イギリス風景画の巨匠 ターナー 風景の詩(3)~第2章 海景─海岸国家に生きて

「ファルマス港、コーンウォール」という作品は、上述のパターンを踏襲した作品で、こういうのであれば安心して見ていられます。画面右端の手前の左端から真ん中に向けて山が海に落ちていく下り坂の稜線と、雲の線が、同じ向きになって、海の波のように繰り返しになっていて、それが、画面真ん中下の海の水平の白い線、つまり波があって、そこが中心でその先に島が盛り上がって、向こう側
を隠しています。一方、画面左側には手前で人々が海を眺めている。画面の左右で対照が作られています。前のコーナーの作品でも、またこういう作品でも、ターナーという人には、単に風景を写すように描くだけでなく、はるかな向こう側への憧憬、というとロマティックですが、そういう彼岸への志向性があって、それが自然と、このようなパターンを作ってしまっていたのかもしれません。

「嵐の近づく風景」という作品。上のようなパターンにはまった作品を描く一方で、若いターナーは、こんな作品を描き始めていた。町や谷の風景は、海の波のようなダイナミックな動きはないので、それとは違った描き方をする。ここには、牧歌的な風景とは異なる人間のささやかな努力を圧倒するような強大な自然の力をロマンティックな手法で描く、左から右へ覆い始めた暗雲、強風で横倒しになる船、急いで帆を下げようとする人の動き、強大な力を今にも爆発させようとする波のうねりといったものです。また、海には水平線という横の線があって、その向こうは見えないというのは、陸の消失点をわざわざ作らなくて
も、水平線で向こう側があるということも、特異なところでしょうか。「風下側の海辺にいる漁師たち、時化模様」という作品は、波の描き方が、より激しいものとなって、雲の渦巻く様子など、画面のいたるところにダイナミックな動きが人間ささやかな努力を圧倒する自然の力なんですが、それは人間の視点から自然の凄みみたいなものを描くということを超えて、その向こう側にいこうとしている、そういう志向があるように見えます。人間の視点で、ということは自然科学もそうだし、これからそれを克服していこうというポジティブに冷静さみたいなものが底流にある、それが近代的な視点なのですが、これらの作品には、そういうのが追いつかない、もっと圧倒的なもの、人間を超えた超越的な視点に行こうとしているように見えます。それが、私が独断と偏見で見ているターナーの始まりではないかと思います。


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