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2018年10月 2日 (火)

内部監査担当者の戯言(15)

 10月1日にノーベル賞医学生理学賞の受賞者が発表されて、内定者の記者会見とともにテレビや新聞で大きく報じられました。その中のやりとりで、記者の「研究者を目指す子どもに思ってほしいことは?」という質問に対して「研究者になるということにおいていちばん重要なのは、何か知りたいと思うこと、不思議だなと思う心を大切にすること。教科書に書いてあることを信じない。常に疑いを持って、本当はどうなってるんだ、という心を大切にする。つまり、自分の目でものを見る。そして納得する。そういう若い小中学生にぜひ、研究の道を志してほしい思います」と答えていました。これは学問とは、そもそもそういうもので、タテマエとして何ら問題はないことなのですが。それをあるテレビ局の放送の中で、その発言をさも感心したかのように称揚するするように取り上げていました。
 発言した本人は、その前の質問でも、研究者の心得として、「私自身は、研究に関して、何か知りたいという好奇心がある。もう1つは、簡単に信じない。それから、よくマスコミの人は、ネイチャー、サイエンスに出ているからどうだ、という話をするが、僕はいつもネイチャー、サイエンスに出ているものの9割はうそで、10年たったら、残って1割だと思っています。まず、論文とか、書いてあることを信じない。自分の目で、確信ができるまでやる。それが僕のサイエンスに対する基本的なやり方。つまり、自分の頭で考えて、納得できるまでやると言うことです」とも言っていたので、それと一貫しているし、この人のモットーとしていることなのだろうと思います。
 しかし、これを、もし自分が実践するとしたら、それは現実の社会では、混乱を招くことになるような過激な内容を含んでいることは、少しでも考えれば分かることです。こんなことはありえないでしょうが、この記者会見に感動した小中学生が、一斉にこの言葉を実践したとしたら、教科書に書いてあることを信じないで、それを常に疑うことなるわけです。そうしたら現在の学校の授業は崩壊します。教科書の内容を疑っている生徒に対して、それは正しいということをちゃんと説明できる人が現実にどれだけいるか。それだけ、いまの学校もそうですが、会社も、もっとひろくいうと社会も、教科書に書かれていることは無条件に正しいと鵜呑みにして、疑問を感じないことで成り立っているのが実情だろうと思います。その中で、学校教育というのは、そういう社会に適応させる訓練のためのものというもので、教科書に疑問をもつような子供がいたら、その疑問を封じ込めるというのが実際の授業で、学校での成績優秀者というのはそれによく適応した者のことを言っている。かなりシニカルな言い方をしていますが、実際にそんなものだろうと、納得できるのではないかと思います。
 こんなことを言っているからといって、受賞者を貶めようとか、発言の揚げ足を取ろうというのではありません。ご本人は受賞の喜びに包まれて、気分の高揚しているところで、多少興奮して、話をしているので、それはそれで、微笑ましい光景だとおもうくらいの常識はわきまえているつもりです。
 しかし、その発言を鵜呑みにするように感心してしまうようなことは、実は、この発言をちゃんと聞いていないということになるのではないか。そう思ったということです。
ご本人は正しいかどうかをじぶんで考えて判断しなさいと言っているのですから、この発言に感心して、そうだと思うのなら、当のこの発言の内容に対しても、まず疑ってみるべきだということになるはずなのですから。

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