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2018年10月17日 (水)

戦後美術の現在形 池田龍雄展─楕円幻想(3)~第1章 芸術と政治の狭間で

Iketatsutable_2  インパクトのあるプロローグのあと、ここから池田の経歴に沿った流れで作品を紹介していきます。池田が1948年に上京し多摩美で勉強を始めてから、1950年代前半ころまでの作品の展示です。習作の自画像は微笑ましかったりしますが、1950年代初頭のころは、非常に強い怒りだったりやりきれなさだったりといった感情が渦巻いているのが、その感情を持て余すようで、石膏デッサンのような冷静に写実をしている余裕がなかった。かといって形のない抽象やアンフォルメルのようなものでは、その表現にはかなり突き詰めることが必要だろうけれど、その余裕もない。それで格好なものとしてシュルIketatsuoyamada_2 レアリスムっぽい絵画スタイルを採っていたのではないか、と考えられます。「食卓」という作品です。おなじような題材を小山田二郎の作品もあります。並べて比較するのは変かもしれませんが、ドス黒いような感情が底流しているようなところが、写実している余裕がなく、駆り立てられるように描いたという印象の作品ではないかと思います。この池田の作品は、赤い色の鮮やかさが印象的で、それが小山田の作品にはない池田の特徴ではないかと思います。小山田は、このドス黒い感情を乗せるような画面を突き詰めるように追求とていきます。一方、これに対して小山田は、長い時間をかけて画面の鮮やかさの方向に、洗練に向かっていく方向性にあったと思います。その可能性を垣間見せてくれるのが、「十字架」という作品です。あるいは「空中楼閣」というペン画作品です。
Iketatsucross_2  そして、池田は主に米軍基地や原水爆、あるいは炭鉱といった政治性を帯びた社会問題の現場に赴いて取材をして得た実態を作品とするルポルタージュを実践します。池田はインタビューに答えて、次のように語っています。“とにかく現場に行って、空想じゃなくて、事実を確かめたうえで絵を描かなくちゃ、という思いがあったわけです。だから内灘で基地反対闘争をやっていると。どういう状況で何が行われているかを見てみなくちゃということで行ったんです。それでスケッチするんですけど、結局分かったことは、反対といっても網元というのは利益を受けているからね。表向きは村の人と一緒に反対しているけど、本当は浜が接収されて基地になったことを喜Iketatsuuchinada んでいる。そういうことがわかったから「網元」は船をテーマにして、自暴自棄というか、首に縄を巻きつけられた状態で描いている。(中略)僕自身は絵画のルポルタージュが成立したとは思っていないんですね。無局はうまくいっていない。”おそらく、現場で体感したことをすべて絵画にすることの限界、あるいは現実に生成しつつあることを絵画という静止した時間の中で場面としてつくることの限界を感じたのではないか。だから、写実的な描き方や風刺的な描き方をとらず、シュルレアリスムのような画面を組み立てる方向に向かいます。そこに、池田という人の絵画に対する姿勢、メッセージを伝えるメディアとしてではなくて、描くということの自立というような志向が表れてくる。そのプロセスが、池田のルポルタージュ絵画のシリーズを見ていると分かるように思います。池田の発言にある内灘に取材したルポルタージュで「網元」は本人の言っている通りですが、「怒りの海」という作品では、人間の頭が魚になって、しかも人間の身体は縛られているという、シュルレアリスムの要素が強くなっています。
Iketatsu10000  反原爆シリーズから「10000カウント」という作品です。水爆実験のあった南太平洋で漁獲されたマグロがガイガーカウンターで調べられて、一定基準の数値を越えれば放射能に汚染されているとして廃棄された。解説では、網にかかった魚が擬人化され怒りや無念の表情を浮かべていると説明されています。しかし、私には、魚が人間の表情を湛えているとは思えず、むしろ網を均一の太Iketatsuuchinada2 い線で、その網にかかった魚を何種類もの細い線を使い分けて、しかもかなり装飾を加えた、魚の部分だけを取り出してみればゴシックの少女趣味のような線の過剰さが見られるところで、それが様式化されるまで行かずに宙ぶらりんのようになっている。それが画面全体の不安定さとグロテスクさを生み出していると思われるのです。つまり、ルポルタージュのストレートな告発にはなっていないし、かといって美として昇華されているわけでもない。美の方向に向かおうとして中途半端なところで否応なく放り出されて、宙ぶらりんになっている。したがって画面上部の装飾のような模様は意味がなく浮いているし、画面手前の幾何学模様のような渦も無意味です。そういう宙ぶらりんゆえの無意味さという雰囲気が全体を作り出している。それゆえに、この魚の存在の屈折したあり方が表われてくる。池田が語っている、静止した場面ではなくて、生成している現実をとらえて表わそうとしたゆえに、直接的な表現ではないものを試行したのではないか、そう思える作品です。
