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2018年9月 3日 (月)

人間・髙山辰雄展~森羅万象への道(3)~Ⅰ-2.ゴーギャンとの出会い(1945年~1960年代)

Takayamakoujin2  このゴーギャンとの出会いというのは展示の説明ではコーギャンの伝記を読んで感動したということなので、技法とか題材とか絵画の面での直接的な影響ではないらしいので無視してもいいと思います。ただ、人物の描き方や画面の、のっぺりとした平面的なところはゴーギャンと似ているところがあると思えば、そう見えてくる要素はあると思います。
Takayamabath  「浴室」という作品です。二人の裸婦ですが、前のコーナーで見た「温泉」と比べて見ると、「温泉」の人物にあった物体としての立体感と、それを生んでいる陰影の表現は姿を消したようで、ノッペリとした塗り絵のような彩色になっています。それが象徴的に表われているのが、右側の半身を起こしている女性の腰にかけられた白い手ぬぐいの描き方です。まるで女性の身体を腰のところで空白で切り離してしまうかのようになっています。一応、身体の線に沿って手ぬぐいがかけられているにはなっていますが、背景の白と手ぬぐいの白が同じようにノッペリとした塗り方になっていて、まるで作品タイトルの「浴室」という空間に二人の女性がいるという画面から、二人の女性以外のものは切り抜いてしまって、その後は白くなってしまっている。そんな感じです。むしろ、この作品では、この切り抜かれた空虚な部分、白く塗られている部分が実は核心部で、二人の女性は、その空白を作り出すために何がなければならないので、つまり、空白そのものを描くとはできないので、空白を描くための、空白の反対物として便宜的にそこに描かれた、いわば背景のようなもので、それゆえに空白以上に目立ってはいけない、そこでのっぺりとした塗り絵のようなものとなっている。当然、存在感とか、立体感などは余計なものとなるというわけです。そう考えると、高山という画家の作品は、画面の構成をつくることのために、敢えて描かないということが非常に重要で、それがこの画家の特徴を作っているのかもしれないと思うのです。つまり、この人は何を描いているのか、というと以上に何を描かないかの方が重要な画家ということです。この「浴室」のパターンは、後年の「白い襟のある」などの作品に連なっていくと思います。
Takayamagirl  「少女」という作品です。この作品の少女の顔を見ていると、ゴーギャンというよりはモディリアーニの描く少女の顔に似ていると思えてきます。この作品では、背景のグリーンと少女の服の黄色、そして右下の猫の黒といった、彩色され単純化された面の構成が、この作品の大きな特徴だと思います。とくに、グリーンが引き立っていて、東山魁夷の使っていた深いグリーンを思わせる面が靄のように画面を覆っていて、そこにアクセントを加えるように猫の黒が配され、印象を和らげるように少女の淡い黄色が効果的に使われている。少女の顔に表情はなく、目は空虚に黒く塗られています。「室内」という作品になると、二人の少女の服の鮮やかな赤と黄色を中心にして、ふたりの周囲の室内の物が色の平面に還元されるようになって、画面全体が色彩で構成されているという、まるでカンディンスキーの初期の抽象画を描き始める直前の作品にようになっています。この時点でいうのは、気が早いのかもしれませんが、おそらく、高山という画家は、自身の資質なのか日本画というのがもともとそういうものなのかは別に措いて、人間を描くというときに、個人の持っている感情とか精神的な内面といったものをTakayamaroom 単独に、直接的に描くという方向を選択することはしなかったと思います。果たして、人間にはそういうものが有るのかということは別にして、それを描くことはしない。では、高山が人間を描く場合には、どうしたかというと、人間と何ものかの関係を描くということ、つまり、内面ではなく、外面を描くことに徹したと言えると思います。そして、外面として関係性において描くという点で、人間の描き方を追求していく。その起点となっているのが、ここで見ている、ノッペリした背Takayamamountain 景を引き立てるために、画面で機能している人の姿です。
