戦後美術の現在形 池田龍雄展─楕円幻想(6)~第4章 楕円と梵


「楕円空間」という作品は、シリーズでもありますが、シンプルでスマートな幾何学的な楕円のデザインのようですが、よく見ると塗ってある模様が池田の生き物で埋め尽くされています。それが、細部の過剰にならないで、全体としてはスッキリした仮面になっているのです。それゆえに、見る者にとっては、安心して鑑賞できるという作品になっています。おまけに、“完全無欠な円ではなく、2つの焦点を持つ楕円の軌跡は、葛藤を繰り返し、摩擦を起こし、対立を起こしながらも、美しく、あるいは醜く、哀しく、また楽しく生きる人間の営みをイメージさせる。”といった哲学的なもっともらしい説明まで加えられています。中心をずらしように楕円が重ねられ、その楕円の内部には、ことなった細部がビッシリと描かれて、しかも、細部の過剰とならずにすっきりと収まってまとまっている。そして、その一番内側に円形が真っ黒に塗られて、まるでブラックホールのように、外側の楕円のなかに描かれている細部が、この黒い穴に吸い寄せられるように、その方向を向いているように見えます。これはひとつの象徴なのかもしれませんが、この作品には、画面全体が黒い穴にむかっていくような運動が内包されていて、それは形をこの穴が吸い込んでしまおうとしている。こじ付けかもしれませんが、池田の制作の姿勢が何かをメッセージを込めて描くということに不可欠な具体物の形象といったものをブラックホールの虚無の穴が吸い込もうとしている。そういう物語を想像する誘惑にかられたりもするのです。

2階の展示室が分断されていて、この第4章のコーナーの展示に入る前に廊下を歩く数秒間のひと休みがありましたが、そのギャップにより、作品は、その前には抑制されていたのでしょうか、絵画の描かれた作品自体の自律性が、ここではモロに現われてきていて、池田という画家は、もともとそういうものを持っていたのを、この人はきっと真面目に社会とか人生とかを理想で考えていて、描くということをそれと無理をしてでも結び付けていた、「そうあるべき」という考え方でですが。それが、以前の作品の世界です。そこにも、作品表面の仕上げが洗練されているとか、画家の本能的なものが抑えきれず表われていることはありましたが、ここに至って、それがすなおに出たという感想です。だから、池田の作品は、私には絵画という概念から考えると保守的な性格のもので、主催者あいさつにあるようなアバンギャルドとか時代ときりむすぶ、というものとは逆に、画面自体がそのようなこととは無縁に自律し自足しているものではないか、思えます。だからこそ、このコーナーの展示は私には圧巻でした。

ここで、それらの作品のイメージの洪水に溺れてしまうように茫然と立ち尽くして時間を忘れてしまうほどで、それはこの展覧会の会場でしかおそらく体感できないもので、おそらくネット等で、この展覧会の感想を検索しても触れられていないものでしたが、私には、稀有な経験をさせてもらったし、池田という作家の真骨頂はここにあるのではないかと思い
ました。これを、感想として言葉にしにくいものですが(もともと、視覚的なものを言葉にすることは簡単ではないことなのでしょうが)。ひとつの手がかりとして、展覧会の解説で、この連作を物語のようにして説明しているところがあるので、長くなりますが引用します。“まず、シリーズは両性の性器のイメージから始まる。なめらかなフォルムに磨かれた、ほとんどリアリスティックな描写で、両性器がキマイラのようにひとつの生命体になって虚空に浮かぶ。両面の軸を中心線から対角線へと移動させながら、ほぼシンメトリーを保ち、両性器は円の中に凝集する形へと向かう。それは第2章の《宇宙卵》に引き継がれて、やわらかい有機質に侵入する触手が
生じ、運動が加速する。球体となって互いに触手を伸ばしあい、隣接する球に侵入し、空に向かい、分岐していく、球は運動して分裂し、第5章《点生》では宇宙的な空間に出て、透明で直線的な異質な世界と出会う。それらは成長し、肉状、ゲル状、星雲状と様々に変貌していくが、ここで注目されるのは、それらのなかの穴である。最初は性器のようだったのが、ブリューゲルの絵に池田が見た眼窩の「不思議な「穴」」のように、幾重にも折りたたまれて異次元につながっているかのように奥まっていく。触手でもあり穴でもある。それは池田が「内側と外側とがひとつながりになっている宇宙」と書いたこと
に通じるだろう。内部でもあり外部でもあるような、網のように、襞のように、亀裂のように、あらゆる穴の多様が描きつくされる。球はもはや表裏が回転し、穴でもあり触手でもあるそれらは別のものたちし出会い直し、速度を上げて多重空間を越境する、グレーの薄明の虚空に、音楽が鳴り響いているようだ。”といったような呪術的な神話世界の宇宙創成のものがたりを、そこに紡ぎ出すことは、ありだと思います。



この連作は、ひとつひとつの作品に個別の題名がつけられていないので単独の作品とは考えられていないのかもしれません。“これらは1点ごとに完結するのではなく、相互に関連し合い、1点が部分であり全体でもあるという構想で制作されている。その多くが宇宙を思わせる灰色が空間を持ち、軟体動物のようなぬるりとした滑らかな物体が浮遊し,漂っている。人肌や内臓の器官を思わせる質感は、この頃から使い出したエアブラシによって表現されたものだ。”という説明がありましたが、そうすると、個々の作品を取り上げてそれを語っていくというのは、作品に沿っていないかもしれません。



「第3章 球体浮遊」では、画面が正方形の枠から流れ出て縦横に広がります。このように流れ出すようになりながら、池田は円形を崩そうとしません。明解なかたちということが池田の本質的な特徴であることが、ここでも分かります。それは、さきほど比較した加納光於であれば、最初は幾何学的な図形のような形から
出発したとしても、それが流れ出すと跡形もなく溶解してしまい、色彩のグラデーションの鮮やかさが前面に出てきたりするのです。しかし、池田は鮮やかな極彩色は使うことなく、円形が崩れても、他の明解なかたちに変形していくという、いずれにしても明解なかたちを備えています。そして、ここで貼り付けている画像の作品では、流れている白いものの中心のところに黒い目のような穴があり、また画面左端に円形の背後に黒く丸い穴がブラックホールのように存在しています。

「第4章 螺旋粒動」では、崩れないで残っている円形が層になったり、いくつも粒のよ
うに連なって動き回るように様々な形をつくっていきます。それが、どんなかたちになっていても円形からの変形であることがはっきりと分かります。それは、譬えて言えば、数式が法則にしたがって、展開されて、別の数式を派生して生み出していくようなものです。「第5章 点生」では、その形が溶解するように円形を崩していきます。「第6章 気跡」では線、という形の輪郭を構成していたものが、それで独立したものして画面に入ってきます。その反面、第4章以降の円が溶解したのに続いて、その形を形としてハッキリさせている線が独り立ちする。「第7章 結象」では、それをミクロの視点でみると、まるで細胞分裂するように、個々の細胞核が、円から個性的で不定形に変形しています。そのあとは形の内部の充実というか、輪郭で枠取りされたかたちの内側が細かく描かれていきます。一方で「第9章 褶曲」では、それまでの線で輪郭をめいかくにした形をつくるということが崩れた、というより溶解するといったニュアンスでしょうか。そういう方向にいっているような画面です。


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