無料ブログはココログ

« 戦後美術の現在形 池田龍雄展─楕円幻想(3)~第1章 芸術と政治の狭間で | トップページ | 戦後美術の現在形 池田龍雄展─楕円幻想(5)~第3章 越境、交流、応答、そして行為の方へ »

2018年10月18日 (木)

戦後美術の現在形 池田龍雄展─楕円幻想(4)~第2章 挫折のあとさき

20061230_274229  1950年代後半から冷戦が始まったり、日本の戦後復興が進んだりして、戦争やその体制への反省が等閑にされ、うやむやにされていくような社会の変化に、池田の理念や思いが先行するような、その方向がいずれであるにせよ、主意主義的、あるいは頭でっかちの作品は、時代とズレていった。あるいは欧米から最新流行のゲイジュツが輸入されると人々は軽薄にも、そっちに飛びついてしまい、池田は取り残される。それが、この時期の池田の位置付けのようで、本人もそう感じたらしいので、挫折というコーナー・タイトルが当てられています。“芸術と政治の場における挫折は、社会と自分自身の間にある解消しようもない決定的なズレを生じさせ、社会をテーマとしたこれまでの制作を困難なものとした。”と説明されていました。
Iketatsugroup  「むれ」という作品。《禽獣記》という1950年代後半に制作されたシリーズは、擬人化された獣の連作と説明されていますが、むしろ前のコーナーの《化物の系譜》に比べて、譬えられている人間との関係が遠くなっていて、獣そのものの形がデフォルメされて、抽象度が高くなってきているように見えます。私には、池田という作家はアタマでこのように作品をつくっていこうと考えることと、実際に描くということの間にズレがあるように思えるのです。こういう作品にしようと構想するときに、造形的なところよりも、視覚以外の情報、例えば言葉によるメッセージとか理念とか思いと言った事によって構想されて、それを表わすために描くという作品の作り方をしていて、その描くということを構想しているアタマがコントロIketatsugiant ールしきれない。それが、たとえば作品の洗練されスッキリした風通しのよさにある表面的な仕上げなどに端的に表われているのではないかと思います。解説では、池田の挫折という説明がされていますが、状況の変化などで池田のアタマの部分が行き詰ったということなのかもしれませんが、作品を見ている限りでは、その描くということをコントロールすることが、できなくなって、アタマで考えるということから、描くということ、視覚的な造形の論理で画面を組み立てていくことのほうに重心が移っていったのではないか、というように見えます。しかし、池田自身としては、それを肯定できないので、迷走するように見える。この「むれ」でも様々な動物を変形させて、組み合わせて、ここの動物のパーツがあっちこっちに入り乱れて、頭と脚かチグハグになって見えるのは、ピカソの「アヴィニオョンの娘たち」を連想させます。しかし、形が何となくキマッていない。線が。以前の無機的な直線のあつまりだったのが、曲線が多くを占めるようになって、未だこなれていないというか、それまでの細い線が緻密になって、繊細な画面を作り出すというところには至っていないように見えます。
Iketatsumask  1960年頃から始められた《百仮面》のシリーズについて“人が社会的な役割を演じるためにかぶる仮面に焦点を当てている。「仮面こそ、ほんとうの顔をとらえるための唯一の手がかりではないか」と池田は言う。社会やグループの中で自己をつむいできた池田にとって、仮面は自己そのものであった。こうして外側に向けられていた池田の視線は、人間の存在や、自らの内側へと向けられていった。”という解説がされていますが、池田自身の言説は、弁解じみているというのか、できてしまった作品について後追いでもっともらしい理屈をつけているようになってしまっている。それほど、作品が変わってきている、考える方が私には自然に思えます。そのシリーズの「百仮面D」という作品です。ひとの頭部に沢山の目があるという題材は、以前に見たと思います。この展覧会のポスターにも使われている「巨人」という作品です。それと印象が、どれほど異なることか。その大きな違いは、202x300 「百仮面D」の方は目が丸いということです。目ではなくて目玉です。そうすると円形という幾何学的な形のバリエイションとなって、形のあそびの性格が強くなります。