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2018年10月20日 (土)

戦後美術の現在形 池田龍雄展─楕円幻想(6)~第4章 楕円と梵

Iketatsuellipse  この美術館の建物は1階のロビーが吹き抜けになっていて、そこに大きな階段があるのですが、それに従って2階の展示室も吹き抜けのロビーによって2つに分断されています。私には、空間の無駄遣いで、その分の展示スペースが減ってしまっているとしか思えません。この練馬区美術館の建物は、展示スペースとしては使い勝手が悪そうな感じです。今回の展示では、2階の展示室の分断を利用して、第3章の袋小路のような展示から第4章の展示の間に、この吹き抜けによる分断を挟むようにしていました。ちょうど第3章の展示が終わって、吹き抜けのところの廊下を歩く数秒で気分がかわって、この第4章の展示に接すると雰囲気が転換したことに気付くことになります。
 1024x761 池田は、再び絵画に戻ってきて描く始めるといったことでしょうか、ここに並んでいる作品は、もともと池田の持っていた画面を洗練されたスッキリしたものにするセンスを、推し進めていって、以前には、おそらく抑制していた巧く描くということを、抑えることなくすなおに発揮させた作品でした。
 「楕円空間」という作品は、シリーズでもありますが、シンプルでスマートな幾何学的な楕円のデザインのようですが、よく見ると塗ってある模様が池田の生き物で埋め尽くされています。それが、細部の過剰にならないで、全体としてはスッキリした仮面になっているのです。それゆえに、見る者にとっては、安心して鑑賞できるという作品になっています。おまけに、“完全無欠な円ではなく、2つの焦点を持つ楕円の軌跡は、葛藤を繰り返し、摩擦を起こし、対立を起こしながらも、美しく、あるいは醜く、哀しく、また楽しく生きる人間の営みをイメージさせる。”といった哲学的なもっともらしい説明まで加えられています。中心をずらしように楕円が重ねられ、その楕円の内部には、ことなった細部がビッシリと描かれて、しかも、細部の過剰とならずにすっきりと収まってまとまっている。そして、その一番内側に円形が真っ黒に塗られて、まるでブラックホールのように、外側の楕円のなかに描かれている細部が、この黒い穴に吸い寄せられるように、その方向を向いているように見えます。これはひとつの象徴なのかもしれませんが、この作品には、画面全体が黒い穴にむかっていくような運動が内包されていて、それは形をこの穴が吸い込んでしまおうとしている。こじ付けかもしれませんが、池田の制作の姿勢が何かをメッセージを込めて描くということに不可欠な具体物の形象といったものをブラックホールの虚無の穴が吸い込もうとしている。そういう物語を想像する誘惑にかられたりもするのです。
Iketatsuellipse3  《楕円空間》リーズの「楕円空間(№3)」という作品をみると、その物語の想像は一筋縄ではいかなくなります。小さくなった黒い穴から赤い塊が尾を引くようにして飛び出してきています。これは、ブラックホールに吸い込まれたものたちが、再び現われ出たのでしょうか。この赤い塊のかたちのデザインは、水木しげるの妖怪マンガのひとだまのかたちにそっくりなことを思い出しました。この画面では、背景の虚無の闇をバックに赤が映えて印象的です。
 2階の展示室が分断されていて、この第4章のコーナーの展示に入る前に廊下を歩く数秒間のひと休みがありましたが、そのギャップにより、作品は、その前には抑制されていたのでしょうか、絵画の描かれた作品自体の自律性が、ここではモロに現われてきていて、池田という画家は、もともとそういうものを持っていたのを、この人はきっと真面目に社会とか人生とかを理想で考えていて、描くということをそれと無理をしてでも結び付けていた、「そうあるべき」という考え方でですが。それが、以前の作品の世界です。そこにも、作品表面の仕上げが洗練されているとか、画家の本能的なものが抑えきれず表われていることはありましたが、ここに至って、それがすなおに出たという感想です。だから、池田の作品は、私には絵画という概念から考えると保守的な性格のもので、主催者あいさつにあるようなアバンギャルドとか時代ときりむすぶ、というものとは逆に、画面自体がそのようなこととは無縁に自律し自足しているものではないか、思えます。だからこそ、このコーナーの展示は私には圧巻でした。
Iketatsubrahman  このコーナーでは、さらに1973年から15年をかけ全10章300点以上で構成されているという《BRAHMAN》のシリーズが、その一部なのでしょうが、展示室を埋め尽くすように展示されていました。展覧会のポスターやチラシには、その作品の引用はありませんでしたが、疑いもなく、この展覧会の中心は、この第4章の展示です。池田という画家の真骨頂を、私は、このシリーズに見ます。そのひとつひとつもさることながら、膨大な量に圧倒されてしまいました。
