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2018年9月 4日 (火)

人間・髙山辰雄展~森羅万象への道(4)~Ⅰ-3.人間精神の探求(1970年代~1990年代前半)(1)

 このコーナーが人間精神の探求という名前になっていますが、私には、正直なところで、そういうストーリーを想像させる要素を作品の画面に中に見つけることはできませんでした。便宜的に区分する目次のようなものとして章立てを使っていますが、章のタイトルには、意味を感じていないことをはじめにことわっておきます。
Takayamamountain2  「夜明けの時」という作品です。女性がテーブルに突っ伏して眠っているところを描いていると言えるのでしょうか。女性の横長の楕円形の顔を中心にしてそこかに右回りのように黒い髪の毛が楕円の左手から上を回って右側から下に落ちる。それと、腕枕のように女性の右手が楕円の左側から下回りで落ちている髪の毛の手前にくる。そうすると、顔の楕円を中心として、髪の毛と右手とで右回りの渦巻きを作っています。一方、女性が突っ伏しているテーブルは、女性の顔やこの女性の渦巻きの外形の楕円と同じ楕円です。つまり、画面には大きな楕円が二つ重なって、女性の楕円は、中心に楕円がある渦をつくっている。またテーブルに乗っている花瓶は下が丸く膨らんでいて、その表面に描かれている風景のような模様が渦巻きのようにも見えます。Arimotohanasaku そして、花瓶に活けられているバラの花は渦巻きです。このように、この作品の画面は楕円と渦巻きが重層的に構成されていて、女性はその構成にすっぽりハマっています。そして、この作品のころから高山は点描のようにして絵の具を盛り上げて塗り重ねることをします。油絵のマチエールのようなものです。それは、この作品でもテーブルの表面がそうなっていて、本来であれば表面は滑らかであるはずが、それによって凹凸が生まれていて、それが白いテーブルにゴツゴツした質感を与え、突っ伏している女性の顔を、滑らかで柔らかく見せています。この画面を見ての印象は、この女性は楕円や渦で表われている関係よって画面のなかにハマっている、その姿です。
 ただ、それまでの作品と違うのは、この画面の渦や楕円のパターンは、例えば「温泉」の波のように画面の前面に表われてはいないということです。これによって、構成そのものが画面の演出として画面を上手く見せるように機能してきている。それで、相対的に女性の姿が余韻をもって表われてくるように見えるようになったと思います。
Takayamawhite  「白い襟のある」という作品です。「夜明けの時」の行き方をさらに進めて、ひとつの完成形に近いものとなっていると思います。闇のような背景の中に白い襟をのぞかせた一人の女性の顔と手だけが浮かぶ。黒を基調とした微妙な色彩に、とくにロングヘアーの黒い髪と黒いドレスが溶け込んでしまっているような姿は、不思議な佇まいになっています。おそらく、この作品を制作している重心は女性ではなく、背景の黒の部分のほうだったのではないかと思います。「夜明けの時」のころから高山が多用するようになった点描の絵の具のマチエールのような凹凸で、陰影とグラデーション、として肌触りの多彩な変化を画面につくっていって、黒に多層的な深みを作り出しています。他方で、画面の中心が黒の塗り残しのような空白になっていて、逆にその空白という空虚が人の形が浮かび上がってくる。その人の形は、顔は能面か仏像のように無表情で、とくに目は虚ろに穴が空いているようです。それが、かえって神秘的な雰囲気を見る者に印象付けるものとなっています。人物としての存在感はおよそない、フワフワと浮かんでいるようです。しかし、そういう実体のなさが余韻を生んでいます。個人的には有元利夫の描くヨーロッパ中世風の女性像を想わせます。この後に見ていきますが、高山の人物画は単独の人物でなく数人の群像を描くようになっていきます。それはおそらく、高山が、人物の個体とか単体ではなく、関係という実体のないもの、空虚なものの方に、人間というものを、敢えて言えば人間の存在の本質を見ていたと思えるからです。これは、伝記的な事実ではなくて、高山の作品の画面から想像したことです。それが、群像ではなくて、一人の人物を扱った場合には、こうなる他はないだろうというのが、この「白い襟のある」という作品です。従って、この作品に並んで展示されていた「少女」という作品は、この展覧会のポスター等でも使われていましたが、私には、あまりパッとしない作品でした。
Takayamagirl2  人物を群像で描くものとして、高山が多く描いたのが家族という題材だと思います。その最初期の作品で「地」という作品があります。“新古典主義代のピカソを思わせるようなデフォルメされた人体表現で、親子3人の体は真ん丸の頭部を中心に一つの矩形を表わすように表現されている。高山は「男と女と子供というのは、人間にとって一つの単位のように思う」と語っているが、まさにそれを造形化したような親子が一体となって描かれている。”と解説されています。この作品には3人の人物が描かれていますが、それぞれの人物には個性がなくて、3人が一緒になっている関係が外形化されている、それが様式化されたようなポーズで、ひとつまとまりとして描かれています。しかも、この3人のまとまっている矩形が、背景の模様なのか、石段の壁のようなのか分かりませんが、それが矩形で構成されているように無数に、不規則に並んでいます。そういう繰り返しのなかに、この親子の形作っている矩形が画面の中心にある。そういう構成になっています。そのことから、高山は親子とか家族といった人物の集団の実体ではなくて、その関係が形成する外形である矩形が、この作品の中心として描いていた、と私には見えます。妄想を逞しくすれば、高山は、人をそういう関係というものとして、矩形に見えていたのではないか、それを見たまま描いた、そのように私には思えます。比喩的な言い方ですが。

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