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2018年9月 9日 (日)

人間・髙山辰雄展~森羅万象への道(9)~Ⅰ-4.森羅万象への未知(1990年代後半~2000年代)

 高山の晩年の作品の展示です。“次第に色彩が抑えられ、物の輪郭が背後の空間や自然風景に溶け込むような幽玄な世界を見せ始める。”と解説され、高山本人の次のような言葉が引用されています。「人間とは、日月星辰と一つであること。自然と一つであると思い、日月星辰としたのであります」と。ここには、森羅万象に思いをめぐらせ、絵画をとおして思索を積み重ねてきた高山の世界観が端的に示されていると言います。
Takayamayufu  「由布の里道」という作品です。たしかに、解説の言っている通り物の輪郭が背後の空間や自然風景に溶け込むような画面です。それは、実際には、一般的な日本画は違って絵の具を画面に平面的に塗ったり、暈したり、かすれさせたりといった塗り方ではなく、油絵の具のマチエールのように物質化して盛り上げて画面に重ねていくような手法を高山が多用していて、この時期の作品は、それがエスカレートするように、その手法を細かく使っているためではないかと思います。それは、この作品を見ると分かるかもしれませんが、絵の具が塗られた画面の表面は真っ平にはなっていなくて、細かくマチエールの手法で画面に絵の具を盛り上げでいるので細かな凹凸が無数にあって、それが細かいので、あまり注意せずに画面を見ていると、それと気付かないでいて、平面であるかのように見ていると、画面に細かな凹凸があるために、画面に当たる光が平面のような反射でなくて、細かい凸凹によって拡散するように反射することになって、それを平面と同じようにみていると、画面の輪郭がぼやけているように見えてくる。さらに、点描で描いている精度が飛躍的に高くなって、まるで原子か分子レベルまで見通しているような透徹とした視線で高山が描いているようにも見えます。そういうレベルでみれば、大雑把な視点で映る形態など分解されてしまいます。この作品でいえば、夜の風景を青を基調に彩色していますが、その青を、青一色のグラデーションだけでなく、黄色や緑や白のそれぞれの色の濃淡の細かい点の集まりになっていて、夜の光景にこれだけ多彩なものを高山は見出していたと言えるのではないかと思います。その細かさに便宜的な形態が解体されていく、そういう作業が、この作品を描くことだった、その結果現われた画面というように、私には見えます。
Takayamathree  人物画でも「聴」のようなすっきりした画面から、「由布の里道」の細部の過剰とも言えるような画面を「三人」という作品に見ることができると思います。これは、「聴」の人が周囲に溶け込んでいく方向性をより推し進めたものといえるのでしょうが、点描による描法が過剰になって形が解体していって、顔だけが空白なのでのこってしまったと言えます。どうして、この顔の部分も他の部分と同じように描いて解体してしまわないのか、私には不可解ですが、それが高山という作家の個性のよって立つ所なのかも知れません。つまり、この能面のような形が高山にとって一番大切な形で、これを解体することはできない、そういうギリギリのところで描いているといえるかもしれません。そう考えると、高山の作品、とくに人物画はこの能面のような形は一貫して持っていて、実に、高山の人物画は、この形を画面にどのように活かすかの試行錯誤といえるかもしれません。それは、リアルとか人間の内面とかいったように理念的なお題目なんぞより、高山の描くという行為の実体の感覚に近いところで本人が意識していないところも含めて、画家の目と描く手が、肉体の動きと感覚で追いかけていたのかもしれません。そういう形が入っていない「牡丹 洛陽の朝」という作品では、全体としてのぼんやりとした輪郭はかろうじて残っていますが、点描の細かさに地と図の区分は限りなく曖昧になって、もはや点の集合という、渾沌の一歩手前ところまで、形が解体されてしまっています。おそらく、このような画面は高山の目では、そのように見えていたのであり、限りなくリアルな描写なのではないかと思います。
Takayamaflower4  そう思って、高山の作品を振り返ってみると、顕微鏡のような微細な視点で見るという志向は一貫してあって、それは生涯をとおして深まっていったと思います。それは、他の日本画の画家たちは持ち得なかった視点ではないかと思います。彼の作品に人間の本質とか森羅万象を見る人は多いのかもしれませんが、逆に分子レベルの微細さへの志向が、晩年になって漸くすなおに画面に表れてきて、もともと、それが通底していた、という方が、私には、高山の作品のゴツゴツとした点描につながるように思えます。

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