 ここで、それらの作品のイメージの洪水に溺れてしまうように茫然と立ち尽くして時間を忘れてしまうほどで、それはこの展覧会の会場でしかおそらく体感できないもので、おそらくネット等で、この展覧会の感想を検索しても触れられていないものでしたが、私には、稀有な経験をさせてもらったし、池田という作家の真骨頂はここにあるのではないかと思いIketatsubrahman1 ました。これを、感想として言葉にしにくいものですが(もともと、視覚的なものを言葉にすることは簡単ではないことなのでしょうが)。ひとつの手がかりとして、展覧会の解説で、この連作を物語のようにして説明しているところがあるので、長くなりますが引用します。“まず、シリーズは両性の性器のイメージから始まる。なめらかなフォルムに磨かれた、ほとんどリアリスティックな描写で、両性器がキマイラのようにひとつの生命体になって虚空に浮かぶ。両面の軸を中心線から対角線へと移動させながら、ほぼシンメトリーを保ち、両性器は円の中に凝集する形へと向かう。それは第2章の《宇宙卵》に引き継がれて、やわらかい有機質に侵入する触手がIketatsubrahman112 生じ、運動が加速する。球体となって互いに触手を伸ばしあい、隣接する球に侵入し、空に向かい、分岐していく、球は運動して分裂し、第5章《点生》では宇宙的な空間に出て、透明で直線的な異質な世界と出会う。それらは成長し、肉状、ゲル状、星雲状と様々に変貌していくが、ここで注目されるのは、それらのなかの穴である。最初は性器のようだったのが、ブリューゲルの絵に池田が見た眼窩の「不思議な「穴」」のように、幾重にも折りたたまれて異次元につながっているかのように奥まっていく。触手でもあり穴でもある。それは池田が「内側と外側とがひとつながりになっている宇宙」と書いたこと1111111 に通じるだろう。内部でもあり外部でもあるような、網のように、襞のように、亀裂のように、あらゆる穴の多様が描きつくされる。球はもはや表裏が回転し、穴でもあり触手でもあるそれらは別のものたちし出会い直し、速度を上げて多重空間を越境する、グレーの薄明の虚空に、音楽が鳴り響いているようだ。”といったような呪術的な神話世界の宇宙創成のものがたりを、そこに紡ぎ出すことは、ありだと思います。
 この連作は、ひとつひとつの作品に個別の題名がつけられていないので単独の作品とは考えられていないのかもしれません。“これらは1点ごとに完結するのではなく、相互に関連し合い、1点が部分であり全体でもあるという構想で制作されている。その多くが宇宙を思わせる灰色が空間を持ち、軟体動物のようなぬるりとした滑らかな物体が浮遊し,漂っている。人肌や内臓の器官を思わせる質感は、この頃から使い出したエアブラシによって表現されたものだ。”という説明がありましたが、そうすると、個々の作品を取り上げてそれを語っていくというのは、作品に沿っていないかもしれません。
Iketatsubrahman11  「第1章 梵天」から、黒い正方形をバックに白い枠線と対角線が引かれ、その中心に円形の図案が描かれるというパターンの作品がいくつかあって、そのなかで、その円形の描かれているかたちが、あきらかにおまんこマーク、で、このパターンは、そのバリエーションのように見ることができるものです。これって胎蔵界曼荼羅ですよね。それを画家は滑らかで柔らかい質感で、その襞を細かく陰影をほどこして精緻に描きこんでいます。しかも、構図は完璧に近いシンメトリーになっていて抽象化、理念化しましたといわんばかりです。しかし、ここにはりつけた作品だけをみていると微妙にこまかいところで、シンメトリーを崩していて、死かも、そうとは見えないようにしています。そういうころも含めて、上述の大きなものがたりとは別に、画家がこのおまんこマークのいくつものバリエーションをエアブラシをもちいて、細かいところを目を皿のようにして執拗に描きこんでいる姿を想像すると、鬼気迫る反面滑稽な姿を想像してしまうのです。この「第1章 梵天」からもうひとつ、正方形での画面の円形図案のパターンによらないものは、おまんこマークKanolion2 に対して男性性器のファルスの図案化したようなかたちです。私は、この「第1章 梵天」の抽象的な図案化された作品を見ていて、加納光於のインクを水面に流して、それを画面に掬い取って定着させたような形も色彩の変化も流動的に移ろいを含みこんだ作品を思い出しました。加納はそれを即興的に作ってしまいますが、池田はそれを時間をかけて精緻に構築するように描き込んで作っているのが大きな違いですが、そこに滑らかな動きを内包している点で共通点を感じます。しかし、両者の違いは、加納はかたちをくずして流れ出そうとするダイナミックな方向であるのに対して、池田はかたちに収斂しようとする方向を感じさせます。それが、池田の画面にある中心の空虚な穴のような部分です。そこに向かって画面が収斂するようになっている。だから、質感は滑らかで柔らかいのですが、幾何学的なかたちは強固で崩れそうもない。