Iketatsumill  一方、油絵では「ストリップ・ミル」は製鉄所に取材した経験をもとに制作したものと思いますが、ペン画の細かい線の表現から大胆な色彩により、大胆に単純化した図案のような画面になっています。フェルナン・レジェを連想させるような、機械化されたような世界Iketatsumill2 観の画面になっています。ペン画で、多様な細い線を駆使して繊細な表現をしている一方で、油彩画では単純化した、まるで両極端と言えるような画面をつくっていて、これも池田の試行なのではないか、という気もします。というのも、この後になると油彩画は徐々に減っていって、そのかわりに水彩やアクリル絵の具を用いた作品が増えていくからです。
 しかし、レジェの作品と比べると分かりますが、同じように機械的な感じに大胆に単純化していても、池田は形のデフォルメに関しては曲線を使って非対称にするなどレジェよりも大胆なほどですが、レジェのようにかたち自体を抽象化して、それを単純化することによって美の基準に則って昇華させていくところがあります。この作品での機械は個々の機械の個性は削ぎ落とされて、円錐や円柱という幾何学的な形態に収斂していくようなのです。これに対して池田の作品では単純化しても黄色いローラーは、それぞれに個性があるのです。池田の作品ではローラーは円筒形という形に収斂していかない、例えば、黄色のローラーのそれぞれの黄色は微妙に異なっているし、背景に並べられているグIketatsutukumo レーの多数のローラーは、どれも違って描かれています。そこに単に形を伝統的な西洋の美の規則に従わせる。それは、若い頃に美術学校の石膏デッサンに何の意味があると、西洋の伝統的な美の規則の習得をやめてしまった、池田の個性がこのような現われ方をしている、そういう作品ではないかと思います。
 「つくも神」という作品は、その題名とは全く裏腹に、まるで機械のようなデザインは、そうは言っても、池田の感性はレジェに近い、モダニズム周辺にいることは確かではないかとおもいます。それが、伝統的な妖怪のようなものを題材にしたときにあらわになるというところに、この人のもっている屈折、つまり、レジェのように単純に抽象化して美を求めることができない、そこにワンクッションもツークッションも置かなければならない、この人の特性があると思います。この人の作品の一見グロテスクな形態は、その屈折の現われではないかと思えるところがあります。ちょっと先回りしました。
Iketatsum38  この後展示は、一旦展示室を出て2階に昇ります。そうすると、細い線で丁寧に描かれた、一見ではグロテスクな形態のペン画が並んでいました。「ゴム族」という作品の泡のような人間の姿は、難波田史男の初期の思春期の不安定な心情を反映したような、アンフォルメルな作品に描かれた人の形を連想させられるものでした。とはいっても難波田の作品の方が後の時代に制作されたので、この言い方はおかしいと映るかもしれませんが。しかし、同じような形態でありながら、難波田の作品は水彩画の特徴である絵の具の滲みの効果を多用した輪郭のぼんやりした画面を作っています。それが形の定まらない安定さが、心の不安定や内面の幻想的な風景を投影しているような印象を見る者に与えています。これに対して、池田はペンで描いているので、水彩絵の具の滲みとは正反対に明瞭な線によって輪郭をカッチリ引かれています。したがって、ぼんやりとした画面ではなく、隅から隅まで明確に描き込まれている画面になっています。したがって、そこに不安定さの印象はなく、むしろ画面はすっきりとしていて、画面自体で完結しているように整理されている印象を受けます。つまり、難波田の作品は、表現衝動が先走っていて、それに描かれた画面がついてNambatafusyou いっていない、それが、画面の曖昧さになって、見る者に不安定な印象を与えているわけです。これに対して池田の作品は、表現衝動に対して画面が追いついている、もしくは追い越していて、曖昧なところを残さずに画面では整理されて、安定した秩序のようなものが画面にはあるのです。それは、難波田と池田の巧拙の違いといったことではなく、難波田の画面は水彩絵具が滲む中間的な過渡的ともいえる、シロクロつけにくい状態が画面の大半を占めているのに対して、池田の作品は線というシロクロのはっきりしたもので画面が作られているからです。とくに池田の線は水墨画のような筆でひかれて、滲んだりかすれたりする有機的な印象の線ではなく、均一で無機的な感じの線です。線それ自体に意味があるように見えないので、したがって、その線は明確な形態を描くようになっていないと、作品にならない。池田の作品は表現衝動は強くあるのでしょうが、その衝動という目的が、明確な形として表現されないと成立しない、そういう作品を作っている画家であると思います。だから、池田の作品には、難波田のような画家が作品に没入するという面、画家の一部を取り出しているとか、作品と一体化しているといったことはなくて、画家と作品の間には一定の距離があるのです。
Iketatsugiant  Iketatsumizuki 展覧会ポスターで大きく引用されている「巨人」という作品について、この感想の最初のところで、水木しげるの妖怪マンガの百目とよく似ているが、池田の作品には軽さがあると述べたのは、この作品と画家の距離のことが大きく要因していると思います。「巨人」のリンク画像は拡大できるので、そうして見てみると、例えば、首筋の筋肉の凸凹のところの影のところなど、細い線が無数に引いてあって、それがあつまって距離をおくと影のようになって、それで首が立体的に見えてくる。顔の目の出っ張りや窪みもそうです。ですから、この作品は、そういった微分された細部のシロクロが集まって首の凹凸にみえるというような、つくりになっています。そこに周到な計算と設計が働いている。画家はそれを意図的に意識してやっているとは限りませんが。また、この「巨人」の顔面の無数の目は、水木しげるの妖怪百目とは違って、それぞれが違います。大きさや形、上下の向き、あるいは何を見ているのかといったことが別々です。それゆえ、この作品は無数の目が集まって不気味な顔になっている、というところから、実は目があちこちに分散拡大して、画面の整理されたような秩序を壊しているのです。つまり、表現衝動という目的を表現という手段が凌駕して、目的外のことを表現が自立してやろうとしている、この画面はそう見えます。
Iketatsuline  「行列」という作品です。目、鼻、耳、口とバラバラにされた化物たちが奇妙なカーニバルに興じている。それらの眼前に切り立った崖が広がっている。ナンセンスな面白味のある作品ということです。しかし、この説明にあるようなところを画面が上回っています。例えば、単に顔のパーツを目、鼻、耳、口に分けたというだけではなくて、目と鼻は足が2本で歩いていますが、鼻は胴体と手足があります。口は胴体らしきものと2本の足ですが手は一本しかありません。また、目と耳は2本の足で歩いているところは同じですが、その足の逞しさが違うし、耳の足の付け根には性器のような突起も見られる。その違いに意識的な意味はないかもしれませんが、しかし、単に、顔のパーツを別々にして並べて行列にした、ということ以上のことを、この画面は作っています。
 今見た3つの作品は《化物の系譜》というシリーズの連作の一部です。連作には他にも作品がありますが、これらが単独の作品ではなく、シリーズとなっているというところに、テーマでも対象でも何かを描くという目的(表現衝動)があって、それを満たすには、一つの作品では十分ではなくて、いくつかの作品をまとめることによって目的を満たそうとする。池田の作品がシリーズになっているのは、この《化物の系譜》以外にも、いわゆるルポルタージュ絵画にもありますが、そういう意味合いも否定できませんが、この《化物の系譜》を見ている限りでは、個々の作品の描くという手段が目的を凌駕して、一つの作品を超えようとしている方向があって、それを一つの作品より高次の目的をシリーズとして設定して、かろうじて意識としてまとめているようにも思えます。
Iketatsuarea  そういう傾向があるとして、シリーズ化されていない単体の作品をみると、作品の細部が俄然面白くなってくると思います。「現場」という作品です。90×180㎝という比較的大きな作品です。配管のパイプのようなものが無数に並べられている工事現場のような雰囲気です。この薄暗いグレーの画面ですが、そのパイプはもとより、背景になっている四角形の幾何学的なブロックのようなところ、奥は黒く、暗くなっていますが、これにすべては無数の細い線で描かれていて、墨やインクをベタ塗りしているところはありません。例えば、パイプの表面に、パイプの継ぎ目とも模様とも傷とも分かりませんが、細い線が一見無秩序に無数に引かれています。その線の網目が稠密になれば影のようになって見えてきますが、逆が網目があらくなるとパイプの表面が光っているように見えます。しかも、その傷のように線の引かれているのが表面のザラザラした感触のようなイメージをつくっています。それが近寄って見ると繊細な線のアラベスク模様になっている。それゆえにかもしれませんが、画面全体はすっきりしたモダニズムのポスターのような印象になっています。
 この展覧会の最初の序章のようなコーナーで見た、メッセージが前面に出て独り歩きしているような作品や、解説に書かれている画家本人の言説を見る限りでは、池田という人は、メッセージ性の強い制作を志向するタイプの表現衝動の強い人のようです。それは、このコーナーで見たルポルタージュという手法をやろうとしていることからも分かります。絵画を手段として、何かを告発したり、マニュフェストのようにしたりと、絵画の視覚的な情報以外の例えば言葉による物語とか主張のような情報を描くという表現を手段として人々に伝えようとする。そういう志向性の強い人のように思えます。たしかに、ここに展示してある作品は、そういうように描こうとされているのは、よく分かります。しかし、それがだんだんと描くという表現が、池田の志向性を越えてしまおう、表現が独り歩きしようとしてくる、その萌芽が、このコーナーの後半で紹介した作品に見え隠れしてくるように、私には思えます。それ以前にも、メッセージ性の強い作品というのは、私の偏見かもしれませんが、画面は泥臭くなってくることが多いのですが、池田の作品は軽さというのか洗練されたすっきりとした風通しよさのような感じがしています。それが、私にはメッセージ性とか作者の思いといったこととは違うところで、画面を見たくさせるのです。私には、それが池田の作品のユニークさのような気がするのです。

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