹凸をつけて影をつくったり、あるいは点描で白の微妙な変化を創っています。このような同系色、しかも白というのはメリハリのつけにくい地味な色で、ここまで描くというのは繊細な感性と、途方もない根気の必要な作業の積み重ねではじめて実現するものだろうことは容易に想像がつきます。ここで見ることのできる白の陰影とグラデーションが波打つように、パターンを繰り返してダイナミックにうねるように変化していく様子は、アクセントの人と樹の影があることによって、動きが浮かび上がってくるようです。風景で、これほどまでに動きを感じさせてくれるのはターナーのある時期以降の抽象画のような風景画の様でもあります。しかし、高山の作品はターナーの作品にはない実体の触感のようなものが感じられるのです。
Takayamamoon  「音」の異分子が画面に入り込んでアクセントをつけていくものが、「月響」という作品では、異なる次元のものをひとつの画面に一緒にしてしまって象徴的な空間を作っています。青を基調としたシルエットのような平面的な林の風景は、樹のシルエットが繰り返されるパターンになって、リズムを画面左上の月は、それに比べて、はるかな遠景であるはずなのに、シルエットの手前にあるような明確な輪郭で、しかもこちらに球形に盛り上がってくるように見えるほど立体的です。この月が最も存在感がある。さらに画面右手前に皿に盛った花と壺は、それらとは違う空間にあるように、とってつけたように描かれている。それらは月の下であるはずが、月光に照らされたようにも見えないし、月に比べると立体的ではないし、メリハリがない。それがむしろ、月に照らし出されたような林の木々のシルエットのパターンに目が行ってしまうのです。手前の生物の動きのないものに比べると、林のシルエットは静かだけれど動きがあるので、その静かな中のかすかな動きが、比較によって相対的に見る者の前に姿を表わしてくる。

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