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2018年9月 8日 (土)

人間・髙山辰雄展~森羅万象への道(8)~Ⅰ-3.人間精神の探求(1970年代~1990年代前半)(5)

Takayamaspring2  「春光」という作品です。これは春の淡い陽光なのでしょうか、2人の少女の顔と花をもった手以外の部分は黄色がかった白で塗られ、その陰影と黄色が混ざり具合の変化のグラデーションが、全体としてタイトルの春光の雰囲気を作っています。しかも、その白のグラデーションによって2人の背後には草が繁り、花が咲いているのが表わされています。画面でみると白一色になってしまいますが。その淡いところが春らしい、しかし、淡いといっても存在感はあるのです。それに対して、2人の女性は、描かれているのですが薄っぺらです。これは、近代以降の日本画が抱えた限界であり、もともと記号のように平面的に人の姿を描いていたやまと絵や浮世絵のようなものが、西洋絵画の立体的で重量のあるような存在感をもった人物像をリアルとみるような人物像に対抗しようとした矛盾を克服しようとした、ひとつの解決策ではないかと思います。日本画では、西洋絵画には正面突破では勝負になりません。だからというわけではないが日本画で人物を描こうとした作品は、押しなべてつまらない、薄っぺらでしかないのを無理に工夫を凝らして、その挙句に挿絵やイラストくらいにしかなっていない。そこで高山がとった戦略は、どうせ人物は薄っぺらにしか描けないのだから、それは画面の空白のようにしてしまって、逆に人物以外の風景や静物は存在感のあるリアルな描写ができるようになってきているのだTakayamaforest から、そっちを追求していって、そのなかに薄っぺらな人物を入れ込んで、そこで生まれるギャップから、見る者が人物に視線を吸い寄せられるようになる、という逆転の発想です。これと同じようなものをマンガの世界で「ゲゲゲの鬼太郎」に代表される水木しげるの作品に見出しています。水木のばあいは、それによって現実のリアルな場面と妖怪という想像の世界が裏表のように存在していることを作品画面だけで見る者に納得させてしまうのです。これに対して高山の場合は、敢えて言えば、そのギャップで逆照射されるのは、そこに描かれていない人の内面といった窺い知れぬものを、そこで描かないことによって見る者に想像を促しているのかもしれません。
 「森」という作品です。そういう構成による効果で人物を見せていこうとすると、この作品のようなシンボリックな構成をつくる傾向の作品に至るのは、当然の成り行きだと思います。その先には「聖家族」の連作があると思いますが。この作品では、背景は何が描かれているのか判別し難いところがありますが、その背景と4人の人物の髪の毛が絵の具をマチエールにした点描で描かれています。前に見た「山を行く」で釈迦が背景を光背にした姿になっていたと同じような効果を作ろうとしているのか、しかし、この作品では、釈迦一人ではなくて、おそらく家族をシンボライズしているのでしょう4人の性別と年齢のことなる人物を配して、群像にしています。ここで高山は、人物は空白だからと言って、一様にしないで、4人の人物の空白をそれぞれ区分して、いわば空白のバリエーションを作ろうとしているかのようです。それが後の「聖家族」との違いです。
Takayamafamily10  高山は1993年に26点の連作からなる「聖家族」を発表します。“その内容は、寄り添う家族の姿を象徴的に描いたこれまでの家族像とはやや異なる。描かれたのは日常の断片を切り取ったようなありふれた家族の情景であり、家族構成や年齢構成もバラエティに富んでいる。これまでの観念的な家族像とは異なる、血の通った生身の人間の姿がここにある。そして、現実に生きる人間に対する高山の深い共感も読み取れるだろう。”と解説されています。ここで“これまでの家族像”とされているのは、例えば「森」のような作品でしょうか、たしかに観念的な構成がとられています。しかし、私には、例えば、ここで観ることのできる「聖家族」に“日常の断片を切り取ったようなありふれた家族の情景”を見ることはできないのです。しかし、「森」と「聖家族」との違いは、背景の描きこみの有無ではないかと思います。「聖家族Ⅹ」という作品です。これまで見てきた人物画とは違って背景の描き込みがほとんどありません。画面の右半分は輪郭線を引いた食器が線画であるくらいで、あとはほとんど空白と言Takayamafamily23 ってよく、画面の左半分に3人の人物がかたまっています。おそらく、それまでのネガに対してポジに転じたもの。そのため、画面左の3人の人物を集め、その部分の密度を高めるために、それまで高山が使ってきた絵の具をマチエールのように物体として盛り上げるように塗り固め凹凸をつける手法をエスカレートさせました。それが3人の人物の衣装と髪の毛の部分です。それまでの人物画では背景などの人物の周囲の部分が高い密度で、人物の顔は空白で、虚無のブラックホールのようにして、見る者の視線を却って吸い寄せるようにしてあったのが、この作品では、その背景が空白になってしまったため、その代わりに衣装と髪の毛の部分の密度をより高くしたと、私には見えます。しかし、それで人物の顔に視線が集まるかというと、むしろ空白は背景と顔の部分となったため、視線は顔に吸い寄せられない。そう私には見えます。では、視線はどこに向けられるかというと、人物の衣装ではないか。この作品を経て「聖家族ⅩⅩⅢ」を見ると、画面への塗りの部分はほとんどなくなって、全体にすっきりしてきて、それらしく彩色されているのは顔と手足という人間の肌の部分になりました。それで、一応、見る者の視線は向けられるようにはなっている。とおもいます。しかし、その視線を受け止めるほどの顔になっているのか。それが、私には、それまで高山が描いていた人物の顔と変わらないように見えます。単に空白の顔に色をつけた。こういうと悪口に聞こえるでしょうか。だから、この作品のシリーズを見ていると、中途半端な印象を受けるのです。
Takayamagirl4  むしろ「聴」という作品のような、背景の中に人物が溶け込んでしまっている作品の方が、見る者の想像を掻き立てる余地を作ろうとしているように見えます。絵画で人物を描こうとする前提として、人物の存在がポジティブであって、それを写そうとすることで人物画が成立しているとおもうのですが、日本画の場合には、そういう人物が前提されていないので、どうしても人物を描いても薄っぺらになってしまう。高山は、そこで人物を描こうとして、虚無のようなネガティブに描くことで、薄っぺらでない人物像をつくり出すことはできた。しかし、それは奇手にすぎない。そもそも、ポジティブな人物の存在というには、個としての人間が自立しているという前提があります。そういう個人観が当時の高山や、その周囲にあったのか、何ともいえませんが、そういう個人観は近代西欧に独特のものではないかと思えるので、むしろ様々な関係の中に人がいると見るほうが自然ではなかったかと思います。そういう視点で描こうとした試行錯誤が聖家族のシリーズだったのではないか。その行き方で、ある程度の水準をみたのが、「聖家族」の連作ではなく、この「聴」であるように、私には思えるのです。それは、人物と背景が同じように描かれている。以前の人物画のようなポジとネガの対比はなくなって、同じようなレベルで、顔の薄さに合わせて、背景も衣装も描かれている。しかし、それが背景と顔、顔と衣装という関係が成り立っている。その代わり、虚無のような人物の内面への通路を思わせるところはなくなって、外面をのみ描くことに徹している。ここでは、人物は、その外面が背景や衣装との関係、つまり画面上のバランスに還元される。そういう作品になっているように見えます。だから、背景は稠密に見えませんが、点描で多くの色を微妙に使い分けているようですが、それがさり気なく見えているのです。高山なりの人物の薄っぺらでない、存在感を求めた、ある意味で客観性の高い表現ではないか、と私には思うのです。

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