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2018年9月28日 (金)

日常生活|相笠昌義のまなざし(2)

Aigasaindia  「インドにて、デリーの春」という作品を見ていると、画面右端に立っている少女の類型的な姿は、どこかポール・デルヴォーや金子國義を彷彿とさせられるところがあります。ただし、この二人の描く女性にあるエロチシズムが、この人にはない。あるいは、画面の中段の牛と人を横向きで並べている姿は古代エジプトの壁画を見ているような感じがします。この作品の中で描かれている人々や動物は、人間というものの形や量感を抽出したような学術標本のようなもので、そこに個々の人の個性や特徴は、顔が塗り潰されているように、されています。この作品では、それが際立つように、背景であるコンテキストから浮き上がるように、配置されて描かれていて、その類型として抽出されたことが際立っていて、そこに不思議な感じがしています。それぞれ描かれているパーツも背景も、それぞれの造形は、具象なのだけれど、それらで構成された画面は、抽象的で現Mag2015gol 実感のないものとなっている不思議さがあるのです。へんな言い方かもしれませんが、シュルレアリスムの画家ルネ・マグリットも、こんな風に匿名の存在として人間を写実するように描き、それを使って変形させて作品を作りました。それがマグリットのシュールな作品というわけですが、さしずめ相笠は、マグリットのシュールな変形を施さないで、変な画面をつくったと言えると思います。
 「インドにて、デリーの春」の傾向を、さらに推し進めた作品が「動物園にて:フラミンゴをみる人」ではないかと思います。推し進めたと言うよりも、この傾向で描いていくのにハマる題材を見出したのが「動物園にて:フラミンゴをみる人」でないかと思います。相笠が描いている匿名化した類型的な人々が、インドでは変なものとして浮いてしまうのが、都会の風景のなかでは、それほど変な感じがしない。私達が日常的に見ている風景は、当たり前だと思っていたのが、実は変なのだということ、相笠はそれをずっと見ていたから、このような描き方をするようになったのか、このような描き方をもともとしていて、都会の風景をそれで再発見したのか分かりません。しかし、その描き方とAigasazoo 都会の風景が出会って、そこに変なところがあるということが明らかになったという作品のひとつが、この「動物園にて:フラミンゴをみる人」ではないかと思います。私の偏見かもしれませんが、この作品を見ていると、マグリットがいて、画面にいたずらを仕掛けようとしているのだけれど、できないでいると感じてしまうのです。ただし、この作品では、後年の作品ほどはハマっていなくて、抽象的な感じが強く残っています。それが、マグリットを連想させるのだろうと思います。それは、動物園の柵に囲まれたフラミンゴがいて植物の生えているところが、「インドにて、デリーの春」とおなじようにハマッていないというのか、題材自体が類型にならないので類型に異質な感じが付き纏うからかもしれません。それに対して、画面手前のコートを着て横切る男性や、真ん中で俯いている3人の親子連れ、乳母車を押している女性やフラミンゴのほうを向いて背中を見せている男性といった人々が、それぞれてんでバラバラに、描かれている部分はリアルといっていいように映ります。実はリアルではないのですが、そのズレが、この人々と動物園の柵の風景とのギャップの方が大きくて、そのズレが見え難くなってしまっている。それゆえ、全体としてはマグリットのようなつくりものめいたリアルさが目について、違和感を拭うことができない
Aigasapark  「日常生活:公園にて」という作品では、そのつくりものめいたリアルがハマッてきます。都会の公園の光景の方が、動物園よりも日常性を感じさせるからでしょうか。人の数も増えています。そして描かれている人との距離が離れているように見えます。遠景で人々を描いているという外見だけでなく距離感というのか、突き放して描いている感じがします。「動物園にて:フラミンゴをみる人」で一人一人が別々のシチュエーションで、異なるポーズをとっていました。これに対して、「日常生活:公園にて」では似たようなポーズで無造作に並べられているように見えます。つまり、「動物園にて:フラミンゴをみる人」での人は、それぞれの人を差別化できましたが、「日常生活:公園にて」では人は取り替え可能になっている。それが、この「日常生活:公園にて」がハマッているように感じる要因ではないかと思います。「日常生活:公園にて」に描かれている人は、ひとのひとりが差別化されていなくて、取り替えのきかない、つまりは掛け替えのない人ではなくて、取り替えのきく群衆のワンオブゼムなのです。相笠の描く人、動物もそうですが、生き生きとした生命感とか人格といったものが感じられなくて、まるで人形のような感じで、敢えて人と見ると、特定の誰かさんではなくて、匿名の人々という感じなのです。それを、この「日常生活:公園にて」では遠景、つまりロングショットで突き放してみているので、なおさらその印象が強まります。それが、この何もない空虚な場所、というよりも抽象的な空間、に似つかわしいと感じられます。かえって、何もないほうが、「動物園にて:フラミンゴをみる人」のようにフラミンゴの檻があると中途半端にしか見えなくて、「日常生活:公園にて」では、それを空虚にしたことで、ハマッたのだと思います。もしかしたら、私が相笠の作品に惹かれるのは、その何も描かれない空虚な空間を、そういうものとして画面で打ち出しているように見えるからかもしれません。

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