ある内部監査担当者の戯言(18)
最近大きな話題となった、高速道路での感情的な行き違いから煽り運転が行われ、追い越し車線に止められた自動車に後続のトラックが突っ込んで死者が出たという事件。ここで、事実と言えるのは、サービスエリアの駐車についてAさんがBさんを注意したこと。Aさん一家の乗る自動車に対してBさんの運転する自動車が突っかかるような運転をしたこと。BさんがAさんの自動車の行先を塞いだこと。Aさん一家の自動車が高速道路の追い越し車線で止まったこと。そのAさん一家の止まった自動車にトラックが突っ込んだこと。Aさんがなくなったこと。これらの事実に関して、客観的はそれぞれの事実で、関係として確実なことは時間的な前後関係くらいしかない。しかし、人は、これらを因果関係という物語をつくって結びつける。それは、敢えて言えば主観的で、立場によって変わってくる。例えば、Aさんが死んだという視点で、これを避けることはできなかったのかという視点で考えられる物語はこうだ。Aさんが死んだのはトラックに突っ込まれたからだ。トラックに突っ込まれたのは高速道路の追い越し車線で車を止めたからだ。何もなければ、そんなところに車をとめることはない。普段ならない何かがあったからで、それがBさんが道を塞いで止めざるを得なかったからだ。だから、Bさんが道を塞がなければ、事故は起こらなかった。だから、Aさんの死の原因はBさんの行為にある。他方、Bさんの行為の視点からみれば、違った物語となる。BさんはAさん一家の車の前方を塞いだ。Aさん一家の車は直進できなくて車を止めた。そこまでは、Bさんの意思した範囲といえよう。しかし、トラックが突っ込んだのは、それとは違う。もし、トラックが突っ込んで来なかったら、Aさんは死ぬことはなかった。つまり、BさんはAさんの前を塞ぐという同じ行為をした場合で、トラックが突っ込んできたらAさんの死亡の責を問われて、トラックが突っ込んでいなければ問われない。同じ行為をして場合によって結果が違うということになる。その違いは偶然ということ。
この二つのものがたりの、どちらが正しいとも、真実ともいえない。しかし、それを裁判というパブリックなところでこうだと決めた。つまり、たくさんの物語があるうちのただひとつの物語を正しいとして権威づけた、ということになる。
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