映画「牯嶺街少年殺人事件」の感想
エドワード・ヤン監督の映画「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件」の感想。
この映画の舞台は1960年の戒厳令下の台湾。蒋介石が共産党との戦いから台湾に敗走し、人民解放軍がいつ攻めてくるか分からないという切迫した時代の空気が充満していた。その台湾では、中国本土から多くの人々が共産党支配から台湾に逃亡し、外省人と呼ばれ、もともと台湾に住んでいる本省人との仲はきわめて微妙な緊張感が張りつめていた。本作の主人公の少年の家族は外省人であり、彼は優秀な成績でありながら中学の夜間部にしか入れない。その中学では、彼と同様の境遇の少年たちが徒党を組んで、暴力構想を繰り広げていた。しかも、同じグループのなかでも内部対立を抱え、事態は錯綜し、混迷を深めていた。その中で、主人公の小四は一人の少女と出会う。登場人物も多数に渡り、粗筋を要約しようとして途方に暮れてしまう複雑な話なのだが、同じカメラアングルで捉えた空間を何度も異なる瞬間に描きだすことで、位置関係や人物関係の推移を表現していて、映画を見る目線は、そこにも吸い寄せられる。例えば、主人公が父親と自転車で並んでいる場面が数回出てくる。そのたびごとの微妙な違いが、父と子がそれぞれに追い詰められていく変化を表わしている。そういう映像が約4時間にわたり、弛緩することを許さないが如く、緊張を強いられる。というより、目が離せない。というと、楽しいとはかけ離れた難しい映画と誤解されそうだが。例えば、少年たちの抗争のなかで襲撃するシーン。台風による暴風雨の夜、停電で真っ暗となった状態で、気配を察した敵側が何本も灯されていた蝋燭を一息に吹き消す瞬間に、暗闇の中で暴力が炸裂する。罵声と共に少年たちは相手に襲いかかるのだが、暗闇の中で、時折わずかな光の中で人影がもつれ合う部分だけか断片的に映る。全部見えないだけに、切迫した緊張と血腥い暴力の匂いのようなものが強烈に感じられる。その禍々しさや生々しさが迫力となって迫ってくる。死の匂いというのか。そういう時間と空間に包まれるというのは、滅多にあるものじゃない。
私は、この映画のどこまでを見れていたのだろう、と見終わった後、途方に暮れてしまい。また、見なくては、見たいと思わせられてしまう。そういう映画だ。私にとっては。
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