 「出山」という作品は基調となっている青の諧調とアクセントで挿入された赤が鮮烈な作品です。南宋時代の画家・梁楷の「出山釈迦図」という6年間にわたる山での苦行の末に、その無益さに気付き、真の悟りを求めて山を出る釈迦の姿を描いた作品に触発されて描いたということですが、私には全く関連性が分かりません。この時期、高山は様々なタイプの作品を試行錯誤するように描いていたのかもしれません。画面は人物を中心に据えた色面によるシンプルな構成から、中心のない、より複雑で重層的な構成へと展開しました。色面による平面的な表現とは打って変わって、彫刻的な量塊性を備えた人物群像は、石膏で彫像を作ってデッサンし、構想を重ね、ごつごつとした岩場を思わせる抽象的な風景をつくりだした。それは心の内面を投影したもので、暗く混沌とした画面からは、高山の迷いや苦しみを見る者に、強く想像させる効果を生み出す、と解説されていました。この前の作品がカンディンスキーの初期の色彩的な抽象作品を思い起こさせるのに対して、この作品はむしろジョルジュ・ルオーに似ていると思ったりします。私には、解説の内面性というよりも、画面中央の人物の両手を合わせたL字型を裏返した形が、この人物の横顔もそのパターンだし、左上の背景L字型の組合せになっているし、というように、画面全体がL字型の反復模様のように構成されている。そのパターンに沿って、色彩の基調となっている青の諧調が構成されている。そういう画面です。私には、様々な青でL字型が模様のように反復されている、という作品に見えます。
Takayamasky  「穹」という作品は、画面全部で青が強調された作品です。「出山」やこの作品のころからなのでしょうか、青という色だけで魅かれる作品になってくる、と思います。深い青という色そのものを高山が発見したということ、そして、それだけではなくて、グラデーションを細かくつけていて、そのグラデーションで夜の風景を描いているという構成で見せている。それに対照的に、その青から全く浮き上がって月が立体的で、青い背景の平面的なところとは別の作品であるかのようになっているのが目立っている、という作品であると思います。
「花」という作品です。青を基調とした作品ばかり見ているような感じですが、この青という色の使い方や、この作品の背景にあるS字形の川の流れは、最初に見た「行人」の背景の川の流れと同じようですし、「出山」のL字型に手を合わせたパターンが繰り返されるのと共通しているようなところがあるということ。そういう構成Takayamaflower の中に、この作品では花が描かれているということ、しかも画面の中央ではなく左に寄っている。これらの作品を制作しているころから、高山は自身の制作パターンをつかみはじめて、それが高山自身の目にもフィードバックし始めたのではないか。高山の作品は見たままを写生とするという作品ではないと思いますが、それでも、このころになると、高山には、このように見えていたという感じがしてきます。それは、人でも月でも花でも、それ自体を独立した存在として見ない。人であれば、一人の人物として精神とか感情といった内面があって、どっしりとした存在感があるという捉え方ではなくて、周囲の環境と関係している結節点のようなもの。それだから人であれば内面や重量は無用で、他と関係している表面、もっというと肌触りのような存在として捉える。だからずっしりとした存在感はいらないわけです。それゆえに却って、日本画で人物を描いた作品が面白くなくて、美人画というのがあっても、それは美人という記号を飾ったように制作しているだけで人間を描いているとは思えないし、歴史画を試みた作品では小説の挿絵としてはいいのだけど・・といった作品ばかりで、それらはペッタンコになっていると思います。それが、高山の作品では、そのことを逆手にとって、もともと人間とは、そういう存在感などないものだという方向で、それをポジティブに描いているように、それがこれらの作品から、高山自身の人を見ている目がそういう見方をするようになってきたと思えるのです。これは、最初に引用した展覧会の主催者あいさつとは正反対の高山作品に対する印象かもしれませんが。

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