Iketatsubrahman2  それが「第2章 宇宙卵」になると、細胞分裂で円形の単性細胞が分割して幾夜にして、形が崩れ始めます。それは、強固な形が溶けて流れ出す瞬間のように見えます。それは、この滑らかで柔らなそうな形が内包していた動きが、抑えきれなくなって流れ出した瞬間のようです。したがって、構図はシンメトリーにしたがってまずあって、それが崩れるところが明らかにわかるように構成されています。注意すべきは、これらが徹頭徹尾明確に図案のようにかたちになっていて、神秘的なところが微塵もないところです。だから、かたちはあくまでもかたちで、そのロジックで画面が完結していると思えることです。そこに神話とか伝説といった絵画の外の典拠を求める必要がないということです。画面をみているだけで、自然と次の作品の変化につながって移行していけるように作品が出来ている。
 「第3章 球体浮遊」では、画面が正方形の枠から流れ出て縦横に広がります。このように流れ出すようになりながら、池田は円形を崩そうとしません。明解なかたちということが池田の本質的な特徴であることが、ここでも分かります。それは、さきほど比較した加納光於であれば、最初は幾何学的な図形のような形からIketatsubrahman3 出発したとしても、それが流れ出すと跡形もなく溶解してしまい、色彩のグラデーションの鮮やかさが前面に出てきたりするのです。しかし、池田は鮮やかな極彩色は使うことなく、円形が崩れても、他の明解なかたちに変形していくという、いずれにしても明解なかたちを備えています。そして、ここで貼り付けている画像の作品では、流れている白いものの中心のところに黒い目のような穴があり、また画面左端に円形の背後に黒く丸い穴がブラックホールのように存在しています。
 「第4章 螺旋粒動」では、崩れないで残っている円形が層になったり、いくつも粒のよIketatsubrahman4 うに連なって動き回るように様々な形をつくっていきます。それが、どんなかたちになっていても円形からの変形であることがはっきりと分かります。それは、譬えて言えば、数式が法則にしたがって、展開されて、別の数式を派生して生み出していくようなものです。「第5章 点生」では、その形が溶解するように円形を崩していきます。「第6章 気跡」では線、という形の輪郭を構成していたものが、それで独立したものして画面に入ってきます。その反面、第4章以降の円が溶解したのに続いて、その形を形としてハッキリさせている線が独り立ちする。「第7章 結象」では、それをミクロの視点でみると、まるで細胞分裂するように、個々の細胞核が、円から個性的で不定形に変形しています。そのあとは形の内部の充実というか、輪郭で枠取りされたかたちの内側が細かく描かれていきます。一方で「第9章 褶曲」では、それまでの線で輪郭をめいかくにした形をつくるということが崩れた、というより溶解するといったニュアンスでしょうか。そういう方向にいっているような画面です。
Iketatsubrahman5 この《BRAHMAN》のシリーズもそうなのですが、紙にアクリルで描いているということもあるのですが、このシリーズを通して、きれいに仕上げられているということ。これは、池田という作家の誠実なところというべきなのでしょうが、それよりも、絵画はきれいに仕上げなければいけないというセンスという性分で、表面上きれいに仕上げるという、その点での保守的なところ。池田という人には、土台にはそういう保守的なところがあって、それを絶対に崩すことはなくて、その枠の中でアバンギャルドなことを試行している、と私には見えます。それは、この《BRAHMAN》のシリーズの、展示されている作品にも共通して見ることができると思います。これらの作品は、抽象的だったり、様々なイメージが展開されていますが、それらの一部が突出してしまうような過剰なところはなくて、すべての作品はちゃんとまとまっている。収まるところに収まっているのです。例えば、表面のきれいさが追いつかなくて、きたなくなってしまうようなことは絶対にない。だから、池田のアバンギャルドというのは、アバンギャルドとはこういうものだという枠の中で、アバンギャルドしている。だから、見るほうは安心してアバンギャルドなところを楽しむことができるのです。

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