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2018年9月 2日 (日)

人間・髙山辰雄展~森羅万象への道(2)~Ⅰ-1.若き研鑽の日々(1930年代~1945年)

Takayamaspring  「立春」という作品を見ると、まるで水彩で描かれた風景画のようです。学校卒業の後の作品なので習作と言うことではないのでしょうが、高山にとって風景は花鳥風月といったパターンとしてのものは、無くなっていたのかもしれません。最初期の作品から、すでに日本画なのか洋画なのか、たまたま日本画の絵の具や筆をつかって、展覧会でもその部屋に出品しているので、そうなっている、とでも言うような作品を描いていた、と思います。
 「温泉」という作品です。2.5×1.9という大画面のほとんど全体が温泉が川になって流れる波紋と、同じようなパターンを踏んでいる、その流れによって侵蝕された岩の文様の描写のマチエールに覆われていて、そのパターンの反復が見る者に強く訴えかけるように圧倒してくるのです。じつは、画面の中央にいる二人の裸婦は、その肌の色と周囲の岩肌が似た色で描かれているのですが、人体の陰影の描き方などは岩の陰影と同じように描かれていて、むしろ岩肌の方が色の感じが強くて、裸婦の存在感は岩と同等か、岩の方が強いのです。“生い茂る草木は写生をそのまま基にしたもので、細部まで緻密に描き込まれている。岩場はあらかじめ水晶末などで凹凸をつけた上で彩色し、ごつごつした質感を再現。水の表現では、斜面を勢Takayamahot いよく落ちる水流や浅瀬の透き通るような透明感、さらに立ち上る湯気までもリアルに描き出している。一方、人物に目を向けると、ほんのりほてった少女の肉体に写実的な描写が認められるか、周りの風景ほどは徹底されていない。むしろ様式化された顔貌表現は大和絵や古典絵画に通じるものである。”という解説がありますが、人間を物体として、岩と同等、もしくは岩ほど強調されないで水の流れを遮って波紋を起こすものとして扱われていると思います。だから、人間的な表情とか、その表情を生む内面のようなものは、この場合は必要がない。そういう人間の描き方をしようとしている。そういう作品であると思います。というよりも、この作品で描かれているのは、人間とか自然とかいう対象物ではなくて、水の流れや岩の形がつくりだす波紋のパターンです。高山の作品は、最初に見た「行人」が縦の構図のパターンであったように、画面構成を設計していくということが描くことの重要な要素であって、人間とか風景とか事物といったものは、その構成のための素材でしかない。それは作品を通じて一貫しているように思います。
 「友達」という作品では、二人の少女が正面と横向きになって、黄色と紫色のもんぺを着ていて、人というパターンを二様に描き分けている、そういう構成で画面を作っています。そして背景は省略されて、この人物のパターンしか画面にはありません。この作品タイトルは「友達」となっていますが、二人の関係とか、互いにどういう位置関係にあるのか、そもそも二人は視線を交わしたりもしていないので分からない。そういうものを切り捨てていると言ってもいいと思います。これは、余白をとるというのではなくて、パターン以外は余計な要素として捨てていると考えられます。

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