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2018年10月15日 (月)

戦後美術の現在形 池田龍雄展─楕円幻想(1)

Iketatsupos_2  2018年5月 練馬区立美術館でみてきた「戦後美術の現在形 池田龍雄展─楕円幻想」の感想です。
 5月の連休の最終日。この連休に出かけることは珍しい。練馬区立美術館は西武池袋線の中村橋駅の近くで、同じ東京都内でも私の生活圏からは遠く感じられるところにあるので、気楽によることができない。だから、わざわざ出かけるということになる。そうすると、どうしても構えてしまって、かえって行き難くなってしまう。そういう位置づけが私の中にある。今回は、連休で、あえて出かけて、普段は行き難い美術館をハシゴして、どっぷりと浸るような休日を過ごすことにした。けっこう疲れた。
 池田龍雄という画家がどういう人なのかという予備知識は全くありませんでした。興味を持ったのが展覧会パンフレットに引用されている作品の不気味な感じが、水木しげるの妖怪マンガに登場する「百目」というキャラクターを思い起こさせられたからです。しかし、実際に展示されていた作品をみていて、そのような先入観は覆されました。そのあたりのことを具体的に反芻してみたいと思います。
 まずは、主催者あいさつで、この画家の概要の紹介と、この展覧会が池田の作品をどのように見せようとしているのかを確認しておきたいと思います。“1928年に佐賀県伊万里市に生まれた池田龍雄は、特攻隊員として訓練中に敗戦を迎えます。占領期に故郷の師範学校に編入しますが、軍国主義者の烙印をおされ追放にあいました。戦中から戦後の大きな価値の転回に立ち会い、国家権力に振り回され続けたこの体験が、池田の原点を形作りました。1948年、画家を目指して上京した池田は、岡本太郎や花田清輝らによる<アヴァンギャルド芸術研究会>に飛び込みます。以後、文学、演劇、映像とジャンル横断的に繰り広げられる戦後美術のなかで、多彩な芸術家や美術批評家と交わりながら、自らの制作活動を展開していきます。個人として厳しく社会と向き合いながら、一個の生命としての宇宙の成り立ちを想像する。90歳を目前に控えたいまもなお歩み続ける彼の画業は、時代と切り結び思考する苦闘の足跡であり、戦後から現在にいたる日本の美術や社会のありようを映し出しています。”
Iketatsumizuki_2  パンフレットに引用された「巨人」という作品や主催者あいさつを読む限りでは、転換期に翻弄され境界線上で活動したところから特異な造形性を発揮したような印象を受けます。この展覧会のサブタイトル「楕円幻想」というのが、花田清輝の次のようなところから来ていることからも分かります。“我々は、なほ、楕円を描くことができるのだ。それは驢馬にはできない芸当であり、人間にだけ─誠実な人間にだけ、可能な仕事だ。しかも、描きあげられた楕円は、ほとんど、つねに、誠実の欠如といふ印象をあたへる。風刺だとか、韜晦だとか、グロテスクだとか、─人びとは勝手なことをいふ。誠実とは、円にだけあって、楕円にはないもののやうな気がしてゐるのだ。いま、私は、立往生してゐる。思ふに、完全な楕円を描く絶好の機会であり、かういふ得がたい機会をめぐんでくれた転形期にたいして、心から、私は感謝すべきであろう。”そういう面もあるとは思うのですが、実際に展示作品を見た私としては、この「巨人」という作品をもって池田のイメージを代表させてしまうのはどうか、少し違う印象をもちました。まあ、あえてこの「巨人」でみてみると、目があつまった顔がペンの細い線で描かれています。さっきも触れましたが、同じようなアイディアでペン描きの水木しげるの妖怪と共通しているところがありますが、印象は全く違います。水木の描く妖怪にある、おどろおどろしい、おそろしげな印象は薄いのでIketatsumizuki2 す。具体的な違いとして、すぐに分かるのは、水木のマンガは全体として黒い部分が多く基調となっているのに対して、池田の作品は黒い部分が強調されずに白い部分とのバランスが保たれて、スッキリとした印象を受けます。それで、水木のマンガにあるような重さがない、池田の作品には軽さがあるのです。もうひとつは、二人の作家の線の違いです。水木の線は細い線から太い線までヴァリエイションが豊かで、それを画面の中で使い分けていて、それがメリハリを生んでいて、画面の中に溜めをつくっていて、例えば太い線がより黒くなって、そこに視線が集まるようになっていて、それがおどろおどろしさを強調するようになっている。一方、池田の線は細い線が主体となって、溜めを作っていない、そのかわり水木に比べると無機的に映る。池田の場合には、視線が分散するようで、興味はかたちの面白さというのか、視ること自体に、より興味をひかれていくようなのです。水木の場合は、ひとまとまりの妖怪という、ここでのおどろおどろしいイメージがマンガの物語の雰囲気を作っていく際に効果的にイメージを与えているのです。
 主催者のあいさつやパンフレットにあるような意志的にイメージを追求していくというのと、実際に作品に表われているものとの間にズレがあるようで、それが、何か描かれたかたちが描いている池田の意志とは離れて独り歩きしている、そういう描かれた物自体に自立性があるような、そういう不思議さが、私には、この人の作品の魅力なのではないかと思いました。何か分かり難い書き方をしてしまっているのですが、言葉にしにくい。この作品に沿って述べていくしかないと思うので、さっそく作品を見ていきたいと思います。

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