それは目玉のおさまっている頭部に目の窪みによる凹凸ではなく文様ができているところなどに表われています。「巨人」では卵型の頭部に多数の目を収めるために、造形として無理しているようでしたが、「百仮面D」ではむしろ頭部を変形させて、多数の目玉を描くことを優先しているように見えます。しかも、目玉という円形と頭部の輪郭はあるいは、目玉を収めている文様が曲線で描かれているのに、そのなかの陰影などは細かく直線が使われている。その線のバリエイション。これは、見ていて感心してしまうほど凄い。そういう視覚的な面白さに満ちていて、それは以前の告発するような作品には、あまり見られなかったものです。
Iketatsumask2  「百仮面C」という作品は、奈良美智の不気味な少女のキャラクターを連想させるような、その少女の目と口の表情によく似ている切り込みの入った卵型の物体。その金属的な表面のザラザラした感触が伝わってくるようです。そして、池田の作品では、このような金属的で冷たい感触なのだけれど、表面がザラザラしているというのが、この人の作品にもっとも適合的な感触、それはつまり、池田の作品には、触覚の体感が備わっていて、それがアタマで考えたメッセージなどに対するギャップを作り出しているといえる遠見います。
 「あなたに似た顔」という作品では、その横長にデフォルメされた顔の形態よりも、点描による細かい描写と、砂の中に小石がまじっているかのような、点描のなかに大小の楕円が入っていて、単なる点描だけではなく、表面が細かく凸凹している。それが背景の線で細かく描き込まれている横じまと拮抗しあうようになっているという、画面の造形のロジックで楽しむことができる作品になっていると思います。そこには展覧会の説明にあるようIketatsuyou な“人間の存在や、自らの内側へと向けられていった”視線とは、違うような気がします。ただし、池田自身は、そういう視覚的な遊びをふくめて画面を視覚的につくってしまう自らの資質を自覚し始めたのが、こうして作品に表われている。ただし、池田のアタマはそれを肯定できていたか、分かりませんが。そうであれば、このような仮面などとまどろっこしいことをしないで、形態優先でコンポジションとかいったことをやっていてもおかしくはないはず、と思いました。
 「米」という作品。これはシリーズではない、単独の作品です。米粒の輪郭のなかにコラージュでさまざまなものが投Iketatsurice_2 げ込まれていて、以前のルポルタージュさながらに、稲作や農家をめぐるさまざまなものがぶち込まれて渾沌とした様相を呈しています。しかし、不思議なことに、それが渾沌としてゴチャゴチャになって汚らしくなることがなく、見た目はスッキリしているのです。それが池田という画家のセンスの真骨頂であると思います。
 「U字型の構図」という《玩具世界》というシリーズ連作のひとつですが、1960年代後半の制作で、作品の仕上げは洗練度を高めて、モダンなデザインという印象が強まってきます。私には、池田というひとは、こういう感覚をもっていた人ではないかと思えます。それが、初期の段階ではアタマでいろいろ考えて、それを素直に出すことができなくて、おそらく、こういう、ある意味ではモダンでお洒落な感覚といえそうな画面に対しては、自身では認めたくなかったのではないかと思えるのです。この無機的で、人間的な情緒を削ぎ落Iketatsuu とした機能美みたいなところは、戦争の兵器なんかに典型的なもので、池田としては受け容れ難いセンスであったかもしれません。これは、私の妄想かもしれませんが、そういう葛藤が一時的に作品制作から遠ざかることになったのではないか。それは、次のコーナーの展示のテーマということになります。

« 戦後美術の現在形 池田龍雄展─楕円幻想(3)~第1章 芸術と政治の狭間で | トップページ | 戦後美術の現在形 池田龍雄展─楕円幻想(5)~第3章 越境、交流、応答、そして行為の方へ »

美術展」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 戦後美術の現在形 池田龍雄展─楕円幻想(3)~第1章 芸術と政治の狭間で | トップページ | 戦後美術の現在形 池田龍雄展─楕円幻想(5)~第3章 越境、交流、応答、そして行為の